モミジ(イロハカエデ) ~感動するということ~
- 2009/11/30(Mon) -
いろはかえで

「私のね、心に残っている言葉があるんですよ。」
「それはね、『感動はその人の内にあるのでなく、その人との間にあるものである。』という言葉でしてね。」
「あのフルトヴェングラーがノートに残した言葉なんです。」
「いやー、なるほどだ、そうだと思いましたねえ。」

先日亡くなった森繁久彌さんの特集をFMラジオでやっていた。
前述したのは、1980年代のインタビュー再放送の中で、森繁さんが語る言葉である。
あの独特の言い回しで、『屋根の上のバイオリン弾き』のエピソードを交える中に出てきた。
車の運転をしていた時のことなので、細部のニュアンスは多少違うかもしれない。
ハンドルを握りながら私の頭の中ではフルトヴェングラーの言葉が何度もよぎっていた。
『感動はその人の内にあるのでなく、その人と(ひと・もの・こと)の間にあるものである。』

感動は私の向こう側にある人、もの、出来事にある。
確かにそうである。感動の対象はすべて私の外にある。

家に戻るとイロハカエデが陽を浴びていた。
大小何本もの木がそれぞれの場所で鮮やかな色を映し出している。
綺麗だ。
これも感動。
光が当たれば裏モミジもなお美しい。
感動、カエデがくれる感動。

   このもよりかのも色よき紅葉哉 (蕪村)

モミジ

イロハカエデ
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バラ(薔薇) ~薔薇二態~
- 2009/11/29(Sun) -
ピンクの薔薇・秋

見て眺めて、薔薇の枝は淋しくて。
僅かに残る枯れ色の葉二枚三枚。
ひときわの形は鋭い棘と棘。

咲くはピンクの一輪二輪。
まだも優しくゆかしき色。
ああ、寒いのに寒いのに。
凋むは赤い薔薇一つ四つ。
すでに色を失い、散るばかり。
寒かろ寒かろ、冬だもの。

咲く薔薇散る薔薇、時の薔薇。
薔薇に変わりはないものを。
咲く薔薇いずれ枯れる薔薇。

冬ばらの崩るるまでの彩保つ (山王堂正峰)  

終わりの薔薇
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昇る朝陽の都会と昇る朝陽の田舎と
- 2009/11/29(Sun) -
ホテルの窓から

都会のビルに映る都市


『春草展』を観に行ったその日、私は新宿のホテルの最上階に部屋を取った。
翌朝、部屋の戸を引いて外を見ると、ちょうどビルの背に黄金色を発する朝陽があった。
いつもならせわしい人の動きを抱えるているであろう立ち並ぶ高層ビルは静かに眠ったままだ。
日射しを浴びる反対のビルは鏡のようになって、窓の中に周りのビルを映し出す。

5時30分、週末の日課となっている朝の散歩の時刻だ。
この頃は家を出る時分は辺りはまだ真っ暗である。
しかし、歩きなれた道故、灯りがなくても歩はスムーズに前に進む。
畑の真ん中に炎が上がっているのは、どうやら剪定した枝などを焼却している様子だ。
暗闇にその赤々とした明かりを見ると、それだけで温まる感がする。
小1時間も歩けば、家々の輪郭も分かるようになるが、朝陽はまだ私の顔を照らさない。
そうこうするうちに南アルプスの一角が明るくなり始めた。
そこを飛行機が横切る。一筋の雲が伸びる。先端部分が輝く。
自然と飛行機が作り出す偶然の瞬間的コラボレーション。
かじかむ手をこすりつつ、その美しい光景をしばらく眺めていた。
数分後、飛行機雲は消え、代わりに朝陽が山を越えて伊那谷に光芒を届ける。

非日常の都会で見た朝陽と生活の一部として見た朝陽と。
11月の朝、見える朝陽はそれぞれに違う風景を浮かび上がらせていた。
そういえば幼い頃、私の朝陽は海にあった。

 秋暁や胸に明けゆくものの影 (加藤楸邨)

南アルプスと飛行機雲

南アルプスと朝陽

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ナンテン(南天) ~あかい実白い実~
- 2009/11/28(Sat) -
南天

白実のなんてん。
赤実のなんてん。
たわわふさふさ。
丸く丸々真丸く。
実のないところ。
どこどこいった。
それはきっとに。
くちばし可愛い。
小鳥さんのお腹。
おいしいのかな。
おいしいんだね。
白実のなんてん。
赤実のなんてん。
まるくまるまる。
おひさまうけて。


