ダンギク(段菊・Common Bluebeard) ~くすぐる 秋のかなしみ~
- 2010/09/30(Thu) -
だんぎく

『定本 八木重吉 詩集』より

    「秋」
  秋が くると いうのか
  なにものとも しれぬけれど
  すこしずつ そして わずかにいろづいてゆく
  わたしのこころが
  それよりも もっとひろいもののなかへ くずれゆくのか

    「秋の かなしみ」
  わがこころ
  そこの そこより
  わらいたき
  あきの かなしみ
  あきくれば
  かなしみの
  みな おかしく
  かくも なやまし
  みみと めと
  はなと くち
  いちめんに
  くすぐる あきのかなしみ

空の色は澄み渡りてあきらかとなる。
稲も木も実りを迎え、あきみちる。
草葉はあかきくいろづき。
「あき」と声に発せば、その音も淋し。
「あき」と文字に書けば、その言葉も哀し。
人も秋の心。
愁いにみつ。

段菊に小さな虫が遊ぶ。
彼らに言葉があるのなら、「秋」をどう表すのだろう。

     かんがふる一机の光九月尽 (森 澄雄) 

段菊 

ダンギク
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キク(スプレー菊・ベンチャー) ~心静まる日あり~
- 2010/09/29(Wed) -
黄菊 ベンチャー

  『定本 八木重吉 詩集』より

     秋
  (秋)
  こころがたかぶってくる(と)
  わたしが花のそばへいって咲けといえば
  花がひらくとおもわれてくる

     影
  秋
  地にひろがる
  ひかりをみていたらば
  影もおちていた
  かげと光は
  ころころと あそぶ

     ○
  秋空を見て心静まる日あり


暦の上では、もう秋の3分の1が終わる。
今年は夏が前に閊えて、訪れるのがあまりにも遅かった。
ようやく歩を進めたかと思えば、次の秋が背を押してくる。
朝夕の気温と日の暮れに、その迫る加速を確かに感じる。
ぽつぽつと菊も咲き出した。

    黄菊とは蕊に籠もれる黄なりけり (久米三汀)

黄菊 ベンチャー
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シュウメイギク(秋明菊) ~人生についてのプロ~
- 2010/09/28(Tue) -
秋明菊

安岡章太郎は雑誌のインタビューに答えて次のように語っている。

  ぼくは50歳を越えた頃から,少しずつ、ものが見えてきたような気がする。
  60代になって、ようやく、ああ、こういうことを昔の自分は知らなかったんだな、とか。
  いまにしてわかる、といったことがよくあったなあ。
  たとえば、20代ぐらいの若い時は、女の子とつき合っていてウマクいかなくなるとする。
  そんな時、なんで自分が嫌われたのか、まるきりわからない。
  それが、30代になった頃から、自分の悪い点が少しずつ、部分的に、気がつくようになる。
  50代になってくると、そういうことが頻繁に起こる。
  全体にわかってくるんだな。その代わり、イマジネーションの形態は変わってくる。
  想像力が外に拡散するのでなくて、内側に潜行するんだ。
  そんなに深くはならないにしても、とにかく内に向かう。

  歳をとると体力は衰えるけど、それに反比例して得るものもあるんですよ。
  それはある種の認識力でしょうね。

  50代になると人生についてプロになってくる。
  人を見ていてても、その人の裏側、背後が多少とも見えてくる。

小さな出来事や周りの人の行いに、つまらぬ感情が顔を覗かせたりするのが現実。
事象、事例に対し、皮相なとらえや単眼的な思考を後悔することも多い。
言いたいことをいう前に、もっと言葉を咀嚼し、言葉を選べばよかったと悔やむことも数え切れない。
たとえばテレビの場合、何台ものカメラで撮影し、その中一番いい場面を映した映像を放映するように。
複眼的な洞察により、様々な角度から思考し、取捨統合して言葉が発せられるようになれるといいのだが。
達観の境地など、いたるにはまだま未熟すぎる。
「人生のプロ」になるのはむずかしい。
あらゆるものへの認識力を高め、自らの智慧と腕(かいな)を磨くしかない。

白い秋明菊が咲いた。
桜や柿の葉が舞い落ちる。
秋の形も目に見えるようになってきた。
栗ご飯だった。
秋を味わう。

    片づけて秋明菊を挿しにけり (黒田杏子)

シュウメイギク
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龍虎図屏風(橋本雅邦画 重文)~『三菱が夢見た美術館ー岩崎家と三菱ゆかりのコレクション』展)~ 
- 2010/09/27(Mon) -
橋本雅邦「龍虎図」右「龍図」
                                    橋本雅邦「龍虎図屏風」右隻「龍図」静嘉堂文庫美術館蔵
橋本雅邦「龍虎図」左「虎図」
                                    橋本雅邦「龍虎図屏風」左隻「虎図」静嘉堂文庫美術館蔵

