シンビジウム(プリンセスマサコ)
- 2009/03/31(Tue) -
シンビジウム

紫の淡しと言はず蘭の花 (後藤夜半)

蘭は私のような素人には気難しい花のように思えるが、今年は意外にもうまく咲いてくれている。
このシンビジウムは我が家に籍を置いて長い年月が経つ。
名前はたしか「プリンセスマサコ」、皇太子妃雅子様のご成婚を記念して作られた蘭だったような気がする。
雅子様のように優しい色の気品ある花だが、しかしタグがないので定かには言えない。
この花では花茎を支柱に結わえて咲かせることをやめてみた。
自然の咲き方はどうなのだろうと思ったからである。
直立して上に伸びて並ぶ花もいいが、こうしてそれぞれが好きに向かって咲く姿もいい。

気がつけば今日で3月も終わる。
「1月は行く。2月は逃げる。3月は去る」と、年をあけてからの時脚の速さには今更ながら驚く。
明日からはまた新しい仲間を迎えて始まる4月である。
気持ち引き締めて、榎本栄一の詩の如く「いっぽいっぽ」を着実に歩んでいこう。

   色も香も後ろ姿や弥生尽 (蕪村)

シンビジウムプリンセスマサコ


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レースを編む女(フェルメール) ~ルーブル美術館展~ 
- 2009/03/30(Mon) -
レースを編む女

『レースを編む女』は昔からなんども図版で見ている作品だ。それ故にその印象はすでにひとつのイメージとして、私の頭の中に形成されていた。しかしやはり実物は違う、本物は違うことをあらためて知る。その作品の前に立つと、誰もが息を止め言葉を閉じ、絵の隅々に視線をやる。わずか24cm ×21cmという小さな作品であることも、実は今回初めて知ることである。今風で言えばA4サイズよりもさらにひとまわりも小さい。それが見る者を彼女と同じ時へタイムスリップさせ、想像力をかき立たたせ心を引き込む。
ぴんと張られた2本の白い糸が左手の指に挟まれた糸巻きから伸びる。右手は人差し指と親指に持った針でその糸を潜らせ巻き付けてレース模様に加工しているのだろう。神経を集中しなければできない、デリケートな仕事であることがその一点に注がれる彼女の視線から見て取れる。そして糸の繋がりを瞬間瞬間に見極め、指先と手首の僅かな動きを繰り返して頭で描くデザインを形にしていく。このような光景は、当時のオランダ女性のありふれた日常であったに違いないが、それ以上にこの所作から伝わるのは家庭人としての優しさに包まれた家族愛や思邪のないひたむきな貞節である。フェルメールの多くの作品に見られるように、光の方向は明確で、それによって生まれる陰影などの明暗表現がこの絵の余情をさらに深める。彼女の顔の、例えば額や鼻、瞼が受け止める明るさ、あるいは手や指の一つ一つにあたる微妙な明るさのコントラストなど、その描写は彼の対象を捉え見つめる科学的な目の確かさと豊かで繊細な感性を感じさせる。
女性の表情と手の動きに目が奪われるが、目立たない小道具がそれを引き出していることも彼の巧みなところである。画面の落ち着いた色彩に光彩を放つクッションから垂れ落ちる白糸と赤糸。テーブルにさりげなく置かれた分厚い書物、それはきっと彼女の敬虔さと夫や家族への愛を暗示する聖書であろう。そして左手のやわらかなクッションと右に位置する直線的な作業台の質的構造的な対比。寸分の隙もなくこの絵を構成する要素としてそれらはあるべき位置に配置されている。フェルメールの構図は彼がきわめて理知的な人間であったことをも示唆する。

開館と同時に観ようと9時半に並んだときは、すでに数百人の人の列であった。入場制限されつつ入った館内は混雑していたものの『レースを編む女』ともう一つの目的であったラ・トゥールの『大工ヨセフ』の前ではゆっくりと鑑賞することができたのは嬉しい。
外へ出て桜の通りに出るとそこも人で溢れていたが、ここ数日の寒の戻りで桜の開花は止まり、5分咲きほどであった。それでもコートや厚手の防寒具に身を包み花見をしている人々の表情は春の到来のお祭り気分に満ちていた。
信州の気温とさほど変わらぬ3月末、寒さのしみた上野公園である。

花の冷えと花の重たさの下をゆく (篠原梵)
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クリスマスローズ(Christmas rose)
- 2009/03/29(Sun) -
クリスマスローズ

