バラ(ピンクノックアウト) ~夢中に~
- 2009/10/31(Sat) -
秋のピンクノックアウト

『思わず夢中になりました』
時間を忘れ、時には己を忘れてのめり込む。
終えた後に気づく疲労感は満たされた成就感に変わっていく。
誰しもそんな経験が一度や二度はあるのではないか。
夢中になるもの、夢中になること、夢中…。
「夢の中へ、夢の中へ、行ってみたいと思いませんか~」と陽水も歌う。

全国読書週間が始まった。『思わず夢中になりました』はその標語である。
私も新しい本を二冊手に入れた。
“無心にして花を尋ね”(堀文子著)は前から読みたかった本だ。
“碌山 愛と美に生きる”は自分の原点、アイデンティティへの回帰。
「思邪無き幼児の心」を教えてくれた碌山へ思いを馳せ、基礎基本に戻る。
二冊をこの週間中に読み終えることにしたい。

ピンクノックアウトという名のバラ咲く10月最後の庭。

  曇天にシュールになれる薔薇であり (広井和之)

ピンクノックアウト
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キク ~朝霧の中~
- 2009/10/30(Fri) -
白菊と黄菊

この時期になると、天竜川に沿って下る私の通勤路は毎朝のように霧に包まれる。
ライトを点灯させながら見えるのは100㍍ほどの前方のみ。
いくつかの支流が注ぐ地ではなお一層その視界は狭くなり、見える距離はさらに短くなる。
周りの景色を判然とさせないその神秘的な自然の技は、たとえば映画の一シーンのように叙情を誘う。
着く頃になると霧も消えて、対岸に見える赤石や伊那山脈の中腹には雲が棚引き、また味わい深い光景が広がる。
見て感じて考えさせててくれるこのような自然が身近にあることを有りがたく思う。

朝の庭のまだ薄ぐらい中にも菊。

  見えざれば霧の中では霧を見る (折笠美秋)

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バラ ~やはらかな秋の光に包まれて~ 
- 2009/10/29(Thu) -
一重のバラ

所用で外出した折、目映い紅葉の見える景色に少し車を止めて眺めた。
澄んだ光が山影を一層鮮やかに浮かび上がらせる。
紅色、黄色、朱色などの色彩が映し出す自然のキャンバス。
青空の下、遠くには仙丈と塩見が真っ白な雪を戴いている。
すべての音と風、すべての色と光が透き通り、心に染み入る。
静かな時間が流れ、そんな秋の色、秋の音、秋の風に身を置くと至福という言葉に包まる。

ああ時間だ、仕事だ。まだいくつも訪ねなくてはならない。

  秋薔薇はしずかしずかにやはらかに (文)

一重の薔薇
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アキチョウジ(白花秋丁字) ~影絵の顔~
- 2009/10/28(Wed) -
あきちょうじ

アキチョウジは筒状の小さな花。
か細い茎にぶら下がり、下向きにあるいは横に向きに咲く。
それはちょっとの風で、ゆらりゆらりとみんなで仲良く揺れる。
花はユニーク顔。
見ていると、子どもの頃の手で作った影絵遊びを思い出す。
あの、人差し指と小指を立て、薬指で目を作り、親指と中指を揃えて作った狐に似ているのである。
立った両耳と口先が尖った狐の顔。
まるで白い子狐がたくさんいるよう。

秋丁字ゆらりゆれゆれ岩の陰 (文)

白あきちょうじ
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ワタ(棉の花) ~秋雨は肌に冷たく~
- 2009/10/27(Tue) -
棉

昨日は雨の一日だった。
「そんな日もたまにはあるのさ」と傘を差して庭を歩く。
秋の気は雨でいっきに下がり、体は厚着を求める。

冷たい雨を受けながら棉の花が咲いている。
鳥の子色をさらに薄くしたような淡い色あいの花だ。
この色で見るのは今年初めてである。
というのも一月前に見た時はすでにピンクに色を変えた終わりの花だった。
色が咲き始めと咲き終わりに変化する棉の花。
それはやがて実がはじけふっくらふわふわの綿になる。

ところで棉と綿と字を使い分けたのには意味がある。
植物としては「棉」を用い、繊維材料として言う場合に「綿」を用いるのだと以前教えてもらったことがあるからだ。
辞書にも【「棉」は会意文字で、「木+帛(=白+巾、しろぎぬ)」で、白布をつくるわたの木】とある。
今はすべてが「綿」を用いることになっているようだが、私はこだわってみたい。

