雲の上の携帯電話
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- 2009/12/13(Sun) -
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母にとっては、私はいつも子どもであった。
自分の耳が遠くなろうが、足腰が弱くなろうが、針の穴が通せなくなろうがそれとこれとは別である。 「すごい雨であちこちが大変のようだけど、大丈夫?」 「もう寒いの?暖かくしてね」 「何か食べたいものはない?送ってほしいのはない?」 「忙しいの?体に気をつけてね」 この年になっては、本来送る言葉が逆なのだが、それが母の母たるゆえんである。 たまに帰省した折には、これでもかというほどの料理が出る。 常は少食の私だけに、半分も食べきれない。 そんな私が不満らしい。 「食べなさいよ。たくさん食べなきゃだめだよ。」 まるで幼い子に声をかけるように。 孫の個展費用にとそっと包みにくるんで送ることも…。 0○05○○3○○○6、私からの声を待っていた携帯電話である。 もうかけても出ない。 しかし、ずっと私の電話帳に残しておこう。 つながらないことはわかっているが、たまには押してみよう。 「もっと、大きい声で話してよ。聞こえないよ。」 雲の上からそんな声が聞こえてきそうである。 お母さん、そこでの生活はどうですか。 寒くはないですか。 |
紫雲に乗って
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- 2009/12/12(Sat) -
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遺影はやはり着物姿だった。
輝いた目と微笑をたたえたやさしく美しい顔だった。 それはいつか必ず来るであろうその日に備えて、自分で用意してあったものだという。 身につけた着物も、その日のために選んで着たものらしい。 すべてを段取りよくこなしていた母らしいエピソードだ。 化粧をした冷たい顔はただ普通に眠っているようだった。 穏やかに、子や孫のことを思い、あるいは父に尽くしてきたいつもの古風な母がそこにいた。 その前日も、遠くにいる末息子(私)へ手作りして送る料理のことを考えながら、台所に立っていたという。 そして、翌朝のお茶の時間に倒れていた。 そしてそのまま意識が戻らなかった。 空路飛んでいった…。 料理、花栽培、スケッチに加え、芸能やスポーツが好きで、最近はゴルフのテレビ観戦にはまっていたという。 石川遼や宮里藍のファンで、二人が優勝したときは手をたたいて喜んでいたのだとか。 そんな母は白い小さな形になって壷に収まった。 紫の雲に乗って、一足先に空の国に行って待つ父との生活をまた仲良く始めるのだろう。 そしてきっと休むまもなく、父の世話を焼くのだろう。 いつも自分より人のこと、父や子供のことを考えていた母だから。 私への「お袋の味」も、もう二度と届くことはない。 私が送る林檎や梨の「美味しかったよ」も声もない。 分かってはいる。 これは現実なのだ。 |
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