いくつものクリスマスローズが咲いている。
地面に向かってうつむきながら。
クリスマスの名を冠するが、これは本来今頃が咲き時なのだろう。
また、腹這いになってその顔にカメラを向けた。
そんなことをしながら、相田みつをの詩を思い出していた。
  花には人間のような
  かけひきがないからいい
  ただ咲いて
  ただ散って
  ゆくからいい
  ただになれない
  人間のわたし  (みつを)

通るたびにクリスマスローズの首起こす (田口素子)

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ユキヤナギ(桃花雪柳) 
- 2009/03/28(Sat) -
ユキヤナギ

枝いっぱいにピンク色の小花を付ける桃花雪柳。
風が吹くたびにゆっくり上下に揺れる。
花びらは5弁、花芯に環状の黄色い蕊のある可愛い花だ。
外はどこも春色に染まりつつある。
でも、昨日も今日も朝は氷点下2度3度。
霜も降りて、土は凍てついている。
昨日は雪までも降ってきた。
3月も下旬の春、しかしまだまだ寒い。
そんな中、花々が私に元気をくれ、私の背中を押す。
「もうすぐ新人さん達がやって来ますよ」
「また新しく始まりますね」
一通り、新年度の仕事の準備は整った。

     雪柳花みちて影やはらかき (沢木欣一)

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ネコヤナギ(猫柳 ) 
- 2009/03/27(Fri) -
ネコヤナギ

窓の外にはネコヤナギ。
朝陽を背に光る。
ふんわりとやわらかである。
殻を破り、膨らみ、花開く。
こんなところにも春を見る。
そういえば童謡に「芽の出る音がする…」という歌詞があった。
ネコヤナギを見ていると、それは事実のような気もする。

  一つづつ光輪まとひ猫柳 (伊藤柏翠)

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コチョウラン(胡蝶蘭・Phalaenopsis )
- 2009/03/26(Thu) -
胡蝶蘭

真っ白な胡蝶蘭が届けられた。
蝶が飛び交うように美しい。
花芯に僅かに黄色と紫の色を差す
玄関に置く。
華やぐ。
嬉しい。
花一つで心も躍る。
花一つで空間が変わる。
花一つで優しくなれる。
花が人の心を伝え、人の心を繋げる。
花には力がある。

  導かれ来し一卓の胡蝶蘭 (後藤夜半)

コチョウラン


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シデコブシ(四手拳・幣辛夷・姫辛夷)
- 2009/03/25(Wed) -
シデコブシ

今、木に咲く花の多くには葉がない。
いや、春の木では葉に先駆けて花が咲くというのが正しい。
このシデコブシもそうである。
枝に優しい淡紅色の花が乗る。
花びらは細長く、波打ち捩れて開く。
その捩れた様子が注連縄に添えて使う「幣、四手」に似ることにその名は由来するという。
ヒメコブシの名もあるが、それはその愛らしさから来るのだろう。
黄色い色に桜色も加え、春の色もその彩りを増していく。
そこかしこに春の色香が満ちて、心もウキウキする。

     辛夷満開こぞりて天に祈るかな (成瀬桜桃子)


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ジンチョウゲ(白花沈丁花) ~花香浴~
- 2009/03/24(Tue) -
沈丁花


庭を歩く。いい香りがする。その香りの主はすぐに分かる。
白花沈丁花と薄紅沈丁花が届ける強い芳香。
枝端にある散形の花序、そして筒状で花弁のようにみえるのはいずれも花萼。
小さく4裂して開いた中からそれは一斉に広がる。
そばへ寄り、顔を近づける。目をつぶる。鼻を寄せる。吸い入れる。何とも言えぬ。
それは頭の隅々まで届くような気がする。
心を鎮め穏やかにさせ、落ち着き優しくさせる。
そういえば秋の同じ経験を思い出す。
秋は金木犀、春の沈丁花、これらのそばでは花香浴という言葉を創出したくもなる。

   沈丁の香をのせて風素直なる  (嶋田一歩)


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ボケ(木瓜・Japanese quince) ~目の中の春~
- 2009/03/23(Mon) -
木瓜

花が季節を人に教える。
人はその春を見る。
人はその花を見つめる。
花を見る目は穏やかだ。
ただただ、花の色、花の香りを味わう。
花は人を無防備にさせる。
花は感じさせ、歌わせる。
目の中は喜びに満ちる。
目の中は笑顔に包まれる。
目の中に春があふれている。
目の中いっぱいの春。
春を見る私、そんな私を見る目。
木瓜の花も咲く。

   土近くまでひしひしと木瓜の花 (高浜虚子)