紅白の南天が揃ってある。
鳥がよく食べに来る。
人には食べられないのだろうか。
試してみたくもあるが恐くもある。
やはり眺めるだけにしておこう。

しろもあかも まるいなんてん 鳥のなか (文)

白ナンテン

南天2
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ムラサキシキブ(紫式部の実) ~紫は古き世の~
- 2009/11/27(Fri) -
ムrササキシキブの実

昨日は季節が少し戻ったような穏やかな一日だった。
ぽかぽか陽気が頭の隅々にまで届き、ついついうとうととしそうになる。
ブラインドを下ろして部屋に射し込む日射しを遮る。
ネクタイをゆるめカーディガンの袖を上げる。

こんな小春日和、気分は小枝に留まる小鳥のようにのんびりだ。
アメリカでは初冬のこのような温かな日を「インディアン・サマー」と言うと聞く。
ちなみにドイツ語では「老婦人の夏(Altweibersommer)」と言うらしい。
春のようだと感じる日本と、夏に喩える西洋と、その感覚や表現の違いも面白い。

紫式部とノリウツギも、花姿を変えてこの季節に合わせた顔となっている。
それぞれに深い色をしている。

紫は古き世の色式部の実 (山本鬼園)

ノリウツギ
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バラ ~冬薔薇(ふゆそうび)は淡々として~
- 2009/11/26(Thu) -
ばら68

表には現れなくとも、内に包まれてあるもの。
外の形の深奥に確かにあるもの。

穏やかなるもの、静かなるもの内なるものを見つけ聞く心。
隠れたところにあるもの、見えないところにあるものを感じ、考える心。

主張する美しさだけでなく、内面の美しさ、小さな美しさ、素朴な美しさ。
華やかに飾り立てられた美しさだけでなく、仄かな美しさ、にじみ出る美しさ。
瑞々しい勢いある美しさだけでなく、枯れや老いの美しさ。

私には私の歳月がある。
私の皺が知っている私のすべて。

霜降りて、風凍みる中にも薔薇がある。
沁み沁みとした薔薇がある。

    一輪の薔薇の背景に冬があり  (文)

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キク(ドーム菊) ~バトンは秋から~
- 2009/11/25(Wed) -
赤いドーム菊

多くのキクは終わった。
色枯れた株は根元から切り取った。
残るのはこの赤い菊だけとなった。
全体が半球径に花を付ける。
径は1㍍ほどで丈はそう高くはならない。
自然のままにして、このようにきれいなドーム型になるのが面白いというか不思議だ。
これもいいところはこんどの週末までのことだろうか。

勤めに向かう私の手は黒い革手袋をしてハンドルを握る。
足の冷えは紺の膝掛けを求める。
仙丈、塩見、農鳥など見える山々はすでに白い。
天からの白い贈り物が里に訪れるのももうすぐのことだろう。
秋が最後のコーナーを加速して回ってくる。
そのバトンはもうリレーゾーンで待つ冬の手の届くところに来ている。

晩菊の形を丸く咲きも咲けり (文)


ドーム菊
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カリン(花梨) ~働くということ~
- 2009/11/24(Tue) -
カリン

若い頃からの記憶である。

「働くとはなあ、はたをらくにさせることなんだ。」
「周りの人を楽にさせること、それがはた楽なんだ。」
「はたとはね、【端・傍】のこと、つまりかたわら、そばという意味だ。」
「丁寧に仕事をすることで、みんなが楽になる。」
「自分が汗をかけば、人は汗をかかなくて済む。」
「自分が手を抜けば、そばの人(はた)が苦労し困る。」
「自分が一所懸命にやることでみんなが気持ちよく仕事ができるようになる。」
「そしてお互いがありがたい気持ちになる。それが働くだよ。」
「字を見てご覧。人(イにんべん)が動くと書くだろ。」
「その意味は人のために心と体を合わせて動かすということだよ。」

本で読んだのか、先輩の言葉だったかの詳しいことは忘れた。
「勤労感謝の日」の昨日、そんなことなどを思い出しつつ、持ち帰った仕事を進めていた。
私ははたらくように働いているのだろうか。

天気に誘われてパソコンの手を休め、息抜きに庭へ出る。
青空の下では花梨がたくさんの実を付けている。
今年はいつになく豊作だ。
すでにいくつかは落下し、枯葉の上にある。
砂糖漬けかそれとも蜂蜜漬けか、いや果実酒がいい…。
しかしどうやら今年もその香りを楽しむだけになりそうだ。
なかなか加工し、利用するまでには至らない。
毎年のこと、部屋の中と私の車を潤す芳香剤となるのが一番の役割である。

