ゼラニウム(モミジバゼラニウム)
- 2009/01/31(Sat) -
モミジバゼラニウム

   雨だれの音もとしとった  (種田山頭火)

山あれば山を観る
雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆふべもよろし (山頭火『草木塔』より)

雨である。
暖かな雨である。
土の中の虫たちも驚いていることだろう。
この冬は雪が少ない。
雪かきしてからの出勤も僅かである。
今は道々の日陰や家々の軒下にも雪を見ることはほとんどない。
ありがたいかな、淋しいかな。

1月が行く。
こうしてまた、今年の1月は行く。
年をあけてから、なんと月の足の早いこと。
「そのときどきの初心なり」と気持ちの節目区切りにして、手抜かりなく勤めよう。

寒の雨松の雫をまじへつつ (佐野青陽人)  

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デンドロビウム(Dendrobium)
- 2009/01/30(Fri) -
デンドロビウム

デンドロビウムの語は樹(dendro)の生命(bios)を意するとある。 (江尻 光一)
つまり本来は樹木に着生する蘭なのだろう。
私がこの花を購入したのはいつだったか、記憶は定かでないが、数年も前のことだったように思う。
直立した茎頂に7~8もの蕾が生まれ、その中の一つ二つが咲き出した。
少しフリルを持つ白を基調とした花びらの先端に紅色が施される。
花育ての技を十分得ていない私のもとでも、こうして和みの顔で部屋に訪れてくれるのは嬉しい。
全ての花が咲き揃うのが楽しみである。
根元にはいくつもの新芽が伸びている。
少しは園芸書を紐解いて、この後のケアをどうすればいいかも頭に入れておこう。

最近ある原稿を求められた折りに、阿部次郎の『三太郎の日記』より次の一節を引用した。
   「汝を高むるものは、汝自身の中にあり」 
何もしなくては何も生まれない。何かをすれば必ず何かを生む。
どんな小さな事からでも、プラスであれマイナスであれ、必ず「得る」結果を生む。
考え、動き、続け、積み重ね、推し進め、振り返り、そして再び行う。
それらはきっとさらなる行動と思考を生み、自らを高める…そういう思いを込めつつ。
次郎の言葉は人に与える言葉でなく、自分自身の生き方や実践への戒めである。

蘭の香にありて己の夜をもてる(瀧 春一)

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クリスマスローズ(Christmas rose) ~追憶~
- 2009/01/29(Thu) -
紫ドットクリスマスローズ

白い花の中に赤紫のドットが広がるクリスマスローズ。
優しい表情のそれは実は花弁状になった5枚の萼片。
多数の雄蘂を取り巻くようにある小さく黄色い筒状のが実際の花片。
咲き進み蕊が落ちると、花の中央にカラーの花を極小にしたような花片の姿が見えてくる。
根生の掌状複葉は深裂し、縁辺は鋸歯となって結構な固さを保つ。
黒い根は古代ギリシア時代において、頭を良くする薬として当時の劇作家や哲学者が服用したとある。(荒俣 宏)
「to be,or not to be…」ではないが、「花の美しさを愛でるか、自分の頭を良くするために根を取るか、それが問題だ」
この花には「追憶」の花言葉もあるという。
ぎらぎら輝く太陽、青い空と水平線、白い砂浜…、私も最近故郷を思い出すことが多くなった。

冬の天海の上にて真蒼(まさを)なり (大谷碧雲居)

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カランコエ ~心の羅針盤~
- 2009/01/28(Wed) -
黄色いカランコエ

「今日まで自分を導いてきた力は、明日も自分を導いてくれるだろう」(島崎藤村)

先哲は「只今が其時、其時が只今」と、其の時々の一時一瞬が自分の未来の道につながっていると説く。
小さく些細なことであっても、其の時々のなすべき事や判断を疎かにしてはならないと。
確かに「明日とは、実は今日という一日の中にある」のだから、目の前にある自分の足下を着実に勤めていくことが大切だろう。
日常において右に行くか左に行くか、身近なできごとの決定の中で、私たちは知らないうちに自分の人生を創っている。
生活の小さな選択行為の積み重ねが、いつの間にか自分の生きた証の足跡になる。
怠けも楽するのも、いい加減さも丁寧さも実直さも、それは自分でそれを「えらんでいる」思考が働いているのだ。
その行為の長い連続が自分の後ろに道となって軌跡を描くのである。
しかしまた、選ぶということは、選ばなかった他を捨てていることでもある。
多くの場合、一度に二つのことはできない。過去を選び直すことも、時を呼び戻すこともできない。
智慧と経験の確かな判断ときっぱりとした決断を求め、時は待つことなく実に厳しく、ことある毎に選ぶことを私たちに迫る。
いかなる時も磁石がいつでも北をさすように、自分の心にも羅針盤を持とう。
昔の海人が極星を目印にして帆を走らせる如くに、揺るぎない一つの方向を見ながら進む自分でありたい。