橋本雅邦描く、六曲一双の《龍虎図屏風》である。
激しい気迫を見せて龍虎が対峙し、画面全体に張り詰めた緊張感が漂う。
右隻には龍が挑みかけるように波しぶきの上に浮かぶ。
左隻には虎が待ち受けるかのように岩の上に立つ。
龍の眼から雷光が発せられ、虎に向けられる。
虎は全身の気を楯にしてそれを受け止める。
勢いよくうねる雲と怒濤の中から姿を見せて迫る龍。
微動だにせず、激しい風雨に弓なりに撓る竹を背に泰然と見据える虎。
両雄それぞれの視線は一直線にぶつかり合う。
龍の伸びた首と爪をむき出しにして開いた脚は、今にも飛びかかりそうで瞬時も目が離せない。
虎は筋肉の盛り上がった肩と脚に力を漲らせて瞬発を備える。
前に立つ見る者の息をも飲み込ませるほどの臨場感と迸る生命感。
まさに、風雲急を告げるが如し躍動感に満ちあふれた作品である。

これが描かれたのは1895年 (明治28年)、雅邦は当時東京美術学校教頭職にあった。
ちょうど菱田春草が卒業制作「寡婦と孤児」を描き、その優劣を巡り、大論争を巻き起こしていた年である。
審査会の折、教授福地は「こんな作は絵ではない。化け物絵」だと評し落第点を主張した。
それに対し、雅邦は「こんなうまい絵はない」として一歩も譲ず、大変な激論になった。
その時ばかりは温厚な61歳の雅邦が烈士の形相だったと言われる。
双方の主張がぶつかり合い、結論を得ず、校長の岡倉天心に判断を委ねる事となった。
天心は最優等を与え、雅邦は「わたしがにも描いてもこれほどにはできまい」と嘆賞したと伝えられる。
しかし、これが後に天心が校長職を殉じ、雅邦を含め多くの教授達が連袂辞職する紛擾事件に繋がっていく要因になる。

あらためてこの絵を見ると、雅邦の内にある動と不動の両方の心、あるいは強固な意志が表出されているようにも思われる。
作品を描く、表現するということの作家のあるべき姿勢とコンセプトの重要性をこの絵は示唆してくれる。
求められるのは、ただ単に美しいとか、きれいだとかいうだけの作品ではない。
作家が情熱を持って描かれた作品は、鑑賞する人の目を釘付けにし、心に深く刻まれる。
絵が分かるとか分からないとかいう次元を越えた、作家の深い精神性が太鼓の振動のように響き入ってくる。
感動を生む本物がそこにある。
昨今、そんな重みのある作品、作家の心が伝わる作品が少なくなってきている気がする。

東京丸の内のオフィス街に爽やかな秋風が吹く。
この一枚を見るためだけに出かけたとしても、意味のある休日であり、価値ある時間であった。

    秋は美術の石柱(ひらし)を囲む人ごころ (石原八束)

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クリ(栗) ~自分がどこから来たのか~ 
- 2010/09/26(Sun) -
くり

故郷について藤沢周平は次のように語っている。

啄木ではないけれど、故郷の自然というのは、母乳みたいなものです。
それがなかったら育たなかった、というひじょうに有り難いものなんです。
私は山あり川ありという田舎に生まれて、幸せだったなあと思います。
故郷の自然は私に美しさだけでなく、近づくと危険な場所や、美しくても毒のあるきのこの存在を教えてくれました。
人間としての感性や智慧を故郷の自然が少しずつ、育てていってくれたような気がします。
人生には自分のアイデンティティーを要求される非常にむずかしい時期がありますが、
そういう時、私は故郷のことを書くと気持ちが落ち着きます。
自分がどこから来たのか、書いているうちにわかってくるんですね。

自分のアイデンティティーを考えたとき、今ある場所でなく、どうしてもあの風や花や空と海が浮かんでくる。
ドブ(今はそんな言葉はもう使わないかも知れないが)や舗装されていない白い道さえも懐かしい。
ギッチョウや十五夜の子ども遊びなど、すぐにでも過去に戻って、参加できる。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」と故郷は死ぬまでやはり故郷である。

今年も栗がたくさんだ。
だいぶ落ちてきた。
拾って栗ご飯とするか。

        三つほどの栗の重さを袂にす (篠田悌二郎)