    花梨の実高きにあれば高き風 (池上樵人)

かりん

花梨




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新美南吉 ~土産は甦るピュアな心~
- 2009/11/23(Mon) -
牛をつないだ椿の木

少し色褪せた文庫本がある。
新美南吉著『牛をつないだ椿の木』(角川文庫)の定価は200円。
初任の地で求めた本だ。
奥付には昭和47年12月30日 10版発行とある。
収められているのは「ごんぎつね」「てぶくろを買いに」「花のき村と盗人たち」「牛をつないだ椿の木」など。
「おぢいさんのランプ」の棟方志功が描く初版挿絵も載る。
中でも「屁」を何度も繰り返して読んだ記憶がある。
働き始めたばかりのまだ若かった遠い昔のことだ。

その文庫本を持って昨日、愛知県半田市にある新美南吉記念館に出かけた。
今でも多くの人々に愛され、絵本となって版を重ねる彼の作品が入り口には並ぶ。
動物や普通の人々の生活を通して描くメルヘンと叙情、愛と命と心。
いいこと、ただしいこと、すばらしいこと、うつくしいこと、やさしいこと、それらが主題として貫かれる。
南吉の物語を読むたびに考える。昔の人はなぜもこう純なのだろうと。

当たり前が当たり前でなくなっている昨今、勝ち組、負け組などという悲しい言葉。
「人のため、尽くす、支える、もてなす」という思いは…。
いかに「早く、多く、効率よく」が「本物の伝統や職人の技や地道な努力」より優る。
偽りで儲けに走る著名な料理や銘菓の店、そしてタケノコやウナギ、フグ、米までも。

8歳にして養子に出されるなど、幼少の頃から波瀾万丈の生涯を送った南吉。
病苦と闘いながら強固な意志を持った教師と作家を両立させた南吉。
30歳を前に世を去った若き童話作家の足跡に触れながら、しばし私も青年期の自分に還る。
懐に持つお土産は温かい気持ちとピュアな精神と懐かしさ。

外に出ると、家々のモミジはようやく色づいたばかりで、多くは青々としていた。
コスモスの彩りとたわわな蜜柑が知多の道沿いに続く。
海の見える半島はまだ秋のさなかだった。

深秋や身にふるゝものみないのち (原コウ子)

牛をつないだ椿の木奥付け   よみがえるあの頃 

南吉像   また今日も己を探す
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フユザクラ(大阪冬桜) ~念ずれば花ひらく~
- 2009/11/22(Sun) -
大阪フユザクラ

眞民さんは詩に書く。

 念ずれば花ひらく

  苦しいとき
  母がいつも口にしていた
  このことばを
  わたしもいつのころからか
  となえるようになった
  そうしてそのたび
  わたしの花がふしぎと
  ひとつひとつ
  ひらいていった     『坂村眞民自選詩集』より

母親の姿を見て眞民さんは優しく育った。
母親の姿を見て眞民さんは強く育った。
母親の姿を見て眞民さんは清く育った。
母の言葉は子の道標(みちしるべ)となって生きる。

小春の庭に冬桜が咲いている。
冬間近に白い八重桜。
久しぶりにのんびり過ごす私の週末。
そんな長閑なティータイムに母から電話がある。
「用は何もないのよ。ただ声が聞きたかったから」と。
「寒くない?今そちらではどんな花が咲いているの」と。
私にもたくさんの母の言葉が故郷という引き出しの中にある。

冬ざくら光の中に母待たす (守田季由)

大阪ふゆざくら

大阪冬桜
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二度とない人生だから ~眞民さん~
- 2009/11/21(Sat) -
霜菊

久しぶりに眞民さんの詩集を開いた。
美しいというわけではなく、巧みというわけでもない。
洗練された韻があるわけでもなく、整った形があるわけでもない。
しかし、言葉は詩を遊んでいない。
誠実な文字が綴られ、深さがあり、豊かさがある。
正直で温かい呼びかけがある。
小さな命にも耳を澄ませ、慈しみの眼を向け、やさしく広げる手がある。
清らかで崇高だ。
心が洗われ、心が救われる。

 二度とない人生だから/一輪の花にも/無限の愛を/そそいでいこう
 一羽の鳥の声にも/無心の耳を /かたむけてゆこう

 二度とない人生だから/一匹のこおろぎでも/ふみころさないように/こころしてゆこう
 どんなにかよろこぶことだろう
   (略)
 二度とない人生だから/つゆくさのつゆにも/めぐりあいのふしぎを思い/足をとどめてみつめてゆこう

