
昔から高村光太郎が好きだった。
詩人としての、彫刻家としての、美術評論家としての、さらには人間光太郎が。
霜降る晩秋、『美について』を取り出し読む。
錆を落とすように。
「言葉の事」
言葉は生き物であるから、自分で使つてゐながらなかなか自分の思ふやうにはならず、むしろ言葉に左右されて思想までが或る 限定をうけ、その言葉のはたらきの埒外へうまく出られない場合が多い。
人間の心情にはもつと深い、こまかい、無限の色合いがあるのに、言葉はそれを言葉そのものの流儀にしか通譯してくれない。
心の中の盡きせぬ思ひがどうしても口にそのまま出せないが、胸を裂いて見せたいと、昔からたくさんの戀人達が嘆き口説いてゐる。
言葉は人間に作られたものでありながら、獨立したもののやうに勝手に動いて、人間の表現力を制肘し監督して、これにお仕着せをさせる。
「美」
世人の普通考へてゐるやうな眼や感情に、ただ綺麗に見える事物を直ちに美なりとする考へ方を、もう一歩深めてもらひたいと熱望している。
美とはけっしてただ綺麗な、飾られたものに在るのではない。事物のありのままの中に美は存在する。
美は向こうになるのではなく、こちらにあるのである。
綴られた中から琴線に触れる一節をこうして書き留める。
光太郎に次の言葉がある。
「こころはいつでもあたらしく毎日何かしらを発見する」
光太郎のようなそんな日々の中に歓びや感動や感謝や美を感じる生き方をしたいものである。
ところで私はよく使われる「老後」という言葉になじめない。
“定年したら、第2の人生を豊に送るためにも、老後の生活設計を”、こうした文言等を目にする度に…。
たとえ齢の多くを重ねても、個人にとっては、今は今である。
その瞬間、その場、その関係性の今(いま)こそを生きている。
たとえ体は不自由になったとしても。
たとえ認知に衰えが出てこようとも。
それぞれにとって生きているのは今、その時。
老いには重い歴史と深い皺に刻まれた今がある。
若さには無かった、知らなかった、見つけられなかった、あらたな「老今」がある。
「老い」てもなおかつ、「こころはいつでもあたらしく毎日何かしらを発見する」。
「老の世界」にもいつでもあたらしい時の心とあたらしい美がある。
私の生活事典に「老後」という項目は記載しない。
人生の秋を思索し、創造し、散策する。
ありのままの中のありのままの自分で。
晩秋の誰が私を暖める (高澤晶子)


