フクジュソウ(福寿草・Amur adonis) ~春の色~
- 2010/01/31(Sun) -
福寿草2010

やることがあるのになかなか手が進まない。
イメージが右に左にぶれて方向性が定まらない。
思い煩い、考え立ち止まり、腕を止める。
いつものことだが、やりながら徐々に形にしていくしかない。
庭へ出る。

枯葉の中に黄色がある。
ああ、フクジュソウだ。
開いたばかりのようだ。
顔は地面の直ぐ上にある。
周りはまだ冬色の中。
そこだけが小さな春。
土の下のぬくもりの声を聞くようでうれしくなり、思わず一人笑みが出る。
なにか背中押しのプレゼントをもらった気分だ。
よし、また事にとりかかろう。

ところでフクジュソウは英名でAmur adonisとある。
アムールの名から想像するに、北東アジアがもともとの生まれ故郷なのだろう。
それに合わせてアドニスの名が付くのはなぜだろう。
アドニスとはギリシア神話にある美青年の名。
その美貌の彼を巡って、女神アフロディテとペルセフォネの間で激しい争いがあったという。
結果はゼウスによって、1年を区切り共に暮らす時間が平等に設定される。
そして最後は猪により命を落とす悲劇のヒーローである。
この美青年とフクジュソウを繋ぐものはなんだろう。

花言葉には「幸せを招く」「回想」などとある。
しかし私は「回想」に浸っているほど悠長なことはできない。
目の前にあるのは、春告げの可愛い花がそこにあることと、期日を迫られる自分がいるという事実だけだ。
さあ、さあ、さあ…やろう。

  福寿草の少し開いて亭午なり   (大野洒竹)  

フクジュソウ210

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ゼラニウム(geranium) ~月に火星~
- 2010/01/30(Sat) -
冬の部屋の赤いゼラニウム

塩見の上に大きな丸い月。
その月明かりで南アルプスの山並みが幻想的に浮かび上がる。
月の左下には赤い星がひとつ。
まるで寄り添うかのように輝くのは火星。
帰路に付くフロントから見える夕景色が1週間の仕事で疲れた体と頭を癒してくれる。

夕月よ、静かなる光にて吾を包み冷やしたまえ。
熒惑(けいこく)よ、吾が肉(しし)を乱れるままに乱させたまえ。

白磁の湯飲みに茶を注ぐ。
湯気が立つ。
口に運ぶ。
今日をありがとう。

時間と思考と労力のスイッチを切り替える。
オフにするのはスーツとネクタイと靴。
オンにするのは…。

ゼラニウムの花言葉は「愛情」「君ありて幸福」。
   
月光の指より漏れ出づる悩み (櫂未知子)

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バラ(薔薇) ~愛の嘆美~
- 2010/01/29(Fri) -
黄色薔薇

こんな冬の日の夜に、一人何するわけでもなく、薔薇の花を眺めていると、ふと智恵子と光太郎を思い出す。
光太郎の熱い愛、智恵子の純心な愛。
澄み切った心で撚られた二人の一筋の糸は遙か彼方まで伸びる。
美の探求者、愛の求道者の言葉は吟醸されたピュアな精神。
1行は2行を織り、2行は3行に重なりと、混じりけのない馥郁な香りで紡がれたタペストリ-となる。
互いが互いのために尽くす愛、それは肉欲すらをも清らかなものにする。

    愛の嘆美   高村光太郎      

底の知れない肉体の慾は/あげ潮どきのおそろしいちから――
なほも燃え立つ汗ばんだ火に/火竜(サラマンドラ)はてんてんと躍る

ふりしきる雪は深夜に婚姻飛揚(ヴオル・ニユプシアル)の宴をあげ/寂寞とした空中の歓喜をさけぶ
われらは世にも美しい力にくだかれ/このとき深密のながれに身をひたして/いきり立つ薔薇いろの靄に息づき
因陀羅網(いんだらもう)の珠玉に照りかへして/われらのいのちを無尽に鋳る

冬に潜む揺籃の魔力と/冬にめぐむ下萌(したもえ)の生熱と――
すべての内に燃えるものは「時」の脈搏と共に脈うち/われらの全身に恍惚の電流をひびかす

われらの皮膚はすさまじくめざめ/われらの内臓は生存の喜にのたうち
毛髪は蛍光を発し/指は独自の生命を得て五体に匍ひまつはり
道(ことば)を蔵した渾沌のまことの世界は/たちまちわれらの上にその姿をあらはす

光にみち/幸にみち/あらゆる差別は一音にめぐり/毒薬と甘露とは其の筺を同じくし
堪へがたい疼痛は身をよぢらしめ/極甚の法悦は不可思議の迷路を輝かす

われらは雪にあたたかく埋もれ/天然の素中にとろけて/果てしのない地上の愛をむさぼり
はるかにわれらの生(いのち)を讃(ほ)めたたへる                         (1914.2)

      命ある日々が青春薔薇を観に (伊東宏晃) 

             

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バラ(薔薇・れんげ) ~正義と勇気~
- 2010/01/28(Thu) -
レンゲバラ

けっして物持ちが言いというわけではないが、日々の思いを綴り、記録した古いノートが何冊かある。
平成14年1月26日には次のように記している。

昨年(2001//1/26)の東京のJR新大久保駅のあの痛ましい事故のことを覚えているだろうか。
ホームから転落した人を助けようとして亡くなったのは、韓国人留学生李秀賢さんと横浜のカメラマン関根史朗さんの二人だった。その報道が伝えられた時、多くの人はきっと次のように自問したことであろう。
自分がその立場だったら…果たして自分には、とっさに下りてその人を助け上げる勇気があるか、と。
「酒に酔った人が目の前で線路に落ちた。電車は迫ってきている。」
あの緊迫した状況では一瞬でも躊躇する気持ちがあれば、「行動」には結びつかなかったであろう。
その人が生来持っている本能的な正義感が行動させたのではないかと思わずにはいられない。
このニュースが流れたとき、悲しい事故ではあったが、言いしれぬ感動と共に、つらくとも、苦しくとも生きていくための勇気を与えられ、まぶしく強い光を見た思いがした。
ともすれば自分には関係ないと、目の前の出来事にすら無関心な昨今であるが、彼ら二人の崇高な行いと自己犠牲に、熱い人間愛を感じたことが昨日のように思い出される。
当時の新聞には『「李さん」が命をかけて助けたのは、一人の人間はなく、私を含む日本人全部のような気がします。』との投書が寄せられていたが、まさにそんな思いであった。
あれからもう1年、正義と勇気、人の優しさを身をもって教えてくれた二人の冥福を祈りたい。