 二度とない人生だから/のぼる日しずむ日に/まるい月かけてゆく月
 四季それぞれの/星々の光にふれて/わがこころを/あらいきよめてゆこう
  (略)
                       『二度とない人生だから』(坂村眞民自選詩集より)

私は眞民さんにはなれない。
でも眞民さんのように生きたいと思う。

   燈火親しもの影のみな智慧もつごと (宮津昭彦)

秋の四十雀

セキチク

冬の野菊
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キク(菊) ~きくの歌~
- 2009/11/20(Fri) -
菊74 (1)

日本の 秋を
かざる花
清い かおりの
きくの花          「きくの花」二番から

しみじみとした可愛い歌だ。
私達の子どもの頃は、菊といえばこの歌を思いだし、だれもが口ずさんだ気がする。
今、この歌を知っている子どもはどのくらいいるのだろう。
いや、大人でも歌える人は少なくなっているかも知れない。

キクという音の響きには長い日本の歴史や人々の生活との繋がりを感じさせる。
春の桜に秋の菊は日本の美しい景色の象徴であろう。
ところで菊はもともと日本固有の花と思っていたが、どうやら中国が原産のようだ。
たとえば書には、「万葉の時代には菊の言葉がなく、古今に入ってから見られるようになった」と記されてる。
なにより「菊」のキクという音は音読みで、訓がなく、本来の「匊」(キク)の音符に艸を加えた会意兼形声文字である。
「多くの花をひとまとめにして、まるくにぎった形をした花」と『 漢字源』にはある。
「米」の字が書かれる「匊」は手の中に米をまるめてにぎったさまを表しているという。
その菊の異称に星見草、黄金草、霜見草の名も見つける。
静かな夜にそんなことを調べてみたりする。

わがいのち菊にむかひてしづかなる (水原秋桜子)

菊74

菊74 (2)
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サザンカ(山茶花) ~忍は力~
- 2009/11/19(Thu) -
さざんか

木枯らしは有無を言わさない。
木々は否応なしに身ぐるみを剥がされていく。
欅も銀杏ももうすっかり裸だ。
錦木と満天星躑躅の赤は地面にある。
耐える時だ。待つ時だ。備える時だ。
「忍は力となる」。

虎落笛が聞こえる頃は山茶花の小春。
照葉の中に花が開く。
赤い蕾の花は白くなり。
何故に厳しい風を好む。
霜は草木に降りる。

同じである必要はない。
「みんな違っていい」。
それぞれが自分らしくあればいい。
自分が一番輝く時と場所を見つければいい。

山茶花の季節は寒い季節。
美しい山茶花は凍える季節に。

   樹には樹の哀しみのありもがり笛 (木下夕爾)

サザンカ
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キク(菊) ~菊は語らず~
- 2009/11/18(Wed) -
菊

山茱萸の古木の下に菊。
陽が昇るかどうかのまだ薄暗い朝。
花の形はこれからに。

秋、冬、秋、秋、冬、秋と入れ替わりながら。
冬、冬、秋、冬、冬となっていく。

そんな季(とき)の菊。
冷え冷えとしたそんな朝の菊。
私は手袋をして腰を屈めて見る。
菊はただただじっとして。
語らずの菊の前で私も語らず。
私と菊の音のない朝。

道を指すしづけさにある菊の声 (文)

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アジサイ ~枯色の紫陽花をしみじみと~
- 2009/11/17(Tue) -
秋のライムライト

時々、はっとする美しさに出会うことがある。
単なる美ではない。
華やぐ鮮やかな美でもない。
彩り豊かな美でもない。
しかし、確固たる美がそこにある。
それは枯淡の美とでもと言おうか、控えめで静かな美。
色を失った紫陽花が私を惹きつける。

飾り立てられた美に心は躍る。
主張する美に心は肯く。
しかし、枯れ色の中の美は心を深くさせる。

見る美、見せられる美は素敵だ。
そこには憧れがあったりする。
しかし、見つける、見いだす美には驚きと感動があり、歓びがあったりする。
それは、たとえばわびであったりさびであったり、詩と物語があったりする。

アジサイの上には穫り残した柿が五個、私の「木守りの柿」である。

紫陽花に陽光いたる小春かな (文)

木守り柿
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《雀に鴉》 ~菱田春草展~
- 2009/11/16(Mon) -
雀に鴉右隻

七五三のお宮参りで賑わう明治神宮の参道を進み、人々の流れとは少し違えてその中程で右に折れる。
そこに私達の目指す、特別展「菱田春草展」が開催されている明治神宮文化館宝物展示室がある。
幾度と観た作品もあれば、今回初めての鑑賞となるのも数点あった。
訪ねたかったのは《武蔵野》と《雀に鴉》の二つ。