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アンズ(杏・apricot) ~いっぱいの春~
- 2009/03/22(Sun) -
アンズ

東京にも桜の開花宣言が出た。来週が満開で見頃だという。
ここ南信州でも地元新聞にいくつもの桜便りの写真が載る。
一気に桜前線が北へ駆け上る。
ほかのバラ科の花木、果樹も急ぎ足で慌ただしく蕾をほどいている。
杏も咲いた。淡い紅色(べにいろ)の5弁の美しい花だ。
蕊の色形、大きさまでが梅に似ており、双方きわめて近い種だという。
杏はシロップ漬、ジャム、果実酒など様々に用いることができる。
しかし私は枝からもぎ取りそのまま生食するのが一番好きである。

満開となっている隣のサクランボに蜜蜂がたくさん集まっている。
虫たちもにも待ちわびていたいっぱいの春だ。

    空の青遠くに塩見花杏 (文)

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スイセン(Narcissus) ~ナルシスト~
- 2009/03/21(Sat) -
スイセン

何種類かある水仙のうち、いつも一番に咲くのがこの丈の低い花である。
道路沿いの山茶花の生け垣の下に等間隔のかたまりとなってある。
一般的な水仙よりひとまわり小さく、花びらとカップ状の副花冠のバランスがほどよい。
根元に絨毯のように広がるまだ冬色した松葉菊に春の到来を告げる。

荒俣 宏は、水仙についてつぎのように解説している。
「スイセンの属名ナルキッススは、ギリシア神話に語られる美少年ナルキッソスにちなんだものである。
ナルキッソスは多くの娘に言い寄られたが、それをことごとく拒絶した。
そこで復讐の女神ネメシスがナルキッソスを、水に映じた自分の姿に恋するように仕向けたため、
彼は自分に見ほれて水死してしまったという。
そのあとに咲いた一輪の花がスイセンで,花をやや下に傾けている姿は、
水面をのぞきこむナルキッソスの面影を伝えている」
最近は美形の若者が多い。彼らも鏡に映る自分の姿にうっとりとするのだろうか…。
  
     水仙のひとかたまりの香とおもふ (黒田杏子) 

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ウメ(豊後) ~忠実・気品~
- 2009/03/20(Fri) -
梅 豊後

我が家での4番目の梅の開花は薄紅色の豊後である。
5枚の花びらと中にちょんちょん伸びるたくさんの蕊は絵になる。
美しい梅である。
本来は実の有用性を利用するために植えたものだった。
朝陽を浴びて咲くその色姿は見るだけで心安らぐものを与えてくれる。
花言葉は「忠実」と「気品」、なるほどだと納得し、「東風ふかば…」と道真公の歌を思い出す。

      曙や蘂を離さず梅ひらく (島谷征良)

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サンシュユ(山茱萸) ~春黄金、満つ~
- 2009/03/19(Thu) -
山茱萸

まだ葉のない枯色の木に溢れるように黄色い山茱萸の花が咲いている。
木全体を一面に黄色く染める様はまさに別名にある「ハルコガネバナ」と言われるに相応しい。
数㍉の小さな花が枝先に20~30個がひとかたまりとなり、さらにそれらが寄り集まる。
米粒のようなつぼみが開くと花びらは反り返って可愛い蕊がにょきにょきと顔を出す。
離れて見るも良し、寄って見るも良し、枝を剪って花瓶に挿すも良しの花だ。

    枯色に山朱萸の黄の新しや (高木晴子)

サンシュユ




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ウメ(鹿児島紅梅) ~ゆっくりと~
- 2009/03/18(Wed) -
紅梅・鹿児島紅梅

    紅梅やゆつくりともの言ふはよき (山本洋子)

普通の紅梅よりもさらに色が深く濃い鹿児島紅梅、色染めしたかのような品ある紅色(べにいろ)の花だ。
混み合う枝を剪定すると、その切り口までがほのかに赤い。これには切るたびに驚く。
テレビでは4月下旬の暖かさだとキャスターが告げる。
暦を先取りしたこの気温の上昇は、花にその段取りを整える間もなく忙しくさせる。
ぽかぽかの陽気と強い西風で花びらも枝を離れていく。
咲く梅、散る梅、残る梅。
今年の春は見る者をもせかせる。

    うめをむめといふ人ありし門出かな (文)

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クロッカス(Crocus) ~愛語撒くごと~
- 2009/03/17(Tue) -
クロッカス

