ノギク(野菊) ~道無窮~
- 2013/10/14(Mon) -
野菊

普段はテレビをほとんど見ない私である。
リモコンは家人の手に委ねられているのが日常だ。
故に、私がテレビのスイッチを操作することは希なことである。
2日前のことだった。家人は出かけている。
一仕事を終えて気持ちのいい午後の静かなひととき。
何気なく付けたテレビに流れたタイトルは「-人生に光あり-こころの時代」。
その中に愛知専門尼僧堂長 青山俊董師の名を見つけ、思わず背筋が伸びる。
その昔、講演会に何度か足を運び、その度に感銘を受け心を導かれてきたからである。
急いで紙を用意して、メモを取りながら目を向け耳を傾ける。

  苦しみや悲しみは自らのアンテナを高くしてくれているということである。
  何かを欲しがるのではなく、既に授かっているものに気づく。
  「今、ここ」それだけ。果を待たない。ただただやるだけ。
  限りなきよき因を積み重ね、限りなき一歩という因を踏み続ける。
  「参学眼力の及ぶばかりを、見取会取するなり」。
  ものは自分の持ち合わせの寸法でしかいただけない。
  自分のそのわずかな範囲でしか得られない。
  自分の物差しを伸ばしていく。
  時間を掛けて参究し続ける。
  「今の一当は百不当の力なり」。今に至るまでにある過去を思う。
  「松影の暗きは月の光なり」。暗いほどに光の尊さに気づく
  光に目を向ける。光を自分の足許に向ける。
  返照。照らされたお陰で自分がわかる。
  心の運びが足りない自分に気づく。
  肉眼は他の非が見える、仏眼は自己の非に目覚める。
  「修・証」。修を通して証がある。
  一歩足を前へ出せば、体は自然に前に出る。
  ……………

1時間の番組だった。5月の再放送だという。
エンディングが流れるところで家人は帰ってきた。
鉛筆を走らせてみたものの、とうてい整った文にはなっていない。
しかし、その殴り書きの行間を埋めてつなげることで、師の意とするところは自分の中に消化できたように思う。
「道無窮」。道窮り無し。続けることだ。
7年前に買い求めた師の著、『花有情』を本棚から出して秋の章の一節を開いてみた。
       「光に会う」
   光のおかげで月も輝くことができ、雲も表情をゆたかにすることができ、虹の橋もかかることができ、
  露も枯れ草も輝くことができるのですね。
   人も光に会うことによって自分の黒い影に気づくこともできれば、自分の進んでゆくべき道を知ることもできるのです。
  そのような光に照らされ、光に導かれて進む人もまた、人々の中にあって光となる人なのでしょう。

秋の章には他の花に添えて野菊が活けられてあった。
今、私の庭のそこかしこにも野菊が咲いている。

   名もしらぬ小草花咲く野菊かな   (山口素堂)

メモ

花有情

野菊  

野菊 
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