
朝が氷点下となる。
日一日と目に映る景色は色や形を変え季節が足早に動いていることを知らせる。
遠くから声を掛ける冬に、深色に染まった秋は身支度を整え始めている。
ところで、東山魁夷は自分と風景と絵について、著の中で次のように述べている。(『風景との対話』より)
絵になる場所を探すという気持ちを棄ててただ無心に眺めていると、相手の自然の方から私を描いてくれとささやきかけているような風景に出会う。
その何でもない情景が私の心をとらえ、私の足を止めさせ、私のスケッチブックを開かせる。
この一見、単純な出会いは偶然なのだろうか。風景との無言の対話の中に、静かに自己の存在を確かめながら、こつこつと歩いていくという生き方は、今の複雑な高速度の時代の歩みからは外れているかもしれない。
しかし美を素朴な生の感動として見る単純な心を私は失いたくない。
また落葉松林に寄せて次のように記す。(『わが遍歴の山河』より)
からまつの林が好きだ。(略)
春の明るい空にとけこむ梢。やゝ黄土色を帯びた芽生えはこの上もなく柔らかい。(略)
新緑の頃は、かつこうやほとゝぎすが終日鳴きくらす。林の下を爽やかな風が吹き抜けてゆく。(略)
夏は平凡だが、風にざわめく枝をとおして、白い河原、清らかな流れを見下ろすのは涼しい。(略)
秋も半ばを過ぎ、葉が黄褐色になると空は白い雲を浮かべて益々青く深く澄み渡る。(略)
冬は痩せて寒そうだ。(略)
然し、真直な幹に左右に均整の穫れた枝が、どれも同じような形でいながら、よく見ると無限の変化を持つ。
自己の存在を確かめながら、風景と対話した魁夷。
たとえば 1982年作の『緑響く』は蓼科高原の青い御射鹿池に歩く一頭の白馬を描く。
水面は鏡となって馬と木々を上下反転させて映し出している。
その白馬はもしかしたら魁夷自身かもしれない。
たまには心を動かし自己の存在を呼び覚ます自然に身を置いて、ゆったりとした気分で無為の時を過ごすのもいい。
からまつ散る縷縷ささやかれゐるごとし (野沢節子)