日輪は姿も見えず空はどんよりと青色を消す。
南アルプスは霞んでその山容は輪郭をぼやかす。
春霞かと思えば、それは遠く大陸からやってきた黄砂のベール。
「枕草子」を著した官女もきっと見たであろう古より日本を訪れる季節の風景。
そして空には国境がなく、世界に繋がっていることをあらためて知らしめる。
そんな鳥も遊ぶ穏やかな春の日に仲間の転勤が伝えられる。
また一年が終わり、今年の仕事に区切りの幕を引く。

柿の木の下で、僅かに紫帯びたクロッカスを見つけた。
枯れ葉に紛れながら、まだ5㌢にも満たない細い葉の中にふんわりと包み込むような形がある。
地面すれすれに顔を近づけると、中に黄色い蕊が立っている。なんて優しい花なんだろう。
西洋では希望や青春の象徴とされるクロッカス、「もう春ですもの」そんな声が聞こえてきそうだ。

  日の庭に愛語撒くごとクロッカス (下村ひろし)

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サクラ(河津桜) ~春がなだれ込む~
- 2009/03/16(Mon) -
河津桜

福岡から常より早い桜の開花を告げるニュースがテレビで流れていた。
それぞれの地の開花予想も例年より早まりそうとのことだ。
暖冬だったせいか、庭の木々の目覚めもいつもより早いのが目に見えて分かる。
サクランボも咲き始め、大阪冬桜は満開、ほかの桜の仲間も活発に動いている。
3月半ばにしてこんなに桜を見る春は初めではないかと驚く。
桜祭りなどのイベントは、そのスケジュールの変更を余儀なくされるではないかなどと余計な心配をしたりする。
先日までの強い雨と風で河津桜は散りかけている。
そして、もう葉も出てきた。
今年の春はマラソンレースのスタートのように一斉に押しかけてくる。

一瞬の生命いとほし桜咲く (碓氷すすみ)
 
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ミツマタ(三椏・ paper‐bush) ~鶫も遊ぶ庭~
- 2009/03/15(Sun) -
ミツマタ

庭にも春の彩りが増えてきた。
白い筒状の先端を黄色く染めて咲いているのはミツマタ。
枝先にたくさんの花序をまとめて咲かせる。
4つに分かれた花弁のように見えるのは花萼、中に小さな蕊がのぞく。
細長いその外面はビロードのような艶やかな毛に覆われる。
ミツマタの名は全ての枝が3本に枝分かれするところに由来する。
隣には黄梅と日向水木、上には大きな山茱萸、そして散り始めた満作…。
いずれも同じく黄色い花を付けている。
春は黄色い花が多い。
そんな庭に鶫も遊びに来てくれた。

    三椏の花に光陰流れだす (森澄雄)

ツグミ


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ウメ(白梅) ~近づけば~
- 2009/03/14(Sat) -
白梅

   近づけば向きあちこちや梅の花 (三橋敏雄)

《懐風藻》に葛野王の五言詩〈春日、鶯梅を翫(はや)す〉があるという。
その第3・4句は「素梅開素靨 嬌鶯弄嬌声」と詠う。
  白梅は白く咲きほころび、美しくかわいい鶯はあでやかに鳴声を立てている。
続けて「此れに対ひて懐抱を開けば、優に愁情を暢ぶるに足る」と。     (斎藤 正二による)
絵の定番である「梅に鶯」は、すでに万葉の世から歌とともにあったことがわかる。
古来より梅は人の心を深くとらえる花だった。

花の好きな母にこの木をそのまま届けることができればいいのにと思いつつ、白梅を眺める。
その枝に鶯があでやかに歌うのも、もうじきかもしれない。

   白梅や母に見せたし匂うなり (文)

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高村光太郎 ~『造形美論』~
- 2009/03/13(Fri) -
高村光太郎造形美論

若い頃憧れたのが高村光太郎だった。
初めて彼の詩を知ったのは教科書に載っていた『道程』だったように記憶している。
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る ああ自然よ 父よ……」今でもそれを全て諳んじることができる。
そして『智恵子抄』に詠う智恵子との純粋な愛。
詩人高村光太郎がまた彫刻家高村光太郎でもあることを知ったのは大学に入り荻原碌山を学んでからである。
碌山荻原守衛を知る中で彫刻家光太郎を知り、二人の若い彫刻家の友情にも心を熱くした。
彫刻演習の中で教授がテキストに使っていたのが光太郎の「彫刻十個條」(大正15年5月)であった。
それ以来、それは碌山の表現思想と共に私の彫刻表現の論理的支柱となった。

