
石垣りんに『用意』という詩がある。
それは 凋落であろうか
百千の樹木がいっせいに満身の葉を振り落すあのさかんな行為
太陽は澄んだ瞳を
身も焦がさんばかりにそそぎ
風は枝にすがってその衣をはげと哭く
そのとき、りんごは枝もたわわにみのり
ぶどうの汁は、つぶらな実もしたたるばかりの甘さに重くなるのだ
秋
ゆたかなるこの秋
誰が何を惜しみ、何を悲しむのか
私は私の持つ一切をなげうって
大空に手をのべる
これが私の意志、これが私の願いのすべて!
空は日毎に深く、澄み、光り
私はその底ふかくつきささる一本の樹木となる
それは凋落であろうか、
いっせいに満身の葉を振り落とす
あのさかんな行為は―
私はいまこそ自分のいのちを確信する
私は身内ふかく、遠い春を抱く
そして私の表情は静かに、冬に向かってひき緊る。
庭の木々の姿を見ていて、その詩を思い出していた。
葉が落ち、色をすっかり失い、容姿を変えた樹。
然しそれはけっして凋落ではないと。
衰え、落ちぶれ、沈む形ではないと。
それはリスタートの「用意」なのだ。
それは新たな気力の「粋」なのだ。
自己の生を振り返り、また新たな出発のための一年に一度のセレモニー。
人にもそんな「いのちの秋」が必要かもしれない。
人にも時々の四季が必要かもしれない。
逝く秋の風をききおり風の中 (阿部洋子)