この寒い時期になると、いつも思い出される出来事である。
時が流れようともその尊い行為は私の頭から離れることはない。
いざというとき、私はどういう行動を取るのだろうか。  
論語の言葉がよぎる。
見義不為、無勇也(ぎをみてなさざるはゆうなきなり)-為政第二-


鶫がチョチョチョチョチョン、チョチョチョチョチョンと地を歩く。
メジロが高野槙の中で遊ぶ。
白梅が綻び始めた。
今日は雨の予報らしい。
今年の春の訪れは早そうだ。

部屋には蓮華草のような小さなピンクの薔薇、その名も「れんげ」という。

手入れ後の庭よそよそし冬の雨 (佐藤啓子) 

レンゲ・バラ
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バラ(薔薇・rose) ~薔薇は~
- 2010/01/27(Wed) -
薔薇FOREVER

薔薇は美と愛。
薔薇は喜びと青春。
たとえば恋の神エロスに捧げられる歓びの花。
たとえば美の女神ビーナスには赤い薔薇。
たとえば純潔の聖母マリアには白い薔薇。

床に30cmも薔薇を敷き詰めたのはクレオパトラ。
霰や雨の如くに薔薇を舞わせて食事したのはネロ。
薔薇を掲げて戦に向かうは十字軍。
紋章を紅薔薇、白薔薇にして王位を争うランカスターとヨーク。
燃える薔薇を口にくわえて激しく踊るはカルメン。

薔薇は……。
高貴であり、猥雑であり。
豪華であり、素朴であり。
優美であり、清楚であり。
欲望であり、純心であり。
情熱であり、思索であり。
愛であり、戦である。

日本の詩人は詠う。
   
  『薔薇』 山村暮鳥
悲しみの薔薇よ
聖き薔薇よ
黒き花よ
ゆめの薔薇よ
わかき生命(いのち)のいちはやくも
君が吐息にちりそめたり

冬の薔薇を眺めながら夢想に耽るのは私。

誘惑に耐えたる悔や夜の薔薇 (岨静児)  

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デンドロビウム(蘭・Dendrobium) ~樹の生命~
- 2010/01/26(Tue) -
蘭デンドロビウム

本来、「蘭(らん)」という字は秋の七草の「藤袴」の意味だったという。
それが転じて、らん科の植物の総称と使われるようになったのだと。
その香気ある美しさが、芳しいものりっぱなもののたとえに用いられる。

蘭交=心の通いあった友人の交わり。その交情の美しさ。
蘭言=心の通じあった言葉。「同心の言は、その臭い蘭の如し」(易経)
蘭玉=女子のりっぱな節操のたとえ。他人の子弟をほめて言う言葉。
蘭芳=その美しい香りを美徳にたとえる。
蘭陔=子が親に孝養を尽くすこと。
蘭契=心の通じあった友人の交わり。
蘭質=蘭の様に清く美しい性質。
蘭藻=美しい文章のたとえ。                               
             (藤堂明保編著「大字典」より)

今ではそんな言葉なぞ、文に認めることもないだろうが、言葉の蔵には置いておこう。

デンドロビウムも咲いた。
開花は去年とほぼ同じである
白い花びらの先端に紅を差す。
やや小振りの花が茎に沿って並ぶように咲く。
これは他の蘭のような芳香はなく、きわめて微香である。
もう何年も植え替えもなく、窮屈そうにしてる。
いつもより、花茎にある蕾の数も多いので長く楽しめそうだ。

咲き終わった花にも愛おしさを感じ、その花を取って枯れ姿を飾ったりする。
今、部屋には1年前のそんな蘭の花が置かれている。  

いづゝから日本風ぞ蘭の花 (一茶) 

デンドロビウム

蘭の枯れ姿
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ヘレボルス(Helleborus・クリスマスローズ) ~光の中で~
- 2010/01/25(Mon) -
クリスマスローズ

まさに人生、「禍福は糾える縄の如し」ですね。
闇の中には必ずや光明があります。
光明あればまた闇あることを心しなくてはなりません。

そう、もし言い得るならば、…月ですね。
太陽は自ら光放ち、周りを明るくします。
月は周りから光りを頂き、輝きます。
娘の今あるすべては周りのみなさんのおかげなのです。
皆さんから光をあてて頂いているのです。

女流書家は笑みを浮かべながら、障害ある娘のことを語る。
飾りのないその話し方は淡々とした中にも品があり美しい。

朝の散歩の前に、何気なく付けたテレビ。
冒頭の言葉が私の心の中に残る。
散歩に出た後も、私の頭の中ではそのフレーズがリピートされる。
禍福は糾える縄の如し。闇の中には必ずや光明あり。光明あればまた闇あることを心して…。

散歩から戻り、そのまま少し庭を歩く。
赤紫色のヘレボルスもだいぶ開いてきた。
地面すれすれに下向きなので顔がよく見えない。
私も腹這いになって見ることにした。
「綺麗だよ。どうして下を向くの。恥ずかしがり屋さんなんだね。」

上を向く花ばかりではない。
その花の本当の姿を見つけるには自分の目線を花に合わせることである。

花は下にひとつふたつと冬うらら (文)  

くりすますろーず
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フユシラズ(冬知らずCalendula) ~春の足音~
- 2010/01/24(Sun) -
フユシラズ