秋雨に黙して咲けり棉の花 (文)  

棉の花
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キク(菊) ~たましひの菊~
- 2009/10/26(Mon) -
菊

秋には菊。
菊は薫る。
色様々に丸い菊、ふんわりの菊、大きな菊小菊。
菊の季節、日本の秋。

邪気はらい長寿延命の菊伝説。
  このごろのしぐれのあめにきくのはなしりぞしぬべきあたらそのかを(桓武天皇)
  春草の描く幽谷深山の菊慈童。
歌に菊、絵にも菊。
人の心にも菊。
私の菊は母の花父の花。

たましひのしづかにうつる菊見かな (飯田蛇笏)  

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ホトトギス(杜鵑草・時鳥草・油点草・toad lily)
- 2009/10/25(Sun) -
杜鵑草

ホトトギスは今が盛りである。
湾曲するように長く伸びる茎の葉腋から数個ずつが上を向いて咲く。
1㍍にも近いいくつかの株は、自分を支えきれずに枯葉の上の地を這う。
名はその花模様が鳥の時鳥の胸文に似ていることに由来する。
形も大きさも様々な紫斑が白地に描かれる。
それは油点草と別名にあるように、油滴天目釉を施したような斑である。
いずれにしても人はそこに色の織りなす美を見て名付けたのだろう。
ところで、英名ではtoad lily、つまり直訳すればヒキガエル百合ということか。
外国ではガマに表れる模様に見立てているという、その感性の違いが面白い。

そんなホトトギスの上にも落ち葉が1枚2枚と届き、色美しきものと色失いしものの対照を映し出す。
花言葉は「秘めた思い」「永遠にあなたのもの」。

むらさきの後れはとらじ油点草 (後藤夜半)

ホトトギス

ほととぎす
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アカトンボ  ~秋の風情、秋の叙情~
- 2009/10/24(Sat) -
アカトンボ

赤とんぼがやってきてはあれこれに留まってくれる。
多くはアキアカネ(秋茜蜻蛉)やノシメトンボ(熨斗目蜻蛉)の仲間たちだ。
赤とんぼと文字で書き、アカトンンボと口にするだけで、それは秋の情景と一体になる。
稲刈り後のはざの上に、夕日を浴びるススキに、あるいは雄雌が繋がって水たまりに尻打つ姿など。
そして多くは木々の枝先など、ものの先端に留まるのが好みのようだ。
そんな心安らぐのどかな様を眺めていると誰もが自ずと詩の心になる。
彼らは初夏に里辺の水田や池沼などで生まれ、そして夏の間は雑木林や高い山の上へ移動して過ごす。
澄み渡る青空に覆われて秋の気配が広がる頃に、再び里へ戻ってきて池や沼、湿地などで産卵をする。
そしてヤゴとして冬を越し、6月頃水中から出て脱皮しトンボになるのである。
今こうして我が家の庭にやって来るトンボたちもいずれ産卵の命を燃やすことだろう。
あるいは、じっと羽を休めているのはすでにその任を終えてホットしているものなのかもしれない。

赤とんぼ一つふたつと秋の下(文)

赤とんぼ

あかとんぼ
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アブチロン(アブチロンナイロビ)  ~星空を眺める青春~
- 2009/10/23(Fri) -
アブチロンナイロビ

アブチロンが咲き出したのは夏の盛りの頃だったから、もう長いことになる。
まだ蕾もあり、その花姿はしばらく楽しめそうだ。
それでも、11月に入ると鉢に植え替えて部屋の中に取り込むことにしよう。
毎年冬場は部屋で過ごさせている。本来熱帯原産の花だからだ。

今日は霜降、朝は暦通りの冷え込みである。花や葉が白く包まれる。
新聞には山粧う錦色の景色が載る。また一段と秋が秋らしくなる。

朝4時前後、1日目は0、2日目は1、3日目は4、そして今日は2つ。
70年に1度というオリオン座流星群の天体ショーで私が見た流れ星の数である。
南のオリオン座から飛び出して東へ北へ西へと流れていった。
それらはその昔、ハレー彗星が宇宙へ放出したものだという。
暗闇の庭で真冬の外着に身を包み、誰もいない静かな夜空をじっと見上げる。
空気は澄んで満天の星の中に燃え尽きた命のように糸を引く流れ星。
星を見ていると気分は青春の中に引き戻らされる。革手袋の中で手はかじかむ。