今日、彼の生誕の日(1883年3月13日)に因み、本棚から「彫刻十個條」が収められている『造形美論』を開く。
十箇條の(一)は次のように書かれる。
 「彫刻の本性は立體感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」
今でも新鮮に心に響く。そしてまた自分の表現の原点に戻る。
この本が出版されたのは戦局も極まりミッドウェー海戦、ガダルカナルの攻防のあった昭和17年(1942年)。
彼は後に戦意発揚の詩を書いたことを悔やみ、その自省の念から岩手県花巻町にて孤独の生活を送る。

「朝々はとびはねる魚のように私の心に来ます。またいつでも愛するものを、心の底から抱擁し得る気持ちで一日を送ります。めいめい勝手に自分のしごとをしながら。あるじも私も、静かに、単純に」 (光太郎・智恵子展から「智恵子の言葉」)

    勇気こそ地の塩なれや梅真白 (中村草田男)

彫刻十箇條


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ツバキ(白椿) ~我は咲くなり~
- 2009/03/12(Thu) -
白椿

葉の陰に隠れるように咲いていた白椿を見つけた。
花びらの縁が少し変色しているので、咲いてから数日は経っているのだろう。
ひっそりとして咲く白椿に私は気がつかなかった。
私の目は表に姿を現すものしか見ていなかった。
人が見ようと見まいと「我は咲くなり」と花は自分に忠実に命を育む。
自分の肌で感じ、心で感じた風と光で、その時を知り花びらを開く。
花はいつも自然のままだ。花は深く考えない。
花は感じる、今の時と場所と状況を。
そして咲き、あるいは咲くことを拒む。
花は自分の誠に純粋だ。

見える所の職務をきっちりとこなすことは勿論である。
しかしそれよりも見えないところで、人知れずにする仕事の方が大切なのかも知れない。
見せる仕事、評価を求めてする仕事よりも、密やかに陰で為していることに深いものがあったりする。
黙して語らずに淡々と行う。

うつし世に浄土の椿咲くすがた 水原秋桜子
 
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サクラ(大阪冬桜) ~麗らかに咲く~
- 2009/03/11(Wed) -
大阪冬桜

家にある桜のうち、先駆けて咲いたのはこの冬桜。
小さな八重の白い花が満開を迎えている。
蕾は少し赤みを帯びているのだが、開くと純白な花びらとなる。
年に2度咲く変わり花で、昨年の12月、冬の寒い時期にもその花はあった。
ただ冬の花より少し大きく感じられるのは、本来春咲きの遺伝子を持つからなのだろう。
彼岸、実桜、霞桜、普賢象、染井吉野、鬱金…あわせて10本の桜。
これから順に家でお花見ができる。

昨日は全ての県立高校の後期選抜入試。
緊張の一日だっただろう受験生に「サクラサク」の通知が届くのを祈る。

風音のいつもどこかに冬桜 (高橋千鶴子)
 
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ウメ(紅梅) ~もう春だ~
- 2009/03/10(Tue) -
ウメ紅梅

3月に入ってもう旬日が過ぎる。
あれよあれよと、冬が置き去りにされていく。
しかし、まだまだ朝の寒さは霜を地面に誘う。
このところ、早朝のラジオから流れるのは春の歌。
聞き慣れた歌が多い中、こんな歌もあったのかとはじめて知る歌もある。
高木淑子の歌う「もう春だ」も私の耳が聴くのは初めてだ。

         もう春だ           夢 虹二作詞   中田 喜直作曲
      風がつめたく 吹いてても
      もう春だ 春だ
      庭さきに ちらちらさいた 梅のはな
      花のひかりが もう春だ

      山の雪ぼうし とけないが
      もう春だ 春だ
      うぐいすが きれいな声で また鳴いた
      鳴いた音いろが もう春だ

癒される歌だった。
鶯の初音の便りも各地から届く。ここ信州でも、もうすぐだろう。
昨日は、コジュケイの甲高い声が響き渡っていた。もう春だ。

窓あけて 窓いつぱいの春 (種田山頭火) 

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ロウバイ(蝋梅) ~ああ、ヒヨドリよ~
- 2009/03/09(Mon) -
蝋梅

久しぶりのいい天気に誘われて庭に出る。
可愛い声、小さな声、いろんな春の囁きが聞こえてくる。
ムスカリの青も、三椏の黄色も見つけた。木瓜の赤い色ももある。
一段といい香りを流しているのはロウバイ、少し離れていても風に乗ってその匂いが鼻に届く。
赤塚五行は「臘梅を月の匂ひと想ひけり」と詠うが、まさにそんな心地にさせる香りだ。
空の青に、その艶のある淡い黄色の花片が映える。
ああ、そこかしこに春の感嘆符が踊っている。