《雀に鴉》は六曲一双の紙本彩色屏風である。 
一切の葉を落とした柳に群れの雀と一羽の鴉を描く。
右隻には鴉と雀の五羽が二本の太い柳の老幹に、左隻には群雀がのみがその幹としなるように伸びる枝に留まる。
静かに佇む鴉は意志を持つが如く鋭い眼光を発して、群れなす雀を見つめる。
黒い体の中を白く抜いて表した羽は、同年描かれた《黒き猫》の耳や足先の表現と同じである。
鴉の描かれた作品はこれまでにも多く観てきたが、鴉に美を感じさせる秀逸な作品の一つであることに間違いない。
雀たちに目を移すと、それぞれの位置は好き好きに、幹や太い枝そして支えきれるかどうかと思えるほどの細枝に留まる。
冬の寒い季節のことであろう、雀たちは体を丸くし、ふくら雀の姿態を見せる。
全体を離れて観る。背景にはなにも描かれない。
多くの雀がいながら、そこには音が感じられない静かな光景が広がる。
幹の灰褐色とその下方の僅かな青緑、そして雀の薄い茶以外は白黒に近いモノクロームの世界だ。
彩りの多くを排したこの表現、葉のない世界を描いた春草が求めたものはいったい何だったのだろう。
枝垂れてたわむ枝と年季を感じさせるごつごつとした幹の対比。
そして《落葉》に見られた木々の上方を切り取った独創的な表現は、さらに進められ根元さえ切り取られている。
そうすることで《落葉》にあった、地面の枯葉を視線からは取り払い、幹と枝という木の髄のみが描かれることになる。
そこにはやはり何らかの強い意図があったに違いない。
この頃、彼は「今までと方向性は変わらないが、これからは《落葉》と異なった表現を試みるつもりだ」と言っている。
この作品は彼が述べる〈異なった表現〉の具現だろうか。
何事にも動じることがないかの如き一羽の鴉は春草自身か。
とまれ、この前に立つと、息吸う音さえ憚れるような深い絵である。
この絵は第10回巽画会(1910年3月)に出品し、二等第一席となり、宮内省買い上げとなった。
その後、長く明治天皇がご愛賞された作品であったということもその由来に記されている。
翌明治44年9月、眼病と腎臓病を併発していた彼は満36歳でこの世を去る。

帰路についた大鳥居の前では、千歳飴を持った着物姿の子ども達を異国の女性達がカメラに収めていた。
原宿駅はコスプレに身を包んだ若者で溢れていた。

雀に鴉左隻
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『豹を抱くディオニゥソス』~「古代ローマ帝国の遺産」展~より
- 2009/11/15(Sun) -
ローマ帝国の美術


優しい顔をした青年の左手には豹が抱かれる。
青年は語りかけるように穏やかな眼差しを豹に向け、豹もまたそれに応えるかのように青年に視線を合わせる。
主従のパートナーなのだろう、それぞれの表情から長年連れ添った関係であることが伺い知ることができる。
ローマの昔から、ヒョウの吐息は芳香を放ち、すべての動物はこの香りに魅惑されて近寄ってくるとの伝承があるという。
ここではどのようなシンボリックな意味を持たせているのだろう。
そしてその小さな豹の体の下には葡萄が服からはみ出て今にもこぼれ落ちそうに見える。
葡萄を象徴的なモチーフとして配しているところから、この青年は葡萄酒神ディオニゥソスを表したものだという。
白大理石に刻まれた古代ローマ彫刻『豹を抱くディオニゥソス』、紀元前1世紀の作である。
初代皇帝アウグストゥスによって統一された「人類が生み出した最強の国家」ローマ帝国が成立した前後の頃である。
「秩序」と「調和」を柱に文化的都市国家を建設したアウグストゥスにより、美術史に残るローマ文化は各地の歴史と文化を融合させながらオリジナルを創出して育まれた。
狭い国土に群雄割拠の内戦が続いたイタリアは、義父カエサルを経て、アウグストゥスにより政治経済そして芸術文化において統制のとれた黄金時代が構築される。
この彫像にも彼が征服したギリシャ彫刻の洗練された表現の豊かさが受け継がれている。
表現のコンセプト、テーマ性といったものが身体の隅々までに貫かれ、豊かな表情と美しいプロポーション、カービングや研磨などの表現技術の優れた繊細さはいうまでもない。
152㎝という彫刻に於いては小品に類するが、「ローマ彫刻」の髄を我々はその中に確かに見ることができる。
ナポリ近くの遺跡に埋もれていたのを発掘したのは東京大学であったというのも時空を超えて、ローマの歴史を我々に身近に感じさせてくれる。
他に気品にあふれる『アレッツォのミネルウォ像』、堂々とした『アウグストゥス座像』そして同じく東大によって発掘された『ペプロスを着た女性像』などの彫刻、さらにはフレスコ絵画、金工芸品をも含め、古代ローマの人々の豊かに彩られた暮らしとに文化にじっくりとひたることができた。