陽気に誘われて、漫ろに足を運ぶ。
沈丁花と三椏の先に色が僅かに見える。
落ち葉の中のスノードロップが白い花をもたげている。
閉じていた福寿草の花びらもそれぞれに離れつつ。
蝋梅、紅梅、満作は未だ丸く固く。
そこかしこに見える冬と春の駆け引き。

1㎝余の黄色い小さな花が、南の土手にある。
それは金盞花の仲間のフユシラズ。
名が示すように、凍みる真冬の寒さにも耐えて咲く。
ペアであるいはファミリーでグループでと寄り添い散在する。
辺りが冬枯れの中、その温か色は心を和ませる。
そこは陽当たりたっぷりのいいところ。
毎年同じ場所での花開きはどうやらこぼれ種から。
もうすっかり我が家の冬の顔。

大寒前後から、こんな山国でも暖かい日が続く。
『春』という音楽隊の演奏が遠くからだんだんに近づいてきたのがわかる。
私は蕗の薹を採って天麩羅にする。
ほんのりとした苦みが口の中で広がる。

鵯が櫻の枝に留まる。
頭を下に向けて、なにやら啄んでいる。
彼も蠢く春を食べているのだろうか。

目の前にしなくてはならないことがあるのに、そんなことを忘れるかのように花に鳥に遊ぶ私。

四囲の音聴き澄ますとき冬深く (加藤楸邨) 

ふゆしらず
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バラ(ミニバラ) ~心に物なき時は~
- 2010/01/23(Sat) -
ミニバラ

上杉謙信につぎのような言葉があることを最近知った。

心に物なき時は、心広く体泰(ゆたか)なり。(略)
心に私なき時は、疑うことなし。(略)
心に誤りなき時は、人を畏れず。(略)
心に怒りなき時は、言葉和(やわ)らかなり。
心に堪忍ある時は、事調(ととの)う。
心に勇ある時は、悔むことなし。(略)
心に曇りなき時は、心静かなり。(略)
心に迷いなき時は、人を咎めず。
 
自らを省みるばかりである。

優しい言葉が耳に入ってくる。

雨はいつかは止みます。
夜は必ず明けます。
春の来ない冬はありません。
台風はいつかは必ず去っていきます。
そう思って、今の状態を受け入れましょう。
病あれば病も含めてそのありのままの自分でいましょう。
他と比較しない生き方をしませんか。

部屋の机の上には薄い色の小さな薔薇。
薔薇を見ることのできる幸せを思わなければならない。
冬に薔薇を味わうことのできる喜びを感じなければならない。

  冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり (日野草城)

ミニばら
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シンビジウム(Cymbidium Half moon wonderland) ~半月の不思議の国~
- 2010/01/22(Fri) -
シンビジウム・ハーフムーンワンダーランド

ハーフムーンワンダーランドという名のシンビジウム。
去年、この花について記していたのは2月24日。
今年の開花はそれより、ほぼ一月も早いことになる。
ちなみに一昨年は5月22日に記録が残る。
花数はいつもの3分の1にも満たない。
淋しくなっているがそれはいたしかたない。
同じように育てても、年々同じようにはいかぬ。
それは当然といえば当然のこと。
花も年をとり、私も年をとり、周りの空気も光も水も変わる。
いつまでも同じ姿、同じ顔であるはずがない。

Half moon wonderland、“半月の不思議の国”。
ファンタジーの世界へ迷い込んだアリスや世界を旅する星の王子様。
そんな可愛らしいメルヘンの世界を連想させるネーミング。

私にもその昔、確か童話、おとぎ話で夢の世界へいざなわれた子どもの時があったはずなのだが。
今では無垢で純な心は色褪せた過去のアルバムに閉じ込められたままになっている。
素のまま生きることには複雑に絡み合ったしがらみや高いハードルがあまりにも多いこの世の中。
見渡せば「汚れちまった悲しみ」が私のそこいらを走り抜ける。

このシンビジウム、色がいい。
しっとりと落ち着いた深い色だ。

人賤しく蘭の価を論じけり (正岡子規)

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デンドロビウム・キンギアナム(Dendrobium kingianum) ~冬の朝の雨~
- 2010/01/21(Thu) -
エピデンドラム

部屋に不思議な香りが広がる。
その主はデンドロビウム・キンギアナム。
小振りの蘭だが、発する香りはかなり強い。
それは甘いとも、芳しいとも言い得ぬなんとも妙味な香りだ。

このキンギアナムが家にやってきて何シーズンになるかの確かなことは忘れた。
手を掛けない無精な私を相手に、毎年咲いてくれるから感謝である。
スッと伸びた花茎の先端に数輪ずつ3㎝ほどの花が付く。
中心から伸びるリップに小さな赤い紫の斑点が施される。
全体に派手やかさはないが、なんとも愛らしい花である。
花期が長いのも嬉しい。

今朝は雨である。
冬に雨である。
一番冷えるこの時期の朝なら、普通雪である。
昨日は大寒なのに3月、4月の陽気だったとか。
そういえば今年は一度も家の雪かきを手にしていない。
この頃、天気の感覚にも微妙なずれを感じる。

    面白し雪にやならん冬の雨 (芭蕉)

えぴねんどらむ
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ヘレボルス(クリスマスローズHelleborus) ~大寒の日に~
- 2010/01/20(Wed) -
薄緑色のクリスマスローズ

季節が少しずつ目に見えて動いているのが分かる。

1年を通して私の出勤は朝の早い時間となる。
今、車のエンジンを掛けるのは真っ暗な中。
そして、膝掛けを友にしての小半時、職場に着いてもまだ暗い。
戸を開けるとそこは誰もいない冷え切った空間。
コートとマフラーを取り、机に座してまずパソコンにスイッチを入れる。
そして、一日の予定表を手に取り、時間の流れと動きを頭に入れる。
今日の締め切りのものはないか、あるいは来客の予定などを確かめる。
これが私のステレオタイプの行動。
しかし、この2~3日、朝の時間に違いが見られるようになった。
それは、職場に着く頃、辺りが薄明るくなってきたことだ。
門をくぐると建物の輪郭がぼんやり見えるようになった。
高い木々もその形が黒いシルエットで見える。
真冬を過ごしながらも、季節は春に向かっているのだと実感する。
生き物たちも私同様に春の足音を肌で感じ取っているに違いない。

