
〈知者のごとく思索し、しかしだれもが使う言葉で語れ…ふつうの言葉を用いて、非凡なことを語りなさい〉
これはドイツ文学者のショーペンハウアーが文筆を仕事にする人に向けて述べたもの。
定期購読している月刊誌に言語学者金田一秀穂氏の「巷のにほん語」という連載のコラムがある。
まさに時宜というか世に現在進行形として流布する言葉を俎上に乗せて辛口に論評する。
そして誤用の問題や元来の意味についての本質を歯切れ良く断ずる。
以前、「スピード感」をテーマにした時は次のようになる。(部分の抜粋)
《速いようにみえるようにしたい》
この頃、「スピード感を持って解決したい」という言い方をよく聞くようになった。なんだか変だ。(略)
「スピード感を持って解決したい」というのは、「速いように見えるように解決したい」ということで、本当に速いかどうかは置いておく、見ている人がどう思ってくれるかを気にしています、という告白である。それでは困る。(略)
「緊張感を保ってしっかりと検討したい」、「緊張感を持って事に当たるように指示した」と言っている大臣はどう思って緊張感という言葉を使っているのだろうか。(略)
《緊張感はカッコいい》
緊張感は緊張しているわけではない。(略)
しかし、緊張感を持ってと言うと、何やらカッコいいように思える。軽薄である。
ほんとうに素早くやってもらいたい。見せかけでなくやってほしい。手抜きせずにしてほしい。
見てくれは忘れろ。見せ方はどうでもいい。
実質が問題なのだ。それを私たちは見ているのだ。
ざっとこんな感じ。
たとえば具体的かつ、平易で明快な言葉を用いて、誰にも見通しが共有でき、納得できるように。
ときには表情豊かに感情を込め、要点を絞って、暖かさと思いやりを持って向こう側にある目と耳に呼びかけ訴える。
“人の振り見て我が振り直せ”と、自戒しつつ。
もうだいぶ時が過ぎたと思うほどにまだこの一月 (居山聞涛)