六本木で日展を観た。遠大な時を過ぎてもローマを超えられていない。
「クラシック」という言葉は偉大な文化と同義語ではなかかと思う。
音楽にしてもしかり。

オバマ大統領が滞在した同じ日の東京は銀杏がまだ青々としていた。
歩き疲れた私を心地よい疲労感が襲い、そのままホテルのベッドに横たわって夜を迎えていた。
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サツキ(皐月)~秋麗は春の如く~
- 2009/11/14(Sat) -
秋のさつき

5月の開花で名を皐月。
五月躑躅(さつきつつじ)を略して名を皐月。
時は晩秋、落葉舞う霜降る月。
何故に皐月が咲くか、花開くか。
季節外れの二度咲き返り咲き春の花。
薄紅色の花びらと濃紫色の斑と。
おしべが5本、めしべが1本。
春の色形となに変わらずに。
秋麗(あきうらら)か空爽やか。
花は惑い、私も惑う。

皐月色の見え隠れする秋麗 (文)

秋のサツキ
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マツバギク(松葉菊) ~恋人よ~
- 2009/11/13(Fri) -
秋のマツバギク

陽当たりがいいからなのだろう。
家の入り口にある東側のマツバギクはまだ咲き続ける。
アルプスからの光芒を一番先に受ける場所で。
ピンクのカーペットを敷き詰めたような夏の頃とは勿論、様相は違う。
花径も幾分小さめになった感もある。
青々とした肉厚の葉は、近いうちにその色を剥いで冬色に変わることだろう。
桜が葉を落とし、それに被せていく。
それぞれの季節は行ったり来たりと重なり合いながら、歩を先に進める。

   枯葉散る夕暮れは
       来る日の寒さを ものがたり
帰りの車では五輪真弓の『恋人よ』が流れていた。
もう30年も前の歌だが色褪せることのない美しいメロディーだ。
せつなくもあるが。

    日だまりの枯葉いつとき芳しき (石橋秀野)

秋の松葉菊

マツバギク・秋
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ビワ(枇杷・loquat) ~頭を突っ込むほどに~
- 2009/11/12(Thu) -
ビワに蜂

枇杷もまた深まる秋に咲く花の一つである。
褐色の綿毛に覆われた蕾が開くと、芳香のある白い五弁の花びらが顔を出す。
そこへ蜂が飛んできて頭を突っ込んでいる。
花の少ない時期だけに、虫たちにとってもそれは喉の潤いをもたらすオアシスかも知れない。
これからの半年、じっくり時間を掛けて、厳寒を越えた白い色は橙黄色に色を変えて長球形の実となる。

    蜂のみの知る香放てり枇杷の花 (右城暮石)

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バラ(ミニバラ) ~ただ咲いてただ散って~
- 2009/11/11(Wed) -
ミニバラ朱色

ミニバラが四角いテラコッタの鉢にある。
白の、ピンクの、オレンジの、赤の、黄色のミニバラが。

  花には人間のような
  かけひきがないからいい
  ただ咲いて
  ただ散って
  ゆくからいい
  ただになれない
  人間のわたし  (みつを)

玄関ポーチに揃って並ぶ愛らしいミニバラたち。

誰のためでもない。
見せるためでもない。
私は私のために咲く。
見ても見なくても。
見られても見られなくても。
咲きたいから咲く。
風の囁きに、星のまたたきに咲く。
秋の声に、やわらかな光に咲く。    
私自身のために咲く。     (文)

秋薔薇や彩を尽して艶ならず (松根東洋城)
 
赤いミニバラ

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サザンカ(白八重山茶花) ~木漏れ日届く~
- 2009/11/10(Tue) -
白山茶花八重

季節(とき)を知って白い山茶花も咲く。
11月の風が幾重にも重なる花びらを優しく撫でていく
枝の間を通り抜けて木漏れ日が花びらに光と影を作る。
花言葉は「困難に打ち勝つ」「ひたむきさ」とある。
厳しい季節に咲く花の姿から与えられたのだろう。
そして白山茶花だけにはもう一つ「理想の恋」の言葉も添えられる。
そんなことを知って眺めると、恋する美しい女性にも見えてくる。
すべてがやわらかくなる。
時間も心も色も息も。