霜降の空に星降りて肌寒し (文)

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バラ  ~庭には変わらぬ薔薇のある~
- 2009/10/22(Thu) -
フサザキのバラ

青いバラが発売されたという。
名前を「サントリー・ブルーローズ・アプローズ」、花言葉は「夢かなう」。
20年近くかかってようやく販売にこぎ着けたとのこと。
しかし、まだ生産量が限られているために全国販売とまではいかず、一部地域での限定販売らしい。
ところでだいぶ前の話になるが、昔から「青いバラ」と言えば不可能という言葉の代名詞だと聞いたことがある。
世界中でその開発競争が進められ、どの国が一番乗りするかと愛好家から大きな期待が寄せられていたとも。
それが大量生産の域にまで技術が確立されたというのだから凄いことだ。
遺伝子組み換えにより世界で初めて開発に成功したのは数年前のことだと記事は紹介している。
実はその前にも青いバラはあった。それを私は見ている。
その時の名は「ブルーヘブン」、「セントレア・スカイローズ」の別名もあった。
シルバーブルーの爽やか色という触れ込みであったのを今でも覚えている。
純粋の「青」というより、少し青みがさしているというような薄い青だったのを覚えている。
その後、その青いバラはどうなったのだろう。
今度の記事にある写真も以前のに比べてさほど青色が濃くなっている感はしないような気もする。
とまれ、珍しいバラであることには間違いない。
少々値段が張るとしても、手に入れて育ててみたいと思う。

庭には私のバラアルバムの一番最初のページを飾る相変わらずのバラが咲く。
私がバラを増やし育てるきっかけとなった長い付き合いの二つのバラである。
それはまだバラの名など意識していなかった頃の話だ。

  秋薔薇(あきそうび)咲けよ咲けよまだ咲けよ(文)

ロゼアンジェ
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キク(菊) ~菊の色深し秋気芳し~
- 2009/10/21(Wed) -
べにぎく

菊が溢れるように乱れ咲く。
心得ある人は形を整えて、一層の美しい姿に仕立てるのだろうが…。
そんな技を会得していない私の菊たちは気ままな姿で青空の下を楽しんでいる。
紫式部は菊を詠む。
 色まさるまがきの菊もをりをりに袖うちかけし秋を恋ふらし
 むらさきの雲にまがへる菊の花にごりなき世の星かとぞ見る
ああ、菊薫り色深き秋麗なり。
空繋がるふるさとの菊はいかにかと思う秋の日。

  菊咲けり紫式部の菊咲けり (文)

紅菊

ベニギク
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ツワブキ(石蕗) ~一隅一切~
- 2009/10/20(Tue) -
石蕗

ツワブキには庭の隅や奥が似合う。
舞台でいうなら主役でなく、背景の絵か、さりげなく置かれた小道具のように。
しかしそれがなくては何か物足りない、そんな控えめでありながら存在感のある静かな花だ。
太く伸びた花茎の先に爽やかな黄色い花がある。
その色と青々とした艶やかな葉とのコントラストが相互に引き立て合う。
中央の筒状花からは小さな蕊がチョンチョンと顔を出す。
それを取り巻くやわらかな舌状の花びらは数を不規則にする。
秋から冬にかけ、花々が姿を消していく中で、石蕗は庭の彩りとしてゆかしく佇む。

一隅を一切とせり石蕗の花 (和田悟朗) 

ツワブキ
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キンモクセイ(金木犀) ~咲く花散る花二度の花~
- 2009/10/19(Mon) -
金木犀

それは9月下旬のこと、金木犀の咲くのを見て怪訝な思いでいた。
例年より3週間も早かったからである。
そして、そのおかしな事に気がついたのはしばらく経ってからである。
あれ以来、花がずっと咲き続けているのだ。
甘い香りは変わらずに広がっている。
いや、待てよ。一回それらは散りはじめたのではなかったか。
こんなに長く咲いている筈がない。何か変だ。
そんなことを思いつつ、金木犀を眺めていた。
その答えは偶然にも見つかった。
同じ現象が他でも多く見られるということを話してくれる人がいたからだ。
この近くのあちこちで金木犀の二度咲きが起きていることが新聞記事に載っているという。
そしてその年は農作物が豊作になるという言い伝えがあるのだとも。
しかし、今年はどうやらそれも外れのようだ。
この地域は松茸の産地として知られている。
それが今年はほとんどマツタケがないという近年にないまれに見る不作だとか。
本来今頃、県外からも訪れて賑わっているはずの松茸観光施設も提供するマツタケがなく、営業を止めたとか。
学友林で採れるマツタケで給食を味わう学校でも今年はどうやら実施が不可能とのこと。
「毒茸さえ生えてこない」「こんなにキノコの数が少ない年は初めて」と山を知る人の話しが記事にも載っていた。
野菜もあまり出来が良くないとも聞く。