クリ

クリ 

くり 
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モロヘイヤ(シマツナソ・縞綱麻) ~一色一香も中道にあらず~
- 2010/09/25(Sat) -
モロヘイヤ

“一色一香も中道にあらず” とは哲学者、中村元(はじめ)がその著で紹介していた言葉だ。
摩訶止観の中にあるという。
その意味について次のように解説する。
  ここにひとつの花が咲いている。
  その色が見え、香りが感じられる。
  この小さな花の色と香りが、宇宙の真理を具現している。
続けて解説する。
  非常に小さなものでも大宇宙を示している。
  つまりひとつの花が咲くのでも、突然現れたわけではない。
  そこには核となるものがあり、無数の条件、原因があるというのだ。
  一人の人間が生きるのも、無限の核とつながっており、ひとりひとりの中に、偉大な過去が生きている。
  大宇宙が、小さな人間の中に生きている。

花にも宇宙がある…。
花に留まる蝶にも宇宙がある…。
小さな私にも宇宙が…。
難しいことはよくわからないが、そんな大きな懐と視野と感性でもって周りを見て感じられるといい。
金子みすゞはきっとそんな人だったのだろう。

モロヘイヤの黄色い小さな花に紋白蝶が留まる。
そこにも一色一香の宇宙があるというのだろう。

出勤の朝、初めて車の暖房スイッチを入れた。
脚冷えの私にそんな日がやってきた。

     いよいよに脚を温めん秋の朝(文)

モロヘイヤにモンシロチョウ

もろへいや 
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バラ(薔薇) ~雨の中にありて淋しき九月の薔薇~
- 2010/09/24(Fri) -
雨の紅薔薇

激しい雨が降った。
気温が一気に下がった。
続く長い真夏から、秋冷えへの突然のジャンプに困惑する。
急いで長袖を何枚も引き出す。
最近では着るものも季節を飛び越え、いきなり夏物冬物になったりする。
「目にはさやかに見えねども」と、少し前までは季節の移り変わりは緩やかだった。
春秋の装いは、明るさに向かう華やぐ思いと、彩りを深めゆく感傷の思いを映し出すものなのだが…。
両端の二季の歩幅がそれぞれに延び、間の二季はその分を縮める。
さすれば間着(あいぎ)などという言葉も死語になるのかも知れない。

雨の強弱を見計らって庭に出る。

薔薇も雨の中にある。
見ながらも片方の腕はもう一方の二の腕をさすっている。
今日着る服に少し迷う。

     雨薔薇に秋冷いたる昼三時 (文)

雨の朱薔薇
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リコリス(オーレア) ~しみじみと立ちて見にけりけふの月 (鬼貫)~
- 2010/09/23(Thu) -
リコリスオーレア  

昨夜のこと、勤めを終えてハンドル握るサイドガラスにはくっきりとした丸い月が同行する。
十五夜の名にふさわしい明月だった。
それぞれの地で、それぞれの思いをもって、それぞれの人が見ていたことだろう。
家に着き、ドアを開けると、車から踏み出す自分の足に影ができる。
そのまま部屋に入ることももったいなく、物語に出でてくるような優しい顔だちの月を眺める。
しばし童心に返る。

夕食を済ませ、しばらくすると、突然の雷鳴と激しい雨。
一転して、空は雨十五夜。
急いで、開け放たれたあちこちの窓を閉めるも、すでにカーテン、廊下が濡れている。
薄とお団子も退散。

今日は父がいて、母がいて、心の灯火に静かな時が流れる秋彼岸。
あの顔、あの声は今も目の前にある。
遠くにありて故里思う。

     吹く風に彼岸花のある遠い時間 (文)

リコリスオーレア
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ムラサキシキブ(紫式部) ~古き世の色~
- 2010/09/22(Wed) -
むらさきしきぶ

小さな丸い実が枝に沿ってびっしりと付いている。
紫色の艶やかなムラサキシキブの実。
澄んだ空気に似合う素敵な色だ。
その色に人はいにしえの佳人の名を託す。

雅の世界の中で繰り広げられる恋の物語。
秘めた恋、引き裂かれる恋、身を引く恋、主張する恋、控えめな恋…。
花に寄せて歌にし、物を仮借し謎かけてその思いを伝える。
時には打算と駆け引きと強引な要求を押しつけもする。
いろいろな形の恋。
様々な感情が交錯する恋。
一つの言葉では単純に形容できない人の恋。

この実、ふた月前には薄いピンクの可愛い花だった。

      紫は古き世の色式部の実 (山本鬼園)

ムラサキシキブ 

ムラサキシキブ  

ムラサキシキブ
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ホオズキ(酸漿・鬼灯) ~秋の色一つ二つと~
- 2010/09/21(Tue) -
ほおずき