今日は大寒、しかし常より温かい朝となった。

薄緑のクリスマスローズが咲いた。

もの音もなき大寒の空の蒼 (大峯あきら)  

クリスマスローズ
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ハイビスカス(仏桑華) ~牧野富太郎~
- 2010/01/19(Tue) -
仏桑華

昨日、1月18日は牧野富太郎の忌日だった。(1957)
「日本の植物学の父」といわれた彼についてはもはや説明の必要はあるまい。
われわれが普段目にし、その名を知る花は彼の命名によるものが多い。。
たとえばワルナスビやイヌノフグリにして然り、そこらの草花をつまめば必ずや彼が付けたのにあたるだろう。
私の本棚に彼の著『植物記』(正・続)がある。
万葉集の植物の考察や、それぞれの名の由来など、きわめて興味深い内容が綴られる。
たとえば「椿」は次のように書かれる。(文を多少前後させ端折ってある)
 ツバキは椿である。この木は春盛んに花が咲くから木偏に春を書いてツバキと訓ませたものである。
 即ちツバキの椿は和字(日本で製した字)である。故に其字に字音と云うふものはない。(略)
 艸冠に秋を書き其れ萩の字をハギと訓ませたのと同趣である。(略)
 全體ツバキとはどう云ふ意味で斯く呼ぶかと言ふと、是は葉が厚いから厚葉木(アツバキ)で…。
 一説では多分其れは艶葉木(ツヤバキ)の意で其れがツバキになつたものと謂はれてゐる。…
こうした蘊蓄が語られ、一つの項だけでも、そうかそうなのかと引き込まれてしまう。
併せて「借金苦、財産の差し押さえ、競売、乳飲み子を抱えた苦しい生活」。
あるいは研究のための生活苦から、せっかくの資料や標本の売却しなくてはならない苦悩。
債権者をやり込める奥さんの対応やその内助の功など、研究以外の一面も赤裸々に記される。
余裕を見て、またゆっくり手にすることとしよう。

真冬の家のハイビスカス。
私の原風景の中にあるのは強い日射しの中のハイビスカス。
いやいや、その頃はハイビスカスなどと言わなかった。
そんなしゃれた名はハワイの花に対してだけの呼び名だった。
誰もが目にしていたのは「仏桑華」、そうブッソウゲ、ブッソウゲ、ブッソウゲ。
今は人々に忘れられた「仏桑華」の名も牧野が付けたものだろうか。
この花を見る度、少年の日の思い出がよみがえる。

  赤屋根の漆喰しるし仏桑花 (堀古蝶)

書棚

ハイビスカス
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シクラメン(Cyclamen coum・原種シクラメン コウム) ~楚々として~
- 2010/01/18(Mon) -
シクラメンコウム

コウムは花径が1㎝ほどの原種のシクラメン。
楚々として本来の野生の姿をそのままにしている。
一般的に目にする、大きくて華やいだ色合いのものに比べ、なんとも地味であり、それがまたこの花の魅力だ。
丈は10㎝に満たず、葉も小さく、茎までがか細くなんとも愛らしい。
誰かがどこかでこんな花を見つけ、手を加えていったのかと思うと一層愛おしくなる。
園芸品種と違って、もともと野山の花だけに夏にも冬にも強いと聞く。
大事に育て、うまく庭で増やしていってみたい。
もう一つ並んで秋咲きの「ヘデリフォリウム」もある。
それはもう花の時期は過ぎて、今は艶やかな葉だけの姿。

小さな花を眺めるひだまりの部屋。
ほっとする時間が流れる。
朝は-8℃、でも心は温かくなる。

恋文は短きがよしシクラメン (成瀬櫻桃子)

こうむ

コウム
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雪の山 ~ちょっと足を伸ばせば~
- 2010/01/17(Sun) -
1月の空木

かなり冷え込みが厳しい。
なかなか気温が上がらない。
しかしまだ大寒前だ。
これからが一番の寒さを迎える。

空は晴れ渡り、風もなく穏やかである。
防寒着に身を固めて歩く。
赤いダウンジャケットは「散歩する時に」と正月に息子が用意してくれたもの。
軽くてコンパクトでありながらとても暖かい。

西にドーム型の空木とカールが見える。
転じて東を見れば相向かいにどっしりとして仙丈。
雪が描く青いトーンの凹凸が峰々の険しさをくっきりと映し出す。
その氷雪の斜面にきっと今日もピッケル刺して登っている人がいるのだろう。
私には未だ冬山を踏破する自信はない。

1時間もすれば体もだいぶ温まる。
ラジオからは「猫」が歌う『雪』が流れていた。
懐かしさにつられてあわせて口ずさんだ。
青春の歌はいつまで経っても忘れないものだ。
戻ると庭では雌のジョウビタキがまだ固い蕾の梅の枝に留まっていた。

雪山の遠さ発止ととどめたる (松澤昭) 

1月の仙丈

1月の中央アルプス
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ゼラニウム(ホシザキゼラニウム) ~志高清遠~
- 2010/01/16(Sat) -
星咲きぜら

先日の成人式ではまたもや恥ずかしい若者の光景が映し出されていた。
ここ何年、同じようなシーンが流される。
心新たにして希望に燃える多くの成人にとっては仲間として受け容れがたいパフォーマンスではないだろうか。

クラーク博士は明治初年、札幌農学校で教鞭をとり、日本全国の若者達に多くの感化を与えた言葉を残したことで知られる。
かの有名な「Boys,be ambitious. 少年よ大志を抱け」である。
卒業や旅立ち、あるいは新しい人生の門出にあたって、贈る言葉として膾炙される。
しかし、その言葉に続きがあることはあまり知られていない。

Boys,be ambitious.
Be ambitious not of money, or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame.
Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.

