
「満目蕭絛の美」 高村光太郎 (昭和6年12月)
冬の季節ほど私を底知れぬ力と、光をつつんだ美しさとを感じさせるものはない。
満目蕭絛といふ形容詞が昔からよく冬の風景を前にして使はれるが、
私はその満目蕭絛たる風景こそ實にいきいきとした生活力を感じ、心をうたれ、はげまされ、限りない自然の美を見る。
(略)
葉を落とした灌木や喬木、立ち枯れた雑草やその果實。
實に巧妙に微妙に縱横に配置せられた自然の風物。
落ちるものは落ち、用意せられるものは用意せられて、
何等のまぎれな無しにはつきりと目前に露出してゐる潔い美しさは、およそ美のなかの美であろう。
彼等は幸水を持たない。ウヰンクしない。見かけの最低を示して當然の事としてゐる。
私はいつも最も突き進んだ藝術の究極が此の冬の美にあることを心ひそかに感じてゐる。
(略)
(『美について』 道統社 昭和17年2月20日発行 より)
展覧会への作品搬入と飾り付けを済ませる。
各界関係者のテープカットのセレモニーも無事終わる。
多少の疲労感を感じながら、雪道を慎重に運転して家路につく。
車を庭の中途で駐める。
雪かきをしなくてはならない深さだったからだ。
そのまま作業用に着替え、長靴に履き替え帽子と手袋を着けて手押しのラッセルを持つ。
小一時間ほど、家の周りから畑まで雪を片付けるとネックウオーマーの中は汗をかいている。
道具を片付け、肩に乗った雪を払って車を奥に入れる。
少し歩く。
紫陽花はかき氷のようだ。
鬼灯も埋もれている。
人の手では決して作り出すことのできない風景。
これが光太郎の言う「満目蕭絛の美」なのだろう。
ガラス張りて雪待ち居ればあるあした雪ふりしきて木につもる見ゆ (正岡子規)

