
ゴーギャンは言う。
「私はこれ以上のものも、あるいはこれに匹敵するものも二度と作ることはできまいと思う」と。
当時、彼はタヒチにおいて貧困と病苦の中にあり、さらに追い打ちを掛けるように娘の死という人生のどん底にいた。
そして深い絶望の中、自らの命を葬り去ろうと決意し、全身全霊を込め遺言的な意味を持って描いたのだった。
その宗教的なタイトルが示すように、彼は自身の存在について自問自答しつつ、人の生と死についての答えを求める。
人の一生をまるで絵巻物にしたように、人生の縮図を彼の苦悩の哲学は描く。
絵は右に生の象徴である無辜な赤ん坊が眠り、そして左端には人生の終点に近づいた老婆が手を頭にする。
その間には果実の甘さを手に入れた少女、愛と性の喜びを知った若い女性、さらには幸せな家庭を持つ豊満な女性が描かれる。
背景には自らの将来を見つめるかのように立つ一人の女性と青春の蹉跌と煩悶のまっただ中にいるかのような若い二人。
どの人物も目に感情が宿っている。目が語っている。目を閉じて眠る赤ん坊すらも語らぬ多くの言葉を持つ。
島の信仰神は両手を広げ、黙って世俗の人々の全てを聴き、全てを見つめ、全てを包む。
さらには暗喩として描かれる黒い犬と白いネコ、ヤギと鳥。彼がそれらに込めた意味とは…。
全体として調和の取れた画面構成でありながら、個々のモチーフはそれぞれがきわめてシンボリックに描かれる。
文明とはかけ離れ打算も策略もない平和な土着の人々。
自然の一員として今をひたすらに生きる金儲けとは縁のない世界。
そこには一人も「男」は描かれていない。そこにいるのは彼女らを優しく見つめる彼、ゴーギャンだけ。
大きい作品である。先ず流れに沿って絵の間近で観る。さらに離れて全体を観る。もう一度前に出て部分を観る。
それを繰り返し好きな位置、好きな距離、好きな間合いで観る。満足いくまで時間を掛けて観た。
作品の上部両サイドには、装飾的な金地の中に花と讃が描かれる。
これは当時着物、浮世絵、漆器、襖絵などのジャポニズムが印象派を初めとした画家達に好まれていた影響だろうか。
重いテーマ性を持った作品だけに、観る人の足も自ずと止まる。
それが伝わってくるからこそ、人をこれだけ惹きつけるのだろう。
作品を作るということは単なる写生ではないことを、作者の心情、コンセプトがいかに大事であるかをこの作品は強く示す。
連休の中日とあってか、国立近代美術館は大勢の人だった。
外へ出ると、皇居のお濠端はカラフルなウエアに身を包んだジョギングする人たちが次々に流れていた。
神聖な空間から、またいつもの現実に戻る。