少年よ、大志を抱け。
それはお金の為あるいは利己の増大の為というのではなく、ましてや名声や名誉を得るなどという空しいものの為でもない。
人生を人としていかにあるべきか、いかに生きるべきかという清遠なる志を持つべきなのである。 (私訳)

「場を清め、時を守り、礼を尽くす。」
「わきまえ、見渡し、身を整える。」
「世のため、人のため、家族のため。」
「父を思い母を思い、子を思う。」
「将来の自らの夢に向かい、当たり前のことを当たり前に重ねる。」

その昔、1月15日は特別の日であった。
今は日の定まらぬ成人の日。
歴史の深く意味するところが捨て去られ、合理的なところで物事が運ぶ。
そんなことなどを色々と思う私が古いのだろうか。 
志は高く清く遠くに持ちたい。

   道に弾む成人の日の紙コップ( 秋元不死男)
   成人の日の晴着着て墓参り (清崎敏郎) 

星咲きゼラ

星咲きぜらにうむ
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シクラメン ~鉢の中で生きる~
- 2010/01/15(Fri) -
シクラメン一輪

一鉢に一輪のシクラメン。
これは二年の冬夏越しの花。
「ああ、頑張ったね。」
一鉢にたくさんの赤いシクラメン。
これは1月の花屋に並んでいた新しい仲間。
「炎みたいだね。」
一輪も美し、多くもまた美し。

人々の日常の思い煩いと関わりなく、花は今を生き、花はただ咲く。
鉢の中で黙々と懸命に色を出す花。
言葉と感情の中であれやこれやと悶々とするのは人。

花はあるように咲く。
花はあるがままに咲く。
花は人のために咲くのではない。
花は自分のために咲く。

八方に聞耳立ててシクラメン (菊池麻風)  

赤いしくらめん
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ゼラニウム ~こんなもんじゃ(山崎方代歌集)~
- 2010/01/14(Thu) -
白いゼラニウム3

雪が積もっている。
昨晩さらに降り積もったようだ。
すべてのものの角を取って、やわらかに積もっている。
あるもののなにもかもを真っ白に変える。
赤も黒も茶も緑もおしなべて真っ白だ。
車もテーブルも草も木も石もみんな白。
見えたものが見えないものに。

たとえば心の汚れもこうして真っ白に覆い隠してくれるといいのに。

方代(ほうだい)さんも雪を歌う。(『こんなもんじゃ』山崎方代歌集より)

石の上にもひそひそつもりおるかたわらに立つ吾すらもなし
うすし身の心の内をおやみなく半偈(はんげ)の雪が降りしきりおる
ふかぶかと雪をかむれば石すらもあたたかき声をあげんとぞする
すてられし下駄にも雪がつもりおるここに統一があるではないか
降りやみ雪うすうすと受けとめし朴の葉っぱのそのやさしさよ

方代さん、ひとすじにつらぬきとおして、あたたかくまるくやさしく生きたいね。
そして時にはのほほんと。

   風景の何処からも雪降り出せり (柿本多映) 

白いゼラニウム2

白いゼラニウム1
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オンシジウム ~六中観(りくちゅうかん)~
- 2010/01/13(Wed) -
オンシジウム0

最近読んだ本の中で目に留まったのが「六中観」という言葉。
安岡正篤の『百朝集』にあるという。
人生哲学、人の生き方を指し示す道標として味わい深い。

忙中閑あり
苦中楽あり
死中活あり
壷中天あり
意中人あり
腹中書あり

六中観の意味するところはそれぞれで解釈すればいい。
個々に感じ取り考え、受け止めればいい。
言葉が構成する音にもリズムもがあり、声に出して読むのも歯切れ良く心地よい。

読みながら思った。自分は一個の自分である。人に捌かれない自分であろうと。

自分の生き方は自分で創る。
自分の道は自分が作る。
自分の心は自分が豊かにする。
自分の環境は自分が建設(つく)る。
自分の智慧は自分が掘り下げる。
自分の友は自分が築く。

オンシジウムは夜の星のようである。見ているだけで心が和む。
一人で眺めながら、「忙しい」を言い訳にしない生き方をと。
時間は誰にでも平等だから。
「そのことをする」時間は自分で生み出すことができるのだから。

時間濃く使いしと思う霜の晴れ (北原志満子) 

オンシジウム19

オンシジウム73
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バラ ~重吉の「花」~
- 2010/01/12(Tue) -
土手の冬バラ

いい天気だ。
依頼された仕事も一段落した。
少し外へ出てみよう。
西の土手を歩く。
落葉の上はふかふかだ。
オオイヌノフグリが咲いている。
黄色いフユシラズもある。
おやおやと、地面すれすれに薄いピンクの花を見つける。
ああ、バラだ。たしかにバラだ。
そういえば夏の頃、伸びきった枝を剪って刺した記憶がある。
ちゃんと根付いてくれたのか。
春にいい場所へ植え替えてやるよ。

『定本 八木重吉詩集』を読む。
その多くは短い。

  花
花はなぜうつくしいか
ひとすじの気持ちで咲いているからだ

  花  
松ばやしのなかへはいったら
ひかげに
うす赤い花がひとつ咲いていた
わたしは そこのところへしゃがんで
しばらくやすんでいた

  花
おとなしくして居ると
花花が咲くのねって 桃子が言う

  花がふってくると思う
花がふってくると思う
花がふ〈散〉ってくるとおもう
この てのひらにうけとろうとおもう

よき言葉聴きし如くに冬薔薇 (後藤夜半)  

土手の冬薔薇
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ミニバラ ~時は流れても同じ景色に~
- 2010/01/11(Mon) -
ミニ黄薔薇

