
家の周りには野菊がたくさん咲いている。どれも愛らしい小さな花だが、よく見ると花弁の大きさや色合い、葉形の微妙な違いなどから我が家には3種類ほどあることが分かる。これは葉の切れ込み具合からするとユウガギクだろうか。しかし、ノコンギク、カントウヨメナ、ユウガギク…なかなかその区別を明確にすることは素人の私には難しい。いっそ「野菊」の方が文学的情緒的味わいがあっていいのかも知れない。
野菊というと伊藤左千夫の「野菊の墓」を思い出す。といっても原作ではない。中学の時、学校の映画鑑賞会で観た「野菊のごとく君なりき」の思い出である。
いとこ同士の政夫と民子に仄かな恋心が芽生える。初めて二人きりになれたとき、「民さんは野菊のような人だ。僕は野菊が大好き……」と政夫は民子を“野菊”に喩え、民子は政夫を“リンドウ”に喩える。淡い恋を隠喩的な表現で心の内を伝え合う。今ではこんな奥ゆかしい恋物語などないだろう。携帯で、メールでダイレクトに自分の思いを相手に送る時代である。
しかし、そんな二人の仲は周囲の大人達によって引き裂かれる。結末は、心ならず町の資産家に嫁ぎ、悲しみに打ち拉がれ病に倒た民子の死。その彼女の胸には、しっかりと、リンドウと政夫の手紙が抱きしめられている
その純愛に涙を流した、遠い少年の日の記憶である。
野菊には悲哀の物語を生みだす何かがあるのだろうか。昨日は霜降、目を移せば遠くの峰々も雪化粧をし始めた。秋もいよいよ深まりゆく。