部屋に戻って、窓の外の白梅とロウバイとマンサクの並びを見ながらお茶を飲む。
しばらくしてやってきたのはヒヨドリ。留まったのはロウバイ。
あれあれまあ、あの大事なロウバイを美味しそうに食べるではないか。
私が部屋から見ているというのに、素知らぬ顔で。
その香りのいい花は君にとっては「春の旬の味なの?」。
それにしても長い食事だ。もういい加減にしてくれないかな。
そうか、このところロウバイの花数が少なくなってきていたのは君のせいなのか。
腹を満たして飛び去ったヒヨドリ、下にはいくつもの花が落ちていた。

    鵯の花吸ひに来る夜明かな (抱一)

蝋梅とヒヨドリ
鵯と蝋梅
ヒヨドリと蝋梅
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フキノトウ(蕗の薹) ~春の香りと春の味~
- 2009/03/08(Sun) -
ふきのとう

朝の湯船に漬かっていると、ラジオからさだまさしの歌が流れてきた。
彼独特の高い伸びのある声で、情感豊かに優しく歌い上げる。

ふきのとうが 咲いたよ
春は もうそこまで
君の笑顔に 似ているね
水辺で 輝いたよ

僕を忘れちゃ いやだよ
季節が 過ぎても
時々でいいから 少し
思い出してね
(ふきのとうのうた 作詩・作曲 : さだまさし)

そうだ、我が家のも大きくなってきた。採りに行こう。
鬼灯の横、木瓜の下、合歓の木の下の土手…ある、ある。
早速に昼は天麩羅にして並べる。今年の春を味わう。
苦みのあるその何とも言えない風味、春が喉を通る。
次は蕗味噌にしよう。

 煮て味のふかくかなしき蕗の薹 (片山鶏頭子)

フキノトウ


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カランコエ ~青雲と平和~
- 2009/03/07(Sat) -
カランコエ赤

机の中から、「平和について」という短い文が出てきた。日付はない。
たぶん、それを書いたのは「9・11」とそれに続く「タリバンとの戦い」、そして「イラク戦争」の頃だろう。
テレビドラマのような空爆が、現実の目の前の映像として流される。
カメラは苦しみ嘆く無辜の民を映す。片足と片腕を失ったナシリアの少年の気力を失ったうつろな目。
多くの人々が命を失い、家族を失う悲惨な戦争。

その文の中で私は三人の若者のメッセージを採り上げている。
  顔を上げて天を仰ぎ見る時、私は思うのです。
  いつかは全てが清浄に復し、この苦しみも終わって、平和な静かな世界が訪れるだろう、と。
  それまでは、なんとかして理想を保ち続けなければなりません。
  ひょっとすると、ほんとうにそれを実現できる日がやって来るかも知れないのですから。
               (1944年7月15日 アンネ・フランクリン)
  戦争と戦争の間にあるものが平和ではない。
  また、何にも起こらない穏やかなことが平和とも言えない。
  平和は私達の心の中に生きていて、大きく成長していくものなんだ。
  私達はそれを大切に、丈夫な木に育てていこう。      (キャサリン・スコールズ)

  蜂はお花の中に  お花はお庭の中に  お庭は土塀の中に   土塀は町の中に 
  町は日本の中に  日本は世界の中に   世界は神様の中に
  さおうして   さうして神様は   小さな蜂の中に       (金子みすゞ『蜂と神様』)

作ることを私の心が呼びかける。欅の丸太がある。そして、私は鑿を持った。
作ったのは映像で見たあの手足を失った「ナシリアの少年」。今玄関にある。

今日、この地の多くの高校は卒業式だという。
  春や子に欲し青雲のこころざし (加古宗也)

ナシリアの少年

 
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サンゴアブラギリ ~引けば鳴る~
- 2009/03/06(Fri) -
アブラキリサンゴ

引けば鳴る 引かねば鳴らぬ 鳴子かな  (古歌)

