
七五三のお宮参りで賑わう明治神宮の参道を進み、人々の流れとは少し違えてその中程で右に折れる。
そこに私達の目指す、特別展「菱田春草展」が開催されている明治神宮文化館宝物展示室がある。
幾度と観た作品もあれば、今回初めての鑑賞となるのも数点あった。
訪ねたかったのは《武蔵野》と《雀に鴉》の二つ。
《雀に鴉》は六曲一双の紙本彩色屏風である。
一切の葉を落とした柳に群れの雀と一羽の鴉を描く。
右隻には鴉と雀の五羽が二本の太い柳の老幹に、左隻には群雀がのみがその幹としなるように伸びる枝に留まる。
静かに佇む鴉は意志を持つが如く鋭い眼光を発して、群れなす雀を見つめる。
黒い体の中を白く抜いて表した羽は、同年描かれた《黒き猫》の耳や足先の表現と同じである。
鴉の描かれた作品はこれまでにも多く観てきたが、鴉に美を感じさせる秀逸な作品の一つであることに間違いない。
雀たちに目を移すと、それぞれの位置は好き好きに、幹や太い枝そして支えきれるかどうかと思えるほどの細枝に留まる。
冬の寒い季節のことであろう、雀たちは体を丸くし、ふくら雀の姿態を見せる。
全体を離れて観る。背景にはなにも描かれない。
多くの雀がいながら、そこには音が感じられない静かな光景が広がる。
幹の灰褐色とその下方の僅かな青緑、そして雀の薄い茶以外は白黒に近いモノクロームの世界だ。
彩りの多くを排したこの表現、葉のない世界を描いた春草が求めたものはいったい何だったのだろう。
枝垂れてたわむ枝と年季を感じさせるごつごつとした幹の対比。
そして《落葉》に見られた木々の上方を切り取った独創的な表現は、さらに進められ根元さえ切り取られている。
そうすることで《落葉》にあった、地面の枯葉を視線からは取り払い、幹と枝という木の髄のみが描かれることになる。
そこにはやはり何らかの強い意図があったに違いない。
この頃、彼は「今までと方向性は変わらないが、これからは《落葉》と異なった表現を試みるつもりだ」と言っている。
この作品は彼が述べる〈異なった表現〉の具現だろうか。
何事にも動じることがないかの如き一羽の鴉は春草自身か。
とまれ、この前に立つと、息吸う音さえ憚れるような深い絵である。
この絵は第10回巽画会(1910年3月)に出品し、二等第一席となり、宮内省買い上げとなった。
その後、長く明治天皇がご愛賞された作品であったということもその由来に記されている。
翌明治44年9月、眼病と腎臓病を併発していた彼は満36歳でこの世を去る。
帰路についた大鳥居の前では、千歳飴を持った着物姿の子ども達を異国の女性達がカメラに収めていた。
原宿駅はコスプレに身を包んだ若者で溢れていた。