自然という大きな力。
人間がいくら束になっても敵わない。

金木犀が咲いている。
金木犀が散っている。

  木犀やしづかに昼夜入れかはる (岡井省二)

きんもくせい

キンモクセイ
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バラ(エンゼルフェイス) ~秋の日のバラと蜻蛉~
- 2009/10/18(Sun) -
エンゼルフェイス

バラが咲いている。名をエンゼルフェイス、天使の顔。
トンボがバラの枝先に留まる。昔の人は蜻蛉(あきず)と名づける。英名ではdragonfly、飛ぶ竜と。

秋の日はどこかへ出かけたくなる。
それは、人気のない森の中だったり、どこまでも続く落葉松林だったり、病葉の漂い浮く池だったり。
あるいは、蔦の絡まる小さな美術館だったり、その人とじっくり向き合える個人美術館だったり。
秋という言葉がそうさせるのだろう。
秋は物憂い季節。秋は物悲しい季節。秋は哀愁の季節。秋は…秋は…。
秋は自分を見つめる季節である。

秋の日、人は何をする。
私は庭を掃く。
栃、欅、桂、小楢、桜、李、柿、合歓、胡桃…それぞれの葉にも秋。

枝の先とんぼの足にも秋日かな (文)

あかとんぼ


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クラマホトトギス(鞍馬杜鵑草) ~かわたれどき~
- 2009/10/17(Sat) -
くらまほととぎす

変化する情景や移りゆく時間を表した言葉の中のいくつかはもう失われつつある。
美しい響きを持つ「かわたれどき」も今はほとんど使われない。
「彼は誰」かと、その姿を判別できない薄暗い明け方をいう。
夕暮れ時の物影が微妙に目に映る時刻の「誰そ彼」(たそがれ)は今も残る。
言葉は生活と共に生まれ、息づき伝えられていく。
それらも太陽に合わせて一日が始まり、一日を終えていた昔の人々の目と感性が作った言葉。
およそというおおらかな時間、ゆったりと流れる暮らしの時間、それらを感じていた昔の人々の心が言葉を作り出す。
現代の人々の生活が夜型に移行し、朝の時間をせわしく過ごす今は「かわたれどき」は共有性とならなくなった。
そして、人々からその言葉は消えていく。
1年を通して朝の早い私は「かわたれどき」を味わえる。
かわたれどきとたそがれどき、そんな原初が織りなす景色に身を置いて眺める余裕を持とう。
秋の夜長にふと思い出した「かわたれどき」。

秋暁や胸に明けゆくものの影 (加藤楸邨)

クラマホトトギス
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シチョウカ(紫鳥花) ~心のチューニング~
- 2009/10/16(Fri) -
シチョウカ

ポローン、ポローン、ポローン。
一つひとつの音が鳴っては止まり、鳴っては弾かれる。
私にはその違いがよく分からない。
ポローンとキーが叩かれては、廻し締められ弦が調律されていく。
こうしてピアノは音叉やチューニングハンマーによって音の狂いと音色が整えられていく。
彼の耳と目と手の動きは寸分の違いも見逃さない。

知らないうちに自分の心も伸びきっているのかも知れない。
あるいは価値基準の周波数がぶれているのかも知れない。
あるいは自分の発する音は正調だと勘違いしているのかも知れない。
ときどき、自分も音叉やチューニングハンマーを心に当てよう。
心にもチューニングが必要である。

秋の夜や音なく更けて行くことに (小杉余子)
 
紫鳥花
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ダルマホトトギス(達磨杜鵑草)
- 2009/10/15(Thu) -
だるまほととぎす