   山茶花に木漏れ日届きてしずかなり (文)

白八重山茶花


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サルビア(緋衣草)  ~淋しくて~
- 2009/11/09(Mon) -
サルビア

落葉の上の白秋を進むとその向こうに玄冬という看板がだんだんに見えてきた。
銀杏がすべての葉を落とし、多くの木の影は線で描かれるだけの形となって。
時間が季節という言葉で流れるとき、その時々に相応しい姿形というものがある。
凌霄花の葉が舞い落ちて吹き掃き溜まる庭の片隅にサルビア。
花の数も少なくして淋しげにひっそりと。
唇弁の先に出る雌蕊にすら哀愁の感が漂う。
やはりこの緋衣の花に似合う季節はもう過ぎ去ったのだ。
そんなサルビアを眺めながら、切なく女声でハモる「もとまろ」の歌を思い出していた。
   いつもいつも 思ってた
   サルビアの花を
   あなたの部屋の中に
   投げ入れたくて…
歌詞の場面を想像しながらリアルタイムで聞いていた青春グラフィ。
一つの花が「あの頃」を思い出させる。

サルビヤに情熱の些も曇るなし (飯田蛇笏)  

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バラ(蔓薔薇) ~青い光の中に~
- 2009/11/08(Sun) -
つる薔薇

青い光の中に蔓薔薇がある。
高さは3メートルほど。
しなるように伸びている。
冬が来たよと風は囁き、冷気を運ぶ。
その中にまだまだ花も蕾も葉もたくさんの蔓薔薇。
濃いピンクの花弁のその裏は白い。
表裏の色を違える花弁を首を傾け離れて仰ぐ。
空の青さがその色を一層際立たせる。

 冬薔薇(ふゆそうび)空の青に凛として(文)

つるバラ
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ヤツデ(八手・Japanese Aralia) ~虫たちの観覧車~
- 2009/11/07(Sat) -
八つ手


今日は立冬、冬の字が暦に現れ歌に冬の言葉が詠まれていく。
そんな、季節が寒さを感じさせる頃に咲く花もある。

ヤツデがたくさんの花を咲かせる。
花は乳白色の小さな花が球状に集まって円錐花序をつくる。
朽葉(くちば)色の膨らんだ花盤と拳を握って腕を伸ばしたような蕊が目立つ。
花びらはあるのかないのか、凝らして見なければ分からない。
目をマクロにすると尖塔形の反り返った花びらが僅かに確かめられる。
天狗の羽団扇とも呼ばれる掌状の葉は7あるいは9の奇数に裂する。
8裂はしないのに八手というのが面白い。
きっと縁起良くあれと末広がりの八の字を充てたのだろう。
花の少ないこの時期にその蜜を求めて蜂などもよくやってくる。
空の青をバックにすればそれは虫たちの観覧車。

    花八つ手日蔭は空の藍浸みて (馬場移公子)

ヤツデ


八手


やつで

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サフラン(洎夫藍・saffron)
- 2009/11/06(Fri) -
さふらん

日射しの中に淡紫色の優し気なサフランがある。
マツバギクを、磯菊を自分の葉のようにしてそれらに紛れながら。
あるいは枯葉を座布団にして。
紐のようにくねりと伸びた葯の黄や花柱の橙赤色と淡紫色の花被との補色コントラストが美しい。
そっと顔を出したそんな花を見つけるなどは思わず頬もゆるみ嬉しくなる。

吸い込まれそうな青空の日が続く。
秋の空はどうしてこうも澄み渡るのだろう。
何一つないこの青が、冴え冴えとした月を浮かべる夜の深い色と一緒なのかと思うと不思議だ。
「不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心」と啄木は歌った。
ああ、体が空中浮遊して高く登っていく…私をもそんな気分にさせる秋の好日。
テニスに夢中になり、あるいは胴乱や展翅板をもって蝶の採集をした日々の私の十五。

  白紙に委任の愛の手形ぞサフランは (原子公平)

サフラン
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イソギク(磯菊・岩菊)
- 2009/11/05(Thu) -
いそぎく

磯菊はその名の通り、主に海崖や砂浜に生える花である。
関東から中部にかけての温かい太平洋側を分布地とする。
そんな菊が寒々としたこのアルプスの見える地で花開くようになってから何年にもなる。
厚みのある緑色の葉は白で縁取られる。
園芸書では「イソギクは黄色い筒状花だけの花である」との説明がなされる。
しかし我が家にはその小さな両性花と周りに菊独特の白い舌状花を持つ2種類がある。
それらが混ざり合って咲いている。
どういう事かは分からないが、そういうことなのである。