同級会があった。21年ぶりである。
集合は学校の中庭、風もなく穏やかな日和だ。
それぞれの顔や頭、そして体形にそれまでの時の流れが現れる。
三々五々に集まる顔には直ぐに思い出せないのも。
しかし数分もすれば、笑顔や話し方が自ずと個々の名刺代わりとなる。
校舎が取り壊されるというので、皆で懐かしい教室に入る。
様々な傷の跡を残す木のロッカー、板目の床は磨かれ黒光りしている。
廊下の窓は今時珍しい木枠の格子ガラス、それはあの頃のままだ。
校庭のぐるりに植わったプラタナス、遠望の山々に眼下の川、3年2組と書かれた教室から見える景色は変わらない。
本校舎と特別棟を繋ぐ体育館を通って階段を上れば図書館と音楽室、階段を下れば調理室。

温泉旅館の大広間に場所を移して宴が始まる。
幹事が近況報告を促す。
若い社員との確執、家庭や子どもでの悩み、リーマン・ショックの影響での会社の倒産等々。
涙ぐみ自らの過去の重い出来事を正直に話す者も、それぞれの立場と環境が生み出す現実の物語が語られる。
話が一巡すると、しかしまた若くエネルギーに満ちていた青い時代、あの頃の顔に戻る。
優勝したクラスマッチ、『ベニスの商人』で アントーニオを演じたエピソード、文化祭での仮装…。
一つひとつがセピア色の映像となって走馬燈のように話に映し出されよみがえる。
次々と記憶の糸がたぐり寄せられ、笑い相槌打って、和やかに想い出の時間が過ぎていった。
遠くは横浜、刈谷からの参加、そして電話で声の参加として兵庫三田と岩手花巻からも。
居住地の一覧表を見れば京都、富山黒部、岐阜笠松、埼玉は新座と加須 愛知は春日井、東郷、知立、岡崎。
並べた机を離れてからの長い時とともに刻まれるおのおのが歩む人生。

今度は夏に開きたいと話が進み、次回の幹事も直ぐに決まる。
少年少女へ一気にタイムスリップする感慨ひとしおの「青春同級会」だった。 

成人の日の松青く梅固し (岡本圭岳)

ミニピンク薔薇
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乙女の祈り ~冬の朝~
- 2010/01/10(Sun) -
朝の池

昨日は『乙女の祈り(La prière d'une vierge)』がラジオから流れる中の朝の散歩だった。
作曲はポーランドのテクラ・バダジェフスカだと説明される。
聞き慣れない名だ。
そういえばこれだけ広く愛されている音楽なのに、今まで誰の作曲かなど気にもしなかった。
彼女が18歳の時のピアノ曲だという。

薄い霧が池の上に出ている。
なりかたちのはっきりとしない朝陽が見える。
池が鏡となってそれを映す。
カルガモが番いで休む。
静かな冬の風景。
霧も上がる頃、帰りの道にある蒲公英の綿毛は霜に包まれていた。


   朝陽ある寒さも忘れそうな冬の朝(文)

カルガモ

霜のたんぽぽ
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レウィシア ~人の一生は~
- 2010/01/09(Sat) -
赤いレウィシア

「勝ち組・負け組」などと、人の価値を軽薄に割り切った尺度で決めつけるような言葉が膾炙されるのは悲しい。
一日の中にあっても、一週の中にあっても、一月の中にあっても、一年の中にあってもいい時、悪い時がある。
自然の営みに激しい風雨あり、柔らかに舞う雪あり、燦々と太陽の照りつける日射しあり、日照りの時もあるように。
右に左に、上に下に、行きつ戻りつとまさに人生はスパイラル。
ましてや人の人生、単純に説明決定されるものではない。
生きている内に不遇であったとしても、後世の人々に生き方を示した偉人は多くいるではないか。
自分の思うところを突っ走って歴史を作った多くの「意志の人」がいるではないか。
何をもって幸せとするかは、その人自身の心の中にある。
金や外観や所有の如何ではなく、生き方である。

 「勝つ事ばかり知り負くる事を知らざれば害其身に至る」
徳川家康が語った人生哲学として知られる「東照宮御遺訓」の一説である。(実際は徳川光圀の作)
戦国の世にあっても、全戦全勝などあり得なく、負けを知ることで勝つ意味を知る。
失敗することで、失敗しないこと、成功への道のりを知る。
遺訓の冒頭は次の言葉で始まる。
 「人の一生は重荷を負ひて遠き道をゆくが如し 急ぐべからず」 
一時の出来事に一喜一憂せずに、急がず慌てずうろたえず浮かれず浮わつかず、足もとを少しずつ固めていけばいい。
澄んだ眼で、がちがちっと、ゆっくりと、しかし確かに歩む牛の如く。
歴史に残る言葉が示す意味は重く大きい。一人の人間として咀嚼して飲み込む。

「東照宮御遺訓」
 人の一生は重荷を負ひて遠き道をゆくが如し 急ぐべからず 
 不自由を常とおもへば不足なし 
 心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし
 堪忍は無事長久の基 
 怒りは敵と思へ 
 勝つ事ばかり知り負くる事を知らざれば害其身に至る
 己を責めて人を責むるな
 及ばざるは過ぎたるより勝れり

木枯らしやこのごろ多き阿世の徒 (三好達治) 

レウィシア赤
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バラ(白ミニ薔薇) ~愛は言葉ではない~
- 2010/01/08(Fri) -
ミニ白薔薇

最近、枕元に本を持って行くことが増えた。
寝る前に読むのだが、しかし数分もすると目が重くなり、ページは直ぐに閉じられる。
瀬上敏雄著「一期一詩」から。

    愛、それは行動です    福井達雨

愛 それは
言葉ではなく 汗をながすこと
愛 それは
言葉ではなく 捧げあうこと
すべての喜びを ともに分け合い
悲しみ 苦しみを ともに歩むこと
ラララ (以下略)