赤く色づいたほおずきです。
先のとがったふくろです。
逆光にきれいな透かし模様です。
何を感じましたか?
……。
何を思いましたか?
……。
たくさんのほおずきですね。
口に含んで鳴らしたことが…。
そんな遊びもありましたね。
上手に中身を出して…。
縁日に夜店で売っていましたね。
セピア色のアルバムの中です。

   ほおずき (文)

  ほおずきポン
  ほおずきポン
  お口とんがりスーッスーッ
  ほっぺふくらみプーゥプーゥ
  ポンスーップーゥ
  ほおずきポン
  ポンポンポン

青かったほおずきも秋の色に。

  少年に鬼灯くるる少女かな (高野素十)

鬼灯

酸漿

ホオズキ
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リコリス(曼珠沙華・彼岸花) ~彼岸入り~
- 2010/09/20(Mon) -
曼珠沙華

「少(わかく)くして学べば則ち壮にして為すことあり。 壮にして学べば則ち老いて衰えず。老にして学べば則ち死して朽ちず。」
これは幕末の儒学者、佐藤一斎の『言志四録』にある一節だと、その昔知った。
学ぶということに卒業はなく、いくつになっても学び続けることの重要性を説く言葉である。
続けること、繋げること、繰り返すこと、投げ出さないこと、諦めないこと…。
それらがいかに自己の人生を豊かにする上で大切であるかということは、誰もが承知している。
それらが自分という人間を太く、強く、深くし、そして高めるかということをも理解している。
あとは意志だろう。
そして行動であろう。

昨日読んだ本の中に林芙美子の言葉が紹介されていた。
「毎日書かないと書き癖が消える」と。

私も毎日書く。
それは心の掃除。
自己確認の作業。
私も制作を離れない。
無から有を生み出す。
余分を削り、実相だけを彫る。
それは心を形にして表に出すこと。

今日は彼岸入り。
時に呼応するかのように、曼珠沙華も揃って咲いた。
赤トンボを見た。

   こころとは毬のようなり曼珠沙華 (金子皆子)

マンジュシャゲ

まんじゅしゃげ
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ユウゼンギク(友禅菊) ~9月19日「糸瓜忌」~
- 2010/09/19(Sun) -
友禅菊 

これは友禅菊。
遠目にはほとんど白く見えるが、ほんの僅かに薄い青紫を帯びている。
花は長く咲き続け、しばらくの間、秋庭の点描の一つとなる。
そこへ黒い艶やかな虫が来て留まる。
クロウリハムシ(黒瓜葉虫・黒瓜金花虫)だ。
小さく可愛い虫だが、実は少しやっかいな食いしん坊。
放置すれば花びらが形を失って仕舞う。
捕らえて…しかたない。

今、手元には『墨汁一滴』と『仰臥漫録』の二冊の本がある。
正岡子規の随筆と病床記録である。
三連休、部屋に入り込む爽風に寛ぎつつページをめくる。
綴られるのは怜悧な思考とそぎ落とされた表現と、そして苦悩する闘病。

研ぎ澄まされた鋭い感性。
言葉一つへのあくなき執着。
砥石でこすられたようなもがく魂。
モノやコトやヒトへの高感度の受信センサー。

読むほどに感嘆を飲み込むばかり。

   糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
   痰一斗糸瓜の水も間にあはず

明治35年(1902年)9月19日死去。享年34歳。

友禅菊  

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心の天気図 ~ケイトウ(鶏頭)~
- 2010/09/18(Sat) -
ヤリゲイトウにセセリチョウ

ちょうど世の中がバブルでかまびすしい頃だったと思う。
『明恵 夢を生きる』など、私は河合隼雄の著を何冊か読んでいた。
まだ本棚に残っている。
その中の一冊『こころの天気図』を手に取る。
順序だって1ページからというのでなく、どこから読んでもいいような構成になっている。
各章の扉に掲げられた短い文だけでも、まさに人の「こころの天気図」の等高線が描かれる。
 
  ここで こうしている「私」とはいったい何なのだろう?
  そして たったひとりの「私」のまわりのたくさんの「あなた」たちとは?
 