ダルマホトトギスはこぢんまりとしている。
花びらも葉も丸みを帯びて小さめだ。
花柱が3裂し、その先が二つに分かれているのは他のホトトギス同様であるがこれも短い。
蕾は弾丸形でなく、先端が丸く膨らむのも違うところだ。
薄い紫地に濃い赤紫斑を落としてその種特有の色模様を作るのは共通する。
強いて言えばその斑点がほかのに比して少なめかも知れない。
離れて眺めるというより、顔を寄せ目を近づけて見たくなる花である。

秋も深まる。部屋でもガウンが必要となった。

    杜鵑草に秋冷いたる木陰かな (文)

ダルマホトトギス
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ダリア( dahlia) 
- 2009/10/14(Wed) -
ダリア2

ダリアが元気である。
咲き出してからもう4ヶ月ほども経つのではないだろうか。
幾種類もの幾色もの花が次々に咲き続ける。
部屋の彩りに長く付き合ってくれてとてもありがたい。
蝶が留まっては移り、休んでは離れる。
そんな花と蝶を眺めていると、頭は昔の歌を思い出していた。
 花が女か 男が蝶か 蝶のくちづけ うけながら 花が散るとき 蝶が死ぬ そんな恋する 女になりたい
哀愁を帯びたメロディーがかすれたビブラートに乗って歌われる。
のどかな秋の日のゆるりとした一人時間。

秋の日のかりそめながらみだれけり (去来)
 
ダリア3
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イワシャジン(岩沙参) 
- 2009/10/13(Tue) -
岩沙参

イワシャジンの咲く姿はまさに鈴なりという言葉がぴったり。
下を向いた紫の花はまるで小さな釣鐘がぶら下がるよう。
そのたくさんの花は1㎜ほどの細い茎をしなやかにたわませる。
花の形は桔梗そっくりだが、葉は細長い。
岩の沙参とあるように、本来は岩場に咲く花だと聞く。
私は様々な思いを巡らせながら秋の部屋で眺める。

岩沙参見れば聞こゆ秋の声 (文)

岩沙参二輪
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タマスダレ( 玉簾・ゼフィランサス・atamasco lily) 
- 2009/10/12(Mon) -
ゼフィランサス

タマスダレはまっすぐ伸びた花茎の頂に純白な六弁花を咲かせる。
上向きの白い花びらに合わせて同じく六つの黄色い蕊が添えられる。
木漏れ日を受ければ、なおに優しい白となる。
夕方になれば閉じて朝までお休み。
規則正しい一日の生活で、夜更かしはない。
明治初年に渡来した南米原産の花だとか。
それに玉簾と名づけた昔の人の素敵な感性。

新月や夜は花とづる玉すだれ (藤井静枝)

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バラ(バイオレットヒル) ~紫の丘~
- 2009/10/11(Sun) -
バイオレットヒル

「この秋一番の冷え込みとなり、北アルプスでは初冠雪がありました。」
ラジオからは雪便りが届く。
肌寒い朝だった。
枯れ枝と落葉を集めて焚き火する私に「寒いですね」と散歩の方が声を掛けていく。
秋映えの空である。

展覧会の準備をした後、体は少し疲労を訴えている。
飾り付けが終わったのは5時少し前であった。
帰路に付くフロントガラスの向こうには夕陽を浴びた南アルプスの山々が見える。
この地には『山紫に 水清く…』との歌がある。
目に映る山影はまさにその紫に染まっている。
美しい…いつもながら、色染まる塩見、仙丈などに感嘆する。

岸田國士は戦時疎開で逗留したこの地に寄せて「美しき町 ゆかしき町 ゆたかなる町」と歌った。
 山ちかく水にのぞみ 空あかるく風にほやかなる
 人みな言葉やはらかに 物音ちまたにたたず 粛然として古城の如くたつ
 家々みな奥深きものをつつみ ひとびと礼にあつく 軒さぶ甍ふり 壁しろじろと小鳥の影をうつす (略す)
窓に映る景色を眺めていると、ふと彼の歌が頭に浮かんできた。

秋は色の季節である。
庭にはバイオレットヒル(紫の丘)という名のバラが咲く。

かはたれの秋ばら瑠璃の色そへて (角川源義)

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ユウゼンギク(友禅菊) ~好意の返報性~
- 2009/10/10(Sat) -
友禅菊

