
「坐忘」 坂村眞民
坐シテ年ヲ忘レヨ
坐シテ金ヲ忘レヨ
坐シテ己ヲ忘レヨ
……(略)
(『自選 坂村眞民詩集』より)
子どもの頃、私は父の賀状書きの手伝い役だった。
着物姿の父が座卓の前に正座し、筆で一枚一枚丁寧に書いていく。
自在に筆が動き、達筆な文字で埋められていく。
もちろん行書で書かれたその中味は読めようはずもないが、そんな父を私は尊敬の念をもって見ていた。
それを受け取り、座敷の畳の上にきれいに並べていく。
墨が乾くと、列ごとに重ねてまた硯の横へ揃えて置く。
すると今度は宛名書きである。
こうしてできあがった賀状を自転車に乗って郵便局へ行き、投函するまでが私の役目だった。
末っ子の私にとってはそれが当たり前になっていた毎年の暮の行事だった。
パソコンを使うようになった今では記憶の映像の中に残る少年の私と父との懐かしい思い出である。
父が着ていた大島紬の羽織と着物は形見として私の箪笥の抽斗にある。
年が行き、年が来る節目のこの時期に合わせて着る。
雪が積もっている。
真紅のカランコエがテーブルの上にある。
世のつねに習ふ賀状を書き疲る (富安風生)