    忘れない      河野進

わたしは 太陽を忘れても
太陽は わたしを忘れない
わたしは 神を忘れても
神は わたしを忘れない
わたしは 母を忘れても
母は わたしを忘れない
太陽よ 神よ 母よ
無限の慈しみよ 永遠の愛よ

二つの詩を読んでいて、小さな体のマザーテレサを思い出した。
「澄みきった愛」「ピュアな愛」「無償の愛」。
これらの詩とはほど遠い形の私だが、そんな「愛」を持てる心に近づきたいと思う。

冴えわびて覚むる枕に影見れば霜深き夜の有明けの月 (藤原俊成女)

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干柿 ~人日(じんじつ)の節句に~
- 2010/01/07(Thu) -
干し柿

今日は人日の節句、多くの家で七草粥が食卓に上ることだろう。
七草粥を摂るのはおせち料理で疲れた胃を労るためと言われる。
一方では初春の野に芽を吹く野草の生命力にあやかり、一年の健康無事を祈る意もあると聞く。
今は七草がパック詰めで売られ、本来の風情ある"若菜摘み"からはおよそ離れてしまっている感もあるが。

私の今日はそれに干し柿を並べる。
私なりの節目としてのこだわりだ。

これは手作り。
収穫し、一つひとつ包丁を使って皮を剥き、紐に吊して干す。
そして頃合いを見て取り入れ、袋に入れてはころころ回す。
干したのは11月初旬、それからこうしてふた月余。
その間に白い粉をふき、糖度を高めた柿はその甘さを極める。
身内ものなので、燻蒸したりの手間を掛けないため色はくすんで冴えない。
大きさも形もばらばらで、ブランドの「市田柿」に比べるまでもない。
しかし甘みはすべてに至り、やわらかい自然の菓子ともいうべき味を充分堪能できる。

今年はいろいろあって、いつもの3分の1ほどしか干せなかった。
柿そのものが不作でもあった。
それでも作ったのは500を越えるか。

そういえばこれを毎年楽しみにしていた母はもういない。
写真の前にも形のいいのを選んで一つ。
一月前は話ができたのにね。

干し柿の暖簾が黒く甘くなる (山口誓子) 

着物の母は信濃柿をなんと食む (文)  

干柿
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シンビジウム(ラブメッセンジャー“テレパシー”Love Messenger Telepathy)
- 2010/01/06(Wed) -
シンビジウム・ラブメッセンジャー

大いなる蘭の鉢あり応接間 (高浜虚子)

この黄色いシンビジウムには「ラブメッセンジャー“テレパシー”」という名が付いている。
ラブメッセンジャー=「愛の使者」、なかなか魅力的な名前ではないか。
たとえば恋人にはこんなシンビジウムをラッピングして届けると喜ばれるに違いない。
すでに知られるようにテレパシーとは遠く離れたところにいる人同士の心と心の間にはたらく超常現象のこと。
心の通じ合いが同時に働くということは実際にあるのかどうかは知らないが、私達は繋がっているんだというメッセ-ジになる。

昔、万葉の恋人達は相聞歌でその心を伝えあった。
そこに表される愛の形、その息吹、ときめき、きらめきは時に密やかであり、一方で大胆であったりする。
任に赴き離ればなれになる夫婦、訳あって遠くに引き離された恋人達、あるいは許されぬ間の二人。
たとえば但馬皇女と穂積皇子、大伴家持と笠郎女、大津皇子と石川郎女、そして名も無き東の人々。
中でも私は間を引き裂かれ越前の国へ流された中臣宅守と宮中に残された狭野茅上娘子の歌に惹かれる。
君が行く道の長路(ながて)を繰り畳ね焼き亡ぼさむ天の火もがも (狭野茅上娘子 巻15 3724)
あかねさす昼は物思ひぬばたまの夜はすがらに哭(ね)のみし泣かゆ  (中臣宅守 巻15 3732 )
逢はむ日をその日と知らず常闇にいづれの日まで我戀ひをらむ     (中臣宅守 巻15 3742 )
この頃は君を思ふと術(すべ)もなき戀のみしつつ 哭(ね)のみぞ泣く (狭野茅上娘子 巻15 3768)

今は携帯メール、遠くに離れていても思いは瞬時に届く。
便利な世である。

蘭の香にありて己の夜をもてる (瀧 春一)

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マガモ(真鴨・mallard・オス) ~一本のレール~ 
- 2010/01/05(Tue) -
真鴨

   1本のレール
どこまでも果てしなく続くレール
私は、今歩き始める
一歩、一歩しっかり踏みしめて
先には何があるのかは分からない
でも、それを恐れてはならない
一歩、一歩しっかり踏みしめて
どこまで続いているのか
長い、長い1本のレール
私は、今歩き始めた
どこまでも果てしなく続くレールの上を
私は、歩き始めた

私の古いノートに記されている詩である。
作者の名を添えていないので詳細は分からない。
若い人だろう、この先に待ちか構えるであろういくつものハードルを果敢に乗り越えて進もうとする強い意志が感じられる。

同じノートにその年の「歌会始の儀」の入選作も残されている。
  「トンネルの向こうに見える僕の春かすかなれどもいつか我が手に」
これはその中の最年少入選作、大阪の高校1年生の作。
ここにも自分の夢あるいは希望を必ずや実現しようという高い志を感じる。

動き出した今年、志に年齢の関係はなく、私もまた「一歩、一歩しっかり踏みしめて」歩き出そう。


水辺で遊ぶ鴨を見た。間近で目にするのは初めてである。
俗に青首と呼ばれる雄鳥だ。
天鵞絨のように反射する艶やかな美しい緑色の頭部、襟首には一重の白いリング。
絵の具では出せぬような胸の紫栗色、白い羽の中にその色をグラデーションで広げる。
翼鏡は光沢のある青紫色で尾を黒い幅の縁取りで締める。
愛嬌のある嘴は黄色く、水底に見える脚は紅葉に似る。
目が愛らしい。水草に突っ込んだ嘴が泥で汚れる。
眺める私を気にすることもなく自分の時間を過ごす鴨。
寒汀の水鳥は、自然からの福袋。癒しという中味が詰まっていた。