生きてあれ冬の北斗の柄の下に (加藤楸邨)

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ゼラニウム(星咲きゼラニウム) ~春よ来い~
- 2009/01/27(Tue) -
ホシザキゼラニウム・スターテル

朝早いラジオからは川田正子が歌う「春よ来い」が流れていた。

春よ来い 早く来い              春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが       おうちのまえの 桃の木の
赤い鼻緒の じょじょはいて        つぼみもみんな ふくらんで
おんもへ出たいと 待っている      はよ咲きたいと 待っている
                            (作詞:相馬 御風 作曲:弘田 龍太郎)
春を待ちわびるこの歌、雪多い地方の子ども心であろう。
雪に閉ざされて外での遊びがまならぬ子どもたちの心情がよく表れている。
聴きながら私は信濃町生まれの小林一茶の句を思い出していた。
 「雪とけて村いつぱい子どもかな」

ところで作詞者相馬御風は「都の西北」(早稲田大学校歌)を作ったことでも知られる文人、詩人である。
雪深いその情景と子どもらしいほのぼのとした叙情を、飾らぬの言葉で詠う御風。
しかし、彼には人知れぬ煩悶と苦悩があったことはあまり知られていない。
後に彼は「還元録」でこう述べている。
 『私はかなりに永い年月の間、一かどの思想家顔をして、何かしら書いたり云つたりして来ました。自ら真に省みる時、常に劇しい空虚と不満との悲しさ苦しさ焦立たしさを感じながらも、さまざまの外的誘惑や一時的の刺激に引きずられつゝ、時々は何かしら世界に貢献するところのある人間であるかの如く自らを妄想するやうな事さへ敢てしつつとうとう今日までその苦しい生活をつゞけて来ました。而もその忌はしい自欺的生活によつて私は儘かばかりの虚名と僅かばかりの金銭とをさへ得て来ました。
(略)そしてさまざまの人々から賞められたり、けなされたり、罵られたり、嘲けられたり、持ち上げられたり、あまやかされたり、励まされたり、からかはれたり、鞭打たれたり、撫でられたりして来ました』(自序抜粋)
名声を得ると往々にして逆のベクトルが激しく働くことがあるのが世の常である。
こうして、一線から身を引いた彼は故郷で「良寛」研究に没頭したという。

  桃畠の土もおちつく冬日影 (籾山梓月)
 
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クリスマスローズ ~鶫来たる休日~
- 2009/01/26(Mon) -
クリマ3

久しぶりにゆったりと休日を過ごす。
クリスマスローズも咲き競い、部屋を潤す。

テレビではオーソリティーが薔薇の剪定を教える。
そのポイントを忘れないうちにと、鋏をを持って庭へ出る。
暮れに我流で剪定したものに、再たび鋏を入れる。
ばっさりと、、元気なものだけにして、低めに、丈を揃え、3~5芽の上を、少し斜めに…。
それらを呪文のように繰り返しながら、全ての薔薇を剪る。

あれもこれもの欲張りが、その勢いと力を分散させてしまう。
その枝が春からどう伸びていくか先を見通す。
葉が内側に茂れば風通しが悪くなる。
一つの株をよく見極めて、余分なものを取り去る。
咲かせる枝をどれにするかその確かな選定。
求められる思い切った判断と決断力。
持てる能力とエネルギーを限定して集中させる。
まるで人の生き方を教えられているような気もした。

作業の後、出かけた園芸店で「リンカーン」という名の薔薇を見つけ、手に入れることにした。
「J・F・ケネディ」は毎年咲いてくれる。
今年辺りは「オバマ」という名の薔薇も出回るのだろうか。

今季はじめて鶫も目にした休日だった。

人の顔俄にさむし鶫飛ぶ (右城暮石)
 
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ロウバイ (蝋梅の蕾) ~冬を歩く~
- 2009/01/25(Sun) -
蝋梅の蕾

昨日は雪が舞ったり、風が強く吹いたり、日が射したりと定まらぬ天気だった。
こんな日には鳥の姿もない。
彼らのために用意した蜜柑や林檎も、等分された形のまま寒風にさらされている。
防寒ブーツとネックウオーマー、黒いシェラデザインのコートに身を包んで外に出る。
手袋は二重、耳まですっぽりガードするニット帽の上にさらにフードで覆う。
地の冷気を伝えないように靴下は厚手のものを重ねて履く。
この時期おきまりの私の散歩における完全防備スタイルだ。
防ぎようのない曝される頬に冷気が鋭く突き刺さる。
小1時間、冬の野や畑、土手などを見て歩く。

