織部黒茶碗 表千家蔵(展覧会パンフレットより)東の魯山人、西の半泥子と並び称される二人の展覧会が今、時を同じくして開かれている。
北大路魯山人展は日本橋の高島屋で、川喜田半泥子展は銀座松屋での開催である。
初売りで賑わう高島屋で魯山人を、そして昨日は松屋で半泥子を鑑賞する時間を持った。
偶然にそれぞれの開催会場は8階、正月に相応しい末広がりのめでたさへの招待である。
数奇な運命を辿って長くポルトガルにあった魯山人の壁画「桜」と「富士」は常識を覆すような作品である。
しかしここでは触れず、また別の機会とする。
半泥子展について述べよう。
会場に入るなり、まず目に飛び込む陶芸作品の風格と存在感の重々しさに圧倒される。
それらの一つひとつに「人の味」、「自然の姿」、「心の妙」、「ものの哲学」というものがある。
それぞれの作品に、たとえば「心安らぐ語らい」であったり「禅の教え」であったり、「深い歌」があったりする。
造形的な意味においては、決まり切った形を打ち破ったきわめて強い個性的な創造性に溢れている。
ひびがあり、形は崩れ、ひしゃげ、いびつにして不安定、しかし主張する。
釉の色といい、土の肌といい、景色といい、あるいは指跡さえもすべてがそうなるべくして生まれてきたかのようにある。
まさに制作者としての「守破離」の世界をそこに見る。
黒い織部茶碗や志野茶碗、刷毛目茶碗…それらについて語る言葉は必要ない。
見ればいい、息を殺して見ればいい。陶芸の奥深さを、茶碗一つが示してくれる。
作陶は技術だけではなく、崇高なる精神と審美の決定力であることを示してくれる。
ただただ、これでもかこれでもかと嘆息混じりに内奥に収まっていく。
もし別の場所にどの一点のみを展示作として置いたとしても、その会場中に重厚なオーラを発するに間違いない。
見る人それぞれに伝わり受け止めるものは違うだろうが、鑑賞者に共通するのは「本物」を見たという満ち足りた思いだろう。
銀行頭取としての実業家の顔、、書画や俳句に通じた文人としての顔、建築や写真など新文化を求める進取の気性などなど。
まさに銘うつが如く「川喜田半泥子のすべて展」であった。
久々に、言葉に尽くせぬ感慨を得た心に沁み入る展覧会であった。
これほど多岐に渡るジャンルと数を一堂に集めた半泥子の作品をもう見ることはできないかもしれない。
機会あれば、彼自身が創設したという三重県津市にある石水博物館にも出かけてみたいものだと思った。
半泥子とは「半(なか)ば泥(なず)みて半ば泥まず」と禅師に頂いたものだというが、これも深い。
寒菊や光悦の文読みかたく (川喜田半泥子)
志野茶碗「赤不動」東京国立近代美術館蔵織部黒茶碗 (展覧会パンフレットより)
井戸手茶碗「雨後夕陽」石水博物館蔵(展覧会パンフレットより)