  みぎわにて草はむ鴨の日和かな(文)
 
青首
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川喜田 半泥子のすべて展 ~破格・洒脱・多才~
- 2010/01/04(Mon) -
織部黒茶碗 表千家蔵
                              織部黒茶碗 表千家蔵(展覧会パンフレットより)

東の魯山人、西の半泥子と並び称される二人の展覧会が今、時を同じくして開かれている。
北大路魯山人展は日本橋の高島屋で、川喜田半泥子展は銀座松屋での開催である。
初売りで賑わう高島屋で魯山人を、そして昨日は松屋で半泥子を鑑賞する時間を持った。
偶然にそれぞれの開催会場は8階、正月に相応しい末広がりのめでたさへの招待である。

数奇な運命を辿って長くポルトガルにあった魯山人の壁画「桜」と「富士」は常識を覆すような作品である。
しかしここでは触れず、また別の機会とする。

半泥子展について述べよう。
会場に入るなり、まず目に飛び込む陶芸作品の風格と存在感の重々しさに圧倒される。
それらの一つひとつに「人の味」、「自然の姿」、「心の妙」、「ものの哲学」というものがある。
それぞれの作品に、たとえば「心安らぐ語らい」であったり「禅の教え」であったり、「深い歌」があったりする。
造形的な意味においては、決まり切った形を打ち破ったきわめて強い個性的な創造性に溢れている。
ひびがあり、形は崩れ、ひしゃげ、いびつにして不安定、しかし主張する。
釉の色といい、土の肌といい、景色といい、あるいは指跡さえもすべてがそうなるべくして生まれてきたかのようにある。
まさに制作者としての「守破離」の世界をそこに見る。
黒い織部茶碗や志野茶碗、刷毛目茶碗…それらについて語る言葉は必要ない。
見ればいい、息を殺して見ればいい。陶芸の奥深さを、茶碗一つが示してくれる。
作陶は技術だけではなく、崇高なる精神と審美の決定力であることを示してくれる。
ただただ、これでもかこれでもかと嘆息混じりに内奥に収まっていく。
もし別の場所にどの一点のみを展示作として置いたとしても、その会場中に重厚なオーラを発するに間違いない。
見る人それぞれに伝わり受け止めるものは違うだろうが、鑑賞者に共通するのは「本物」を見たという満ち足りた思いだろう。

銀行頭取としての実業家の顔、、書画や俳句に通じた文人としての顔、建築や写真など新文化を求める進取の気性などなど。
まさに銘うつが如く「川喜田半泥子のすべて展」であった。
久々に、言葉に尽くせぬ感慨を得た心に沁み入る展覧会であった。
これほど多岐に渡るジャンルと数を一堂に集めた半泥子の作品をもう見ることはできないかもしれない。
機会あれば、彼自身が創設したという三重県津市にある石水博物館にも出かけてみたいものだと思った。
半泥子とは「半(なか)ば泥(なず)みて半ば泥まず」と禅師に頂いたものだというが、これも深い。

寒菊や光悦の文読みかたく (川喜田半泥子)

志野茶碗「赤不動」東京国立近代美術館蔵
志野茶碗「赤不動」東京国立近代美術館蔵織部黒茶碗 (展覧会パンフレットより)


井戸手茶碗「雨後夕陽」石水博物館蔵
井戸手茶碗「雨後夕陽」石水博物館蔵(展覧会パンフレットより)
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胡蝶蘭 ~春泥集を読みつつ~
- 2010/01/03(Sun) -
胡蝶蘭

初詣を控える年なれば、のんびりと部屋で過ごすのがよい。
与謝野晶子全集より、『春泥集』(明治44年1月版)を開く。

印を付けしいくつかの歌より
 わが胸はうつろなれどもこの中にこころよき水のながるる
 けふはなほわが情けもてよろこびをこころに呼ぶ幸のあれども
 春の日のかたちはいまだに變らずして衰へがたの悲しみも知る
 生涯に我を忘るる日と云ふはあるべからざることか否否
 しかすがに凍らんとして凍らぬは心なりけり忘れぬがために
 うしろより危うしと云ふ老のわれ走らんとするいと若きわれ
 開かれておのれ入りたる大門(おほもん)よのちも閉ぢざるこの大門よ

同じく初春の歌より
 わが卓にめでたく白き寒牡丹ひとつ開きて初春はきぬ
 かの人もその人も皆あらたまれ春の初めに祝(ほ)ぐ言(こと)もこれ
 みづからを愛でん己を楽まんさせずば春もさびしきものを
 髪いまだ黄ばまず心火のごとし哀みて聴く喜びて観る

東京は風もなくすっきり晴れて暖かい。
高層の部屋の窓からは雪の富士山が間近に見える。
 

  3日もまだ正月と晶子読む (文)

富士

 
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月食 ~元日の朝に~
- 2010/01/02(Sat) -
1月1日朝月食


目が覚めるとカーテンを開け、空を見上げるのが私の朝の始まりである。
元旦もいつもと変わりなくそうであった。
大晦日の雪で戸は凍り付いている。
両の手を使い難儀して開くと、空には煌煌と輝く月があった。
くっきりと輪郭がわかるまんまるの月である。
ああ、なんと清々しいことか。
手を合わせ、祈りの心持ちになる。
じっと見る。観ている。見続ける。
そして見えた。
月食である。
月の左下が地球の影になりわずかに欠けている。
時折、うす雲が横切る。
冷えた空気が部屋に流れ込む。
時計は4時14分を指す。
夢中でシャッターを切る。
こうして私の今年は爽やかな朝の月食から始まった。

月よ、君も年を取るのか。

  元日の欠け月のあるうれしさよ(文)

一月一日月食


新年の月食





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