  「私」がいて 「あなたが」いる
  たったひとりの「私」だけれど「あなた」たちがいなくてはいきていけない

  人には 男と女がいる 人には 男と女しかいない
  当たり前なのに 不思議 不思議だけれど当たり前

  ちいさいころ ちいさな秘密も 大きくみえた
  秘密は私たちに 何を伝えようとしていたのか

  夢の中で 私たちは どこを旅しているのだろう
  夢の中で 私たちは 何に出会っているのだろう

  こころは誰かにみられたがっているのかも知れない
  誰かに聞かれたがっているのかも知れない

夜が早くなったのを実感する。
たまには昔の本でも読んでみよう。
本は自分の心の歴史でもある。

      鶏頭を三尺離れもの思ふ (細見綾子)

ヤリゲイトウ

やりげいとう
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ベンケイソウ(弁慶草) ~秋雨の中に流れる時間~
- 2010/09/17(Fri) -
弁慶草

一雨毎に涼しさが増す。
秋が徐々に呼び込まれていく。
ほんの少し前の、あの猛暑を忘れさせてしまうほどに、朝夕は肌寒ささえ感じさせる。
昨日は初めて長袖に手を通した。
ようやく本来の季節に肌が反応する。

雨の中に弁慶草がある。
小さい花がドーム状に密生して咲く。
星形の五弁花の色は薄いピンク。
花月(カネノナルキ)とそっくりの花だ。

その上で違う色が動く。
それはオオクモヘリカメムシ。
胸部と小楯板の緑色が目立つ。
食べているのか、吸っているのか分からないがじっとして動かない。
私も傘を差して彼をじっと見る。

秋の雨の中に流れる時間。
そこだけにある時間。
静かなひととき。

       秋雨は無声映画のやうに降る (仁平勝)

弁慶草にオオクモヘリカメムシ
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ヘリオプシス(Heliopsis) ~『みみをすます』 …聞こえる~
- 2010/09/16(Thu) -
ヘリオプシス 

『みみをすます』は谷川俊太郎の詩集。この本を私が購入したのは1987年9月のこと。
久しぶりに本棚から取り出し、手に取って開く。
中には「みみをすます」「えをかく」「ぼく」「あなた」「そのおとこ」「じゆうにつき」の六編の詩が収められる。

「みみをすます」は179行の詩。その最後は次の22行で締めくくられる。
  みみをすます
  みちばたの
  いしころに
  みみをすます
  かすかにうなる
  コンピューターに
  みみをすます
  くちごもる
  となりのひとに
  みみをすます
  どこかでギターのつまびき
  どこかでさらがわれる
  どこかであいうえお
  ざわめきのそこの
  いまに
  みみをすます

  みみをすます
  きょうへとながれこむ
  あしたの
  まだきこえない
  おがわのせせらぎに
  みみをすます

思った。
聞こうという意志を持って心の耳で聞くと、すべてが深く聞こえ、重く聞こえ、楽しく聞こえ、豊かに聞こえるのだと。
自然の奏でる美しいメロディ-だったり、虫たちの叫びだったり、人の心奥の吐露だったり、木々の囁きだったり…と。
身のまわりのすべての音のそれぞれに意味があり、理由があり、命があるのだと。
耳を単に音を入れるだけの器官としてでなく、音を感じ取り、音を考え味わう心の器官にしたいものだと。
ふと20代の頃読んだジャン・コクトーの詩が頭に浮かぶ。
『私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ』(堀口大学訳)    

       今といふ刻わがいろに秋生きる (山崎荻生)

ヘリオプシス
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ブルーセージ(アズレア) ~「いいなあ」~
- 2010/09/15(Wed) -
ブルーセージ 

このブルーセージは私の背よりも高い。
株周りも、両の手を広げて二抱えほどと、かなり大きい。
それに青い花がいっぱいである。
一つひとつの花は、ほかのセージ同様になんとも愛らしい。
目を凝らしてみると、それは人がややうつむき加減に立っているようにも見える。
そこへイチモンジセセリがしきりにやってくる。
次から次へと花を移っては留まり、留まっては移る。
時には二匹仲良く寄り添って。
「いいなあ」。

会議に出かけた。
お堅い話が流れる中、スピーカーを通して賑やかな音楽が窓越しに聞こえる。
子ども達の揃った大きな掛け声も届く。
どうやら週末に行われる運動会の練習のようだ。
そんなシーズンだ。

会議を終え、外へ出ると空は抜けるような青空だった。

             秋空や高きは深き水の色 (松根東洋城)


ブルーセージ

イチモンジセセリとブルーセージ


ブルーセージにセセリチョウ
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ユウゼンギク(友禅菊) ~夏にさよなら~
- 2010/09/14(Tue) -
友禅菊

仕事の帰り、空を見上げれば雲が秋の形になっていた。
夏と秋の空気の入れ替わりを目に見えるように空は伝える。
今朝は18℃と、はじめて20℃を切る涼しさ。
耳には草虫たちの心地よい癒しの合唱、そして風になびく芒の穂…。
ようやく、夏にさよならの言葉を告げることができそうである。

