
15年ほど前だろうか、富田富士也(カウンセラー)氏の文に触れた。
「原風景」と題するコラムである。
「原風景」 富田富士也
八方手を尽くしてもどうすることもできないことに、人は時には遭遇する。
どんな理不尽、不合理でもただ耐え忍ばなければならない時もある。
悔しさをこらえ、娑婆の孤立無援の現実を背負う時、だれか一人でいい、アドバイスも励ましもいらないから、わが身にしっかり寄り添ってくれる支えがほしい、と人は心の底から願う。
つらく、悲しく、心細く、不安な時、自分を見守り、「見捨てないよ」と傍らで手を尽くしてくれた人との思い出を、私は「原風景」と呼んでいる。
その記憶に支えられていると、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされても、それに思いをはせ、生き直しができる。
だれもが自分から離れていっても、「あの人」は自分を信じてくれる、そう確信を抱けるのだ。
(以下略)
そのコラムのコピ-が机の中から出て来た。
書類を片付けながら、読み返す。
「あの人」は自分を信じてくれる…。
そういう確信。
「見捨てないよ」…。
なぜ?どうして?と、自分に起きたことのその現実が受け入れられない。
奈落の底へ突き落とされたかのようなとてつもない苦しみ。
そんなはずではなかった、これは何かの間違いだと激しい苛立ちが外に向かう。
そして思考は自己を卑下し能力のなさを責め立てる。
蝕まれていく精神。
自分の中で描くシナリオは暗澹たる結末。
誰にでも起きうる突然の不幸。
誰にでも起きうる耐えきれない鬱屈
誰にでも起きうる先の見えない不安。
誰にでも起きうる容赦ない重圧。
それらを支えてくれる、守ってくれるという「原風景」。
人生の中にも春夏秋冬が廻る。
だから生きる。