これは精神科医、高田明和がその著の中で引用している歌である。
今日、いつもより早めに目が覚めた折りにベッドサイドでしばらく読んでいたその本の中にある。
彼は鳴子を例にして次のように述べる。
 鳴子は確かに引けば鳴る。しかし引かなければならない。
 鳴るも鳴らぬもこちらの意志次第、こちらがやるかやらないか、鳴らす決定権は自分だけにあって、ほかの誰にもない。
 この自分以外に誰も鳴らせない、しかし自分がやれば必ず鳴るという性質の鳴子。
 脳についても同じことが言える。脳を変えるも変えないも、その脳を持っている本人が決定するしかない。
 決定して努力すれば脳は変わり、決定せず努力もしなければ脳は変わらない。
 同じことは日常の仕事についても当てはまる。
 仕事をもっと進めよう、今まで不可能と思われていたようなことに挑戦しようとする時、それを可能にするのは、それをしようとする本人、そのために努力する本人の心なのだ。
 その本人がやらなければ結果は得られない。 
 やるもやらないも、結果を出すも出さないも、その本人に決定権があり、それ以外の人にはない。
 努力をすれば結果は得られる。しかし、努力しなければ絶対に結果は得られない。鳴子は鳴らないのだ。    (数ヶ所省略)
そしてこうまとめる。
 『最後は「やる」本人が「やる」のだ』と。

動かなければ何も変わらない。動けば必ずや結果が生まれる。
考えていただけでは何も生まれない。考えたら自分で評価できる行動に移す。
心に思えば、思いを体に伝え、手足に指令を出す。
やることで見えてくる。やらなければ何も新たなものは見えず、現状が惰性のままに続く。
高い山に登るには自らの脚を動かして登るしかないのである。
自らを高めるということはどういうことなのか、そんなことを教えられた文であった。

部屋で咲くのはサンゴアブラギリ、まさに南の島の珊瑚を思わせるような花である。

 濃かに弥生の雲の流れけり (夏目漱石)
 
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アイビーゼラニウム ~失敗者こそ~
- 2009/03/05(Thu) -
アイビーゼラニウム

注文しておいた童門冬二の著が届いた。
つい最近発行されたばかりの、戦国時代に生きたリーダー達の生き方考え方をまとめた本だ。
早速ページをめくる。“文は人なり、言葉は人なり”とあるように、次々に出てくる武将達の言動に心動かされる。
その中の一つ『葉隠』から彼は、「失敗者こそ信用できる」との項を起こす。
 佐賀城内で昇格選考が行われた際、大酒を飲んで過去に失敗した男について議論された。
 むろん大方は反対したが、一人その実績を買って昇進させるべきだと唱えた重役がいた。
 その理由として、「それは、過ちをいったん犯した者は必ず反省し、二度と過ちを繰り返すまいと心を固めるからだ」と。
 そして続けて言う。「一度も過ちを犯したことのない人間の方がかえって増長し慢心しているので危険だ」と。
 この意見は他の重役達に受け入れられて、当人は昇進を果たした。
 彼は自分を推薦してくれた重役に感動し、「推薦者のためにも自分は二度と過ちを犯さない」と心に誓ったという。
童門は結びとして次のようにまとめる。
  失敗というのは、人間の心の鏡にしみついた小さな汚点だ。あるいは心のヒダに溜まった菌のようなものだ。
  決して消えはしない。鏡のシミはいくら拭いてもきれいにはならない。しかし、拭く度に本人は犯した失敗のことを思い出す。
  あるいは心の菌も発酵して、しばしば新しい物体を生もうとする。それを消し去ろうと必死につぶす。
  そういう行為が常に犯した失敗を思い出させる。

私も失敗を多く重ねてきた。
しかし、自分はその失敗を次なる生き方に繋ぐことができているのだろうか。
失敗した事を真っ正直に見つめ振り返り、新たな思いに導くことができたのだろうか。
「失敗から失敗しないことを学ぶ」そんな謙虚な気持ちで生きていきたいものだ。

今日は啓蟄、そろそろ虫たちも青空を見たくて這い出てくる。

   啓蟄のつちくれ躍り掃かれけり (吉岡禅寺洞)
 
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カランコエ(クイーン・ローズ) ~養花天~
- 2009/03/04(Wed) -
カランコエ・クイーン・ローズ

『年浪草』に「半晴半陰、之を花曇と謂ふ。養花天は之に同じ」とあるという。
養花天とはその文字の持つ意味や響きからも、春を美しく言い当てた素敵な言葉だ。
この時期の短い周期で変わりやすい天気のことを指す言葉として俳人達に用いられると聞く。
これからは一雨毎に、草花の勢いが増すことだろう。
野の土色と枯れ草色の中に、少しずつ緑色がその比重を増やしつつあるのが解る。

父の墓へ兄弟揃ってお参りしたときも、空は曇っていた。
酒を注ぎ、長旅の蝋梅と山茱萸も挿してきた。

手を触れて墓に親しむ花曇り  (石原舟月)
 