肌で季節を感じる繊細な花たち。
友禅菊も咲き出す。
小さな品のいい色の花。
花言葉は、「恋の思い出・深い愛」とか。
「老いても元気」ともある。
心はいつまでも青春でありたい。

    たましひのしづかにうつる菊見かな (飯田蛇笏) 
 
ススキ
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キクイモ(菊芋・Jerusalem artichoke) ~「朱夏」の槌音~
- 2010/09/13(Mon) -
菊芋 

初めてキクイモを植えたのは10年ほど前だったと思う。
イヌリンを多く含んでいるという、その栄養価の高い塊茎を食用にと考えての事だった。
私の一番の好みは味噌漬け。
コリコリして歯ごたえがあり、左党の人にはいいつまみにもなる。
もちろん、ふかしたり、味噌汁の具にもいい。
ジャガイモのようでもあり…、しかしちょっと違う。
他の野菜にない独特の食感を持っている。
唯一の難点はイモの形がゴツゴツデコボコと不定型で、洗うのに手間取る事だ。
そしてイモそのものは調理しても若干の土臭さが残り、人によっては好まれないかもしれない。
そんなキクイモだが、やっかいでもある。
繁殖力がきわめて旺盛であるからだ。
一旦植えると、なかなか絶やす事が困難である。
畑の真ん中に植えようものなら大変だ。
背丈も2㍍を超し、大株になる。
私の場合、土手に植えてあるが、それでも半分近くは小さいうちに除去する。
他の花を陰にしてしまうほどに広がってしまうからだ。
今では、芋を採るのは少しだけにして、あとは花を楽しんでいる。
花はヒマワリを小さくしたようなサンカラー。
そういえば今年はヒマワリを育てなかった。
これまで毎年、夏を彩っていたのだが…。
あるべきものがそこにないのはさびしい。

公募展への出品も終わり、私の夏もこれで一区切りである。

        わが朱夏の詩は水のごと光るべし (酒井弘司)

きくいも 

キクイモ
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チョロギ(草石蚕・ Chinese artichoke) ~楽しい人生~ 
- 2010/09/12(Sun) -
ちょろぎ

畑の中に淡い紫色の小さな花を見つけた。
チョロギの花だ。
あのくびれたニョロニョロのチョロギだ。
巻き貝のようでもあり、オカイコ様のようにも見えるチョロギ、作ってから10年ほど経つ。
食べて味わうためというより、その形のおもしろさから育てて楽しんでいる。
地中ではそろそろクルクルの赤ちゃんが生まれているにちがいない。

チョロギはその形から漢字では「草石蚕」と書かれる。
他に、「長老木」「長老喜」「長老貴」「千代老木」とも。
赤く染められて、正月や祝儀の席の料理に添えられるのは、縁起の良いその語呂によるものだろう。
こんな花にも花言葉があるという。
それは「楽しい人生」。
花言葉までめでたい。

花火が遠くで上がっている。
どこかのお宮の秋祭りのようだ。
今年の「驚くほどの暑い」祭に神様もさぞかし驚いているに違いない。

   屋根越に僅かに見ゆる花火かな (内藤鳴雪)
 
チョロギ 
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ムクゲ(木槿・底紅) ~心の目で見る~
- 2010/09/11(Sat) -
木槿ピンク 


9月も中旬。
空にはまだ夏の雲。
今年の秋の歩みはゆっくりだ。
しかし、長く咲き続けた木槿もそろそろ寂しくなってきた。
キリギリスも部屋にやってくる。
「川も秋の音になってきましたね」。
川の音にも四季がある…、という。
「心の目で見る」と、季節のバトンは手に届くところまで来ているのがわかる。
「感度のいいイヤホーン」をポケットに忍ばせると、季節の声が聞こえる。

          わが影の壁にしむ夜やきりぎりす (蓼太)

木槿ピンク


キリギリス

キリギリス 
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バラ(紅薔薇) ~白露も過ぎれば~
- 2010/09/10(Fri) -
赤薔薇

赤い薔薇が揃って咲く。
八重ではあるが、どことなく地味な薔薇である。
一昔前の少女物語に出てきそうな小さな薔薇だ。
可愛い。

白露も過ぎれば、やはり朝夕の風は秋の涼やかさを感じさせてくれている。
これで、日中の暑ささえなければ、全身で秋気分に浸る事ができるのだが。
秋景色が目に見えるのも、もう少し。
時に委ねて穏やかに待とう。
その分、喜びも大きい。

     トルソーの風景に薔薇熱うせよ (永井由清) 