「好意の返報性」とは最近知った言葉である。
相手に対し「好意」をもって接すれば、相手も好意をもって応える。
敬意ある態度を示せば、相手も理解を示し信頼関係が深まる。
受容的肯定的な立場を見せれば、そこには許容的共感的な会話が生まれる。
こういうことを意味しているのだろう。
逆に、敬遠するような言い回しや拒否的な態度は、本人が自覚していなくても感覚的に相手に伝わるものだ。
ましてや相手を見下したような言い方や否定的な言動は相手を不愉快にさせ相互の関係性は成立しない。
人とよりよい人間関係を築くには、自らがその人を好きになることなのだ。
「嫌意の返報性」にも気をつけなければならない。
発する言葉や話す顔、表す態度、見せる後ろ姿を自覚しよう。

涼し朝友禅菊の色静か (文)  

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ハマギク(浜菊) ~台風一過の後には澄んだ月~
- 2009/10/09(Fri) -
ハマギク

コスモスに似た白い花はハマギク。
葉は肉厚で光沢がある。
年を経ると茎は太くなって木化する。
丈はおよそ50㎝前後、横に広がるように株となる。
本には「本州の太平洋岸を青森県~茨城県に分布する日本の固有種」とある。
その名の通り、本来は海辺の花のようだ。
アルプスの見える海のないこの地に来てもう何年にもなる。
海の娘が嫁いできたのは遙か離れた山の国…。
健気と言おうか、海恋しと言わないか。
毎年冬になると、およそ20㎝位のところで剪る。
すると秋にこうしてたくさんの花を付けてくれるのである。

浜菊の咲くや台風後の庭 (文)
 
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モミジバゼラニウム ~大雨洪水暴風警報の中で~
- 2009/10/08(Thu) -
モミジバゼラニウム

激しい雨風である。強台風の中だ。
そばの川が唸りはじめ、桜の木は枝を大きく左右上下に揺らす。

私の記憶の中には台風による甚大な被害がいくつもリアルタイムの体験として残されている。
家屋の倒壊や樹木が根こそぎになる姿を目の当たりにした。
屋根が吹き飛ばされ、ブロック塀が崩れて道を塞ぐ。通う校舎まで横倒しだ。
家族で避難した場所やその時の様子までが鮮明な映像として私の脳裏に記録されている。
台風の恐ろしさはよく知っている。

昨夜は帰宅後直ぐに、家の周りを点検し飛ばないように固定した。
外の作業場も杭を打ち直し、針金で縛り付補強した。鉢花は全て中に入れた。
大雨洪水暴風警報が発令されている。
人ごとでなく、被害が心配だ。
無事に通り過ぎるのを祈ろう。

部屋の中には避難したモミジバゼラニウムなどが静かに咲く。

   台風を充ちくるものゝ如く待つ (右城暮石)

紅葉葉天竺葵
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ダイモンジソウ(大文字草) ~花も習うか~
- 2009/10/07(Wed) -
大文字草

綺麗な紅色の「大」。
三つ、四つと並んである。
誰が教えるわけでもないのに、みんな「大」の字。
爽やかな秋気を感じて花開く大文字草。
蕾もたくさん。
蟻も花芯に来て遊ぶ。
秋、益々となる。

大文字草大の字を習得す ( 後藤夜半)

大文字草と蟻
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ノギク(野菊) ~野菊の如き~
- 2009/10/06(Tue) -
野菊

野菊の咲く頃となった。
庭の至る所で群れて咲いている。
それはまさに野の花、景色に溶け込む。

「好き、嫌い、好き、嫌い、好き…」
花びらを一枚ずつ取って捨てての恋占い。
それは遠い昔の少年と少女の初々しい心のお遊び。
記憶を辿ればそんなこともあったのか。
政夫と民子に涙したことも。
野菊を見れば、青春物語。
純な心は遙かな昔。

はればれとたとへば野菊濃きごとく  (富安風生)

野菊1

野菊2
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カキ(富有柿) ~今年は柿が~
- 2009/10/06(Tue) -
柿1

柿の収穫をする。昨年より二週間以上も早い。
例年は11月に入ってのことだ。
この時期に収穫したのには訳がある。
10日ほど前から実が落ちるようになったからだ。
こんなことは初めてである。4分の1ほどがもう落ちてしまった。
実がこれだけ落下するというのは経験がない。
何かおかしい。勿論、葉もどんどん落ちてくる。
このままでは全てが落ちるのではないかと危惧し、穫ることにしたのだ。
通常は木の上で熟したのを穫るのだが、今年は熟前のものも収穫せざるを得ない。
それでもコンテナの2箱は収穫となった。
別にある2本の渋柿の方にはほとんど実がない。
やはり何かがおかしい。