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クンシラン ~またいつもの机に戻り~
- 2009/03/03(Tue) -
くんしらん

留守にしていた間に君子蘭が花開いていた。
軟らかな広線形の葉の濃緑色にオレンジのコントラストが美しい。
蕾も合わせて数えると13もの花がある。
一つの花の花弁は六つ、それに相応するかのように雄蘂も六つ。
形は勾玉のようにして黄色い花粉をたくさん持つ。
そしてそれらに取り囲まれるように真ん中に雌蕊が一つ伸びる。
小さなそれは、先端が綺麗に三つに分かれ色はない。
いつもなら4月から5月頃の開花だったような気もする。
今年は色々が早い開花を見せる。

休んだ分、仕事を急がなければならない。
時は日一日と私の気持ちをせかせる。

     君子蘭整理のつかぬ文机 (北さとり)

くんしらんのしべ


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ゼラニウム ~母の背中と父の顔~
- 2009/03/02(Mon) -
ゼラニウム

空港で迎えてくれる風は、少年の日に染み付いた懐かしい香りがした。
父が紫雲に乗って遙か遠い空の国へ旅立ってからもう一年。
写真の中の顔となった父に会いにやって来た。
私の姿を確かめた母が両手を広げて飛び込んでくる。
抱いた背中はまた一段と薄く小さくなっていた。
「ああよかった」「ああよかった」「うれしい」「うれしいよ」と何度も繰り返す母。
「温かいうちに飲んで」と入れてくれたのは香りの強いこの地の茶。
そう、私はこの味と香りで育ったのだ。
そしてすぐに台所に立ち、私に手作りの料理を始めている。
「さあさあ食べて」「さあおいしいよ」と皿を差し出す……。

穏やかな表情の父がある。
盆栽や花が好きだった父に、私の庭の山茱萸と蝋梅と沈丁花と三椏と白木蓮、山茶花を供える。
仏様をしっかり守ってくれる兄には感謝である。
経営のトップらしく事を運ぶにいつも冷静沈着で、全ての面に目が行き届き落ちがない。
残った母を懸命に支え助ける姉や兄には言葉でしかお礼ができない。
異郷で暮らす末子をその遠さ故に赦していただく。

仕事は年度末、まとめが待っていてゆっくりもできず早々に戻らなければならない。
老いて弱りゆく母に「また来るからね」と声をかける。
運ぶ脚は歩幅も狭く、握る手は痩せ細っている。

咲くゼラニウム、ふとその音に漢字を充ててみた。
是良而有無 是良而有無 是良而有無 是良而有無 是良而有無
お経のような並びになった。父の元へ届くだろうか。

春風のさす手ひく手やぜらにうむ (文)

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クリスマスローズ ~3月花の月~
- 2009/03/01(Sun) -
水のクリスマスローズ


今日から3月弥生、花の月。
「弥生」(やよい)は「いやおい」とも読み、「弥」には「いよいよ」「ますます」の意味がある。
たくさんのものが生まれ、すべての草木が春の陽気に恵まれながら、生い育ち花盛りになるという意味が込められている。
ほかに、暖かくなり眠気を誘うことから「夢見月」の異名もあるという。まさに春眠暁を覚えずだ。
さらには、「花月」「桃月」「桜月」「早花咲月」「花津月」などこの季節にふさわしい名がいくつもある。

さていよいよ、仕事においては 本年度最後の月となった。
「組織」いう入れ物の中で、いろいろなタイプの人と出会って知識や刺激を得、責任と役割と成長という時を積み重ねた。
「積み重ねた」という言葉には、喜びも悲しみも、楽しみも苦しみも含まれている。
それらの一つ一つに思いを巡らせ、振り返りながら残り少ない締めくくりのこの時を大事に過ごしたい。
こんな折、謙虚になるようにと自分に呼びかける戒めの詩がある。
     若者に捧げる無名の詩 
『大きなことを為し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに 謙遜を学ぶようにと弱さを授かった』
『偉大なことができるように健康を求めたのに よりよきことをするようにと病気を賜った』
『幸せになろうとして富を求めたのに 賢明であるようにと貧困を授かった』
『世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに 得意にならないようにと失敗を授かった』
『求めたのは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き遂げられた私は最も豊かに祝福されたのだ』                          -ニューヨーク大学の壁の詩より-

 盛りを終えて蕊を失ったクリスマスローズを碗に浮かべてみた。

きさらぎをぬけて弥生へものの影 (桂信子)
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