赤薔薇 
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シラハギ(白萩) ~花びらの白い色は~
- 2010/09/09(Thu) -
白萩

白萩は真っ白。
ただ白。
白だけ。
白。
白い萩。

白ということ。

白い心は昔。

白のまま。

白の原点。

            白萩にわれ過ぐる風たちにけり  (野澤節子)

シラハギ
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バラ(白薔薇) ~花言葉は「清らかな愛」「尊敬」「純粋」~
- 2010/09/08(Wed) -
白薔薇

一輪剪ります。
白い薔薇です。
そっと優しく。
そしてケガをしないように。
切り口を焼きました。
入れるのは鶴口の花瓶です。
どうですか。
見えますか。
届きますか。
白い薔薇です。

       夕風や白薔薇の花皆動く  (正岡子規)

白薔薇部分
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シラヤマギク(白山菊)  ~不揃いの花びら~
- 2010/09/07(Tue) -
しらやまぎく

「サツキを枯らしてしまった」。
「花桃が枯れている」。
「鉢花がだめになった」。
「鬼灯が……」と、周りで残念がるため息の声が聞こえる。
そんな年なんだ。

そうはいっても、薄も穂を出しなびいている。
モズが木の頂で高鳴きしている。
野菊もちらほらと咲き出した。

今目立つのはシラヤマギク。
背の高い小さな白菊だ。
しかし、いつもに比べ、株はひとまわり小さい。
花数もきわめて少ない。
今年はそういうことなんだろう


        はなびらの欠けて久しき野菊かな (後藤夜半)

シラヤマギク
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ハギ(萩)  ~何か急かるる~
- 2010/09/06(Mon) -
はぎ  

今夏一番の…。
記録的な…。
過去最高の…。
観測史上初めての…。
ニュースでは、まるでテープレコーダーのように、毎日同じ言葉がリピートとされる。
ここまで来れば、もうどこでどのような光景が映し出されようとも驚かない。
どんな数字が出ても、「ほお~」で片付けてしまう恐ろしさ。
なれというのは人の感覚をも鈍感にしてしまう。
いけない。
そんなことを当たり前のように思う事を許してはいけない。
いけない。
鈍くなってはいけない。

こんな日は方代さんを読もう。
  こおろぎが一匹部屋に住みついて昼さえ短いうたをかなでる
  今日は今日の悔残して眠るべし眠れば明日があり闘いがある
  しあわせは朝の寝覚めにもどかしく放つくしゃみ中にありたり
  ああここはこの世の涯かあかあかとはながだまって咲いている
  明日のことは明日にまかせよう己よりおそろしきもこの世にはなし
                                   (山崎方代歌集『こんなもんじゃ』より)

萩が咲いた。
決して涼やかな秋の風ではないのに。
暦の時を見て咲いたのか。

もう一つ方代さん。
  もう何も申しあげません夜は早く灯を消して眠るにしかず

        萩の風何か急かるる何ならむ (水原秋櫻子)

萩 
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バラ(薔薇・プリンセスミチコ)  ~わらひ~ 
- 2010/09/05(Sun) -
プリンセスミチコ

       わらひ     西條八十

  私はあなたの笑ふのをみるのがすきです。

  あなたが笑ふとき
  白いきれいな歯並(はなみ)が見えます。
  私には大理石の石垣のように見えます。
  さうして、そのうしろの可愛い舌が
  眞紅(まつか)に咲いた薔薇の花園のように見えます。
                                      (西條八十『少女詩集』より)

庭には薔薇、「プリンセスミチコ」。
慈愛に満ちた優しい微笑。

     咲き切つて薔薇の容(かたち)を超えけるも (中村草田男)

プリンセスミチコ  
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サンタンカ(山丹花)  ~草むら交響曲~ 
- 2010/09/04(Sat) -
サンタンカ

サンタンカの花びらは4枚。
風車のような小さなオレンジ色の花。
それが房状になって濃い緑葉の上にたくさん。

コオロギが部屋にいた。
いつの間に入ったのだろう。
窓の外では鈴虫も鳴いている。
ほかの虫たちも加わって、「草むら交響曲」を奏でている。
夜は秋の気配。
            
     花と咲け
  泣く 虫よ 花と 咲け
  地 に おつる
  この 秋陽 花と 咲け
  ああ さやかにも
  このこころ 咲けよ 花と咲けよ  

      咲く心
  うれしきは
  こころ咲きいずる日なり
  秋、山にむかいて うれいあれば
  わがこころ 花と咲くなり   

      秋の日の こころ
  花が 咲いた
  秋の日の
  こころのなかに 花が咲いた            (定本 八木重吉詩集』より)
 