柿落ちてうたゝ短き日となりぬ (夏目漱石)

柿2

柿
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ジンジソウ(人字草) ~人という字~
- 2009/10/05(Mon) -
人字草

ジンジソウが咲いた。
花は確かに「人」という字に見える。
左払いと右払いのような太さの変化は筆で書いたようである。
花弁は5枚、下の花弁の長くのびた二つがその字を形作る。
上の3つの短い花弁の基部に黄色い斑点がある。
総体としては竿灯にも似たぶら下げ提灯のような可愛い花だ。
風が吹く度にその提灯が揺れ、それがまた愛らしい。

支え合う字を見ている秋の朝 (文)

ジンジソウ

じんじそう
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初頭性効果 ~人の印象と言葉~
- 2009/10/04(Sun) -
花雫

「同じ言葉を並べても、最初に前向きな言葉を示した時の方が、後ろ向きな言葉を示した時より、全体の印象は前向きになる」
これを心理学では「初頭性効果」と言い、第一印象の肝心であることを新聞のコラムは述べている。(中日新聞)
米国の心理学者S・E・アッシュが1940年代の実験で明らかにしたことだという。
人との会話でも、自己主張をあまりにも優先させる人の印象は敬遠される。
人の話に頷き受容的態度で聴く中で、共通の話題や課題に真剣に向かい合う姿は共感を得る。
言葉は生きている。言葉にはその人の心が見える。態度が現れる。深層が湧き出す。
時に、理路整然と正論を述べる人のその正しさが人を傷付けることもある。
時に、木訥とした少ない言葉の語りが、温かく人を支え励ますこともある。
人は強い人ばかりではない。

昨夜は帰りが少し遅くなった。
赤石の山並みを越えた東の方角に、明るく澄んだ月を見ながら帰った。
満たされた仕事を終えて握るハンドルは軽かった。
ふと初頭性効果を思いだした。
言葉を大事にしようと。

朝露の花
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スイートアリッサム(sweet alyssum 庭薺) 
- 2009/10/03(Sat) -
アリッサム

木々が季節を感じ、色を変えた葉を落としていく。
覆いを一枚一枚と脱ぎ捨てるかのように。
そんな樹の下で白い花が株となって咲いている。
スイートアリッサムは4弁の可愛い小花、何年もの前に春用の花として種を蒔いたのがはじまりだ。
それがこぼれ種から出てくるのか、宿根草として残っているのかは私にはよく分からない。
今では自生する如くに、こうして枯葉舞う秋深くまで咲き続ける。
花言葉に「美しさを超えた価値」とある。
それは目に見える皮相なる美ではなく「ことものひとの」精神性、内面性、人生観、生き方をいうのだろう。
「なにも見えないよ、心の目で見なくちゃ」との声が聞こえてきそうである。

今日は十五夜だという。どんな月が見えるのだろうか。
穂芒を挿し、少しは明澄なる夜空を眺める時間を作ろう。

   しみじみと立ちて見にけりけふの月 (鬼貫)

スイートアリッサム

すいーとありっさむ
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スペアミント(spearmint) ~十月の秋~
- 2009/10/02(Fri) -
ミントと小灰蝶

ミントはその繁殖力が強い。
10年ほど前のこと、最初は小さな一つの苗だった。
それが、地下茎と匍匐枝で横へ横へと広がり…。
他の花のことを考えて、抜いては抑え、抜いては抑えるのだが。
その抜いたのがまたそこで息づく。
今では、お気楽にどうぞご自由にと。
葉は濃い緑で和名をミドリハッカというのだと。
一枝、あるいは一枚の葉を手にするだけでその香りは広がる。
そういえば高校生の頃だったか、ガムの味に用いられていた懐かしい記憶も甦る。

花の時期である。その香りに誘われて昆虫もやってくる。
ベニシジミ(紅小灰蝶蝶)は一つの花で長く楽しんでいる。
終わりかけた花にも蜂たちがいる。
十月、虫たちにもそれぞれの秋がある。

   薄荷の香好きよ好きよと紅小灰蝶 (文)

ミントと蜂

ミントに蜂
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