初霜があった。車のフロントは全面白く覆われる。
ワイパーでこそぎ落としてから勤めに出る。
季節がまた進む。
木々も徐々に粧いを落とし、春までの眠り支度を始める。

磯菊に秋冷いたる竜の里 (文) 

イソギク

磯菊
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イチョウ(銀杏・公孫樹)
- 2009/11/04(Wed) -
銀杏

イチョウが四方八方に手を広げる。
モミジとはまた違う感傷の色を目に届ける。
この木に銀の名を与えるのはなぜだろう。
私には黄金色に見えるのに。
光が葉の影を葉の上に同じ葉の形で幾重にも映し出す。
着物にするといいのではないかと思うほどに素敵な図柄だ。
木枯らしが無情に枝から葉を引き裂く。
落ちた葉の上にまた落ちる葉。
地に敷かれいくもまた愁いおびて美しい。

一色に大樹の銀杏落葉かな (小澤碧童)

イチョウ


いちょう


銀杏落葉


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ジョウビタキ(尉鶲) ~北の大地の友~
- 2009/11/03(Tue) -
ジョウビタキ雄

「やっと逢えたね。」
そう声を掛けたくなったのはジョウビタキ。
秋の色づきとともに毎年我が家にやってくる私の友達だ。
初声を耳にしたのは10月の中頃、ああ今年もやってきたんだと嬉しくなった。
しかし、なかなかその顔を見ることはできず、そうこうして2週間以上も時が過ぎていた。
ところが先週、いつもと様子がちょっと違うことに気がついた。
ツッツッツッ…と見なくても分かる馴染みのその声が、別々の場所から聞こえてきたのである。
聞き違いかとも思ったが、いや確かに一羽ではない。
そして今朝、その姿は庭に現れた。そう、雌雄のつがいで来ていたのだった。
地でじゃれ合う、あるいは枝から枝に追いかけ合うように、そして宙でもつれ合うように。
柿の木で、イボタノキで、梅の枝にと睦まじいつがいをしばらく眺める。
雄は銀灰色の頭に綺麗なオレンジと黒に身を包み、雌は全てを地味な茶灰色で纏う。
横羽の白い三角紋は一緒だ。

初冠雪、初氷の便りが届く文化の日、私には北の大地から一年ぶりに友がやってきた。
好きなムラサキシキブはたっぷりと用意してあります。
3月までお二人でごゆるりと滞在ください。

  一羽来てすぐ一羽来て尉鶲 (坂本宮尾)

尉鶲雌
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ムシトリナデシコ(虫取り撫子・小町草) ~名残花~
- 2009/11/03(Tue) -
むしとりなでしこ

長い萼筒に薄いピンク色の花びら。
ムシトリナデシコは夏の花である。
暑い盛りに庭や土手で気ままに群れなして咲いていた。
もともとは江戸時代に鑑賞用として移入されたものだという。
しかし、今ではこのようにすっかり野の花となっている。
そして11月、深まりゆく秋にその名残の花がある。
淋しげに一つ風に揺れ、一つ陽を浴びてと。
そこへ蟻も来ては茎を上り下りして遊ぶ。
この花に小町草の名もある。
才色兼備と謳われた平安歌人の顔を思い描きながら眺め見る。

いやはや、寒い寒い朝だ。肩と足が冷える。部屋に暖房が欲しい。
ムシトリナデシコにはこの急激な冷え込みはこたえるのではないか。
楚々としたその姿もそろそろ見納めかも知れない。

今日は一日、私だけの文化の日としよう。

朝ごとに秋深くなる木草かな (角川源義)

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フジバカマ(藤袴・白藤袴) ~想ひごとふと声に~
- 2009/11/02(Mon) -
白藤袴

フジバカマが、隣り合わせに二種類ある。
先に咲いたのは白藤袴、遅れてようやく淡い赤紫のも咲き出した。
梢上に撚れた糸のような小さな花が集まる。
野の趣そのままに、飾り気のない素朴な花である。
万葉人はこの花に何を感じ、何を思って「秋の七草」に詠んだのだろう。
蜂が留まり、アサギマダラが休む姿を憶良も見ていたのだろうか。
花言葉には「ためらい」「あの日を思い出す」「優しい思い出」。
想い出を呼び戻すつゆごもりはづきの朝。

 想ひごとふと声に出づ藤袴 (永方裕子)

藤袴赤
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