      ゆふ風や草の根になくむしの声 (野梅)

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リコリス(Lycoris・彼岸花 ) ~葉は花知らず、花は葉知らず彼岸花~
- 2010/09/03(Fri) -
リコリス

赤いリコリスが咲いているのに気がついたのは昨日の朝の事だった。
金雀枝(エニシダ)の根元でひっそりと咲いていた。
すでに一本は倒れているので、もう少し前から咲いていたのだろう。
すくっと立ち上がった花径を軸にして、6つの花が外を向いて環状にある。
反り返った6枚の花びらとそれの倍もあるほどの長い雄蕊が上に湾曲し、それはまるで一つの花火のようである。
蕊の先端の黄色い点が、夜空にぱーっと咲いた花火の広がりを思わせる。
考えてみれば「花火」は「花の火」と書く。
もともとは、このような花の咲く様にその名の由来があるのかもしれない。
昼間見るこんな美しい花を夜空に打ち上げて、みんなで見て楽しみたいと思った職人が生んだ技だったのかもしれない。
今の花時、葉はない。
「さあ、花をじっくりご覧下さい」とでもいうかのように。
花が終わり、空気がひんやりする頃に葉は出て、冬中青々とし、翌春には枯れる。
そして、地上からはその姿を消し、秋のその日まで、また深く眠る。
時が来ればこうしてまた…。

    虫の音に眠りから覚めし彼岸花 (文) 

リコリス 
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ニラ(韮・ふたもじ) ~二文字とゆかし名の花を見る~
- 2010/09/02(Thu) -
にら

伸びた花茎の先にまとまって咲く星のような愛らしい白い花は韮の花である。
韮は好きである。味噌汁の具にもいいし炒めて、包んでもいい。
手軽でいて栄養価もあり、重宝である。
また、剪っても次々に葉を伸ばすので長く利用できる。
こぼれ種から、どんどん増えていくのも有り難い。
以前は畑の一角にスペースを確保して植えてあった。
しかし、その繁殖力の強さから、あまりにも増えすぎるので今では端の方へ寄せて少しだけにしてある。

ところで、古い時代の女房詞では、韮は二文字(ふたもじ)の名で呼称されていた。
その楚々とした花姿や青々とした葉の様子を言っているのではない。
あるいは、その薬効や強臭、味覚的なところに由来するのでもない。
つまり「ふたもじ」の語は、植物としての特徴や蔬菜としての特性からから生まれた言葉ではなかった。
単純に、韮は「に・ら」の二文字の音であることから名づけられたのである。
昔、ねぎについて、「葱」と書き、「き」と一音で呼んだ。
それで「葱」の別の名を「一文字(ひともじ)」といった。
それに対なる言い回しとして、二文字(ふたもじ)は女房達が用いたゆかしい言葉である。
その婉曲表現は粋というか、雅というか、遊び心というか、なかなかの妙である。
また、これに対して俗称では起陽草ともいう。
これは食材としての暗喩、これもなるほど、なるほどである。
こうしてみると、韮は昔から人々の生活の中に深く溶け込み親しまれた植物だったのだろう。

    齢かな摘みて眺むる韮の花 (河原枇杷男)

韮
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オミナエシ(女郎花) ~「秋隣り」の話し声~
- 2010/09/01(Wed) -
オミナエシ

ああ、9月ですね。
「長月」というと風流ですよ。
月を見ながら、きすひく風情ですね。
「浴衣の君はすすきのかんざし~」ですか。
「September」という響きもロマンチックですね。
竹内まりやの歌にもありましたよ。
覚えています。切ない歌でした。
ハイファイセットのミスターサマータイムもよかったですね。
「探さないで~」、これも悲しかったですね。
8月の昨日は夏、今日から秋ということですか。
暦ではそうなんですけど、今年はどうもそんな実感ないですね。
これだけ暑い日が続くと季節感がおかしくなります。
ちゃんと秋らしくなるんですかね。
たしかに心配になりますけど、それでも自然は時の流れを感じ取って動いているようですよ。
そういえば、朝夕には虫の声も多く耳に届くようになりましたね。
オミナエシも咲いていますし。
そうでした。萩や葛の花も見つけました。
ですね。秋が目にも分かるようになってきて。
なんだかんだではありますが、秋さんはそこにおられるんですね。
私たちも気持ちの座布団を秋さんの席に移しましょうか。
いつまでも猛暑と嘆いていてはいけませんからね。
前向きに生きましょう。
そうしましょう。

   我ものに手折らば淋し女郎花 (蓼太)

女郎花
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