
私の中に「わかされ」という言葉が入ってきたのは、中学生の時のことだった。
「わかされに立つ」(多分そうだった)の随筆が国語の教科書に載っていた。
筆者は忘れたが、「わかされ」という言葉が今でも脳裡の抽斗にあるのだから、よほど心に残る印象深い言葉だったのだろう。
「わかされ」とは「分去れ」、離れること、分岐、分かれ道という意味だと記憶している。
信濃追分にその碑があるのだと著述されていた。
「さらしなは右 みよし野ハ左にて 月と花とを 追分の宿」
右行けば名月姨捨の更科から善光寺へ、左は花一目千本の奈良吉野へと続く道しるべ。
江戸からの旅人がこの地に立って、自分の行き先を確かめたという。
ひとつの言葉から、教室の風景、自分の座席の位置など少年の頃の記憶も甦る。
ところで私たちは一瞬一瞬、人生の中の小さなわかれ道に立っては進むことを繰り返しているのではないか。
右に行くか左に行くか、私たちは知らないうちに自分の人生を創っている。
一瞬一瞬の小さな選択行為の積み重ねが、いつの間にかその人の一生になっている。
例えば、一つの言葉を口にする時、私たちはたくさん知っている言葉の中から、それを取りだしている。
何かしようとする時、たくさんの事の中から、まずそれをしようとする。
私たちは、その時々において、あらゆる可能性に包まれ、そして選択の意志と行動を求められている。
道徳的価値や精神の強弱、表現の世界も最初のほんのちょっとの選び方の違いでどうにでもなってしまう。
しかしまた、選ぶということは、選ばなかった他のすべてをあきらめることでもある。
一度に二つのことは同時にできない。
過去を選び直すこともできない。
時の進行だけは、どうにも選びようのないものとして、その他のすべてを選ぶように私たちに迫る。
磁石がいつでも北をさすように、時と場において一瞬の選択を誤らないような、そんな指針をいつも自分にもっていたい。