オオイヌノフグリの横で小さな白い花を見つける。
ハコベだ。ナズナもある。
可愛い唇を持つヒメオドリコソウもちらほらと。

庭へ戻る。
フクジュソウが地面から顔を出し、開きかけている。
下向きの小さな白い花はスノードロップ。
梅のつぼみにもそれぞれの色が見え始めた。
丸い手鞠のように見える黄色い蕾はロウバイだ。
そういえば各地からも開花したとの画像や便りが届けられる。
我が家のロウバイがいい香りを届けてくれるのもそう遠くはなさそうである。

蝋梅のつやを映しぬ薄氷 (増田龍雨)

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タンポポ ~蒲公英の絮~
- 2009/01/24(Sat) -
蒲公英の綿毛


ひだまりにたんぽぽのわたを見つけた。
一つだけだった。うれしかった。
幼い気持ちになった。
よく折っては茎を持って、フウーっと息を吹きかけて飛ばした。
風に乗って何処までも飛んでいった。
その行方を目で追ったっりした。楽しかった。

私はそこに花が咲いていたことを知らなかった。
確かに黄色い一輪の花があったのだろう。
私に花は見えなかった。
見ようとしなかったのか、見ても気づかなかったのか。
「人見るもよし、見ずもよし、吾は咲くなり」。
野の花は自分に忠実に自分を育む。
自分の為すべき事を成すべくして為す。

そう思って少し野に目を向けてみた。
オオイヌノフグリが星を見るが如く、無数に花開いていた。
周りに目を向ける余裕を持とう。
そう思った冬のひだまりだった。

   たんぽぽの絮(わた)とは吹いてみたきもの (安部弘範)


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デンドロビウム・キンギアナム(Dendrobium kingianum)
- 2009/01/23(Fri) -
エピデンドラム

デンドロビウム・キンギアナムは数年前に我が家にやってきた小さなランである。
昨年、鉢一杯にたくさんの花を咲かせたのは4月だったと記憶している。
今年はまだ1月寒の内、寒々とした部屋の中での開花である。
私が最初にキンギアナムを手に入れたのは近くのラン蘭植物園に行ったときであった。
園内をひとまわりしてその華やかさ、鮮やかさ、不思議さを堪能した後のショップで見つけた蘭である。
オレンジ色の花が溢れるように咲いて、上品や豪華とはひと味違う愛らしさに惹かれて手に入れることにした。
しかし残念なことに、それは1年後には無残な姿となって命を失い、我が家を去った。
育て方が悪かったのだろうと、反省しつつ申し訳ない気持ちとともに悔やんだことを覚えている。
今ある白花は、あまり手を掛けられない素人の私にも上手につきあって咲いてくれている。
弱っては持ちこたえてを繰り返しての開花、そういう意味では性質は丈夫なのかも知れない。
今のところ花茎は5本、ひとつの茎に5~8の蕾の中から一つ二つと咲き出しつつある。
これから白い賑わいの本番となる。楽しみだ。

白き蘭やがて匂へり見つゝあれば (加藤楸邨)

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ダリア(黒蝶・ブラックバタフライ)
- 2009/01/22(Thu) -
黒蝶

縁ある園芸農家の方から素敵なダリアの束が届けられた。
一輪一輪がかなり大きく、茎も太く長くて気品に溢れ、高貴さを醸し出す。
その名を「黒蝶」、ビロードのような黒に近い赤色が特徴である。
花の形や色に優れているとしてここ数年、花卉市場において評価の高い花だという。
業者団体から「フラワー・オブ・ザ・イヤーOTA」で2008年のグランプリにも選ばれた優美な花である。
直径は20センチほど、ものによっては30センチ近くになるものもあるという。
「おめでとうございました」の言葉に、「たまたまです。まぐれですよ」と謙遜される。
しかし、実際にハウスを訪ね、ここに至るまでにきめ細かな心配りの中で育ててきた努力を私は知っている。
1年中、休みなしの作業を続けるその姿に、敬服の至りだ。

ブラック・ケネディ、オバマ、昨日は一人の47歳の言葉が世界を魅了した。
リンカーンの宣誓聖書に手を置いて、希望をもたらす誠実な言葉が刻まれ、人の心を打つ。
彼の力で全ての世界に共存の平和が来ることを信じよう。

千万年後の恋人へダリア剪る (三橋鷹女)
 
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カランコエ ~氷る(こほる)間もなし~
- 2009/01/21(Wed) -
からんこえ

寒々とした日が続くと、私は次の歌を思い出す。
だいぶ前のことになるが青山俊董師の講話でお聞きしたものだ。
好きな言葉なのでたびたび引き出しから取り出す。

 精出せば 氷る(こほる)間もなし 水車(みずぐるま) (珪琳)

 凍てつくような寒の中 
 水車が回り続けている。
 水しぶきは地に着き草につき
 凍り付いている。
 動く水車やは氷らない。

厳寒のこの時期、体の動きは鈍い。ともすればパワーもその出力を落としがちになる。
手はかじかみ、足は冷えるとも、内には自分の情熱のエネルギーを燃やし続けよう。
心だけは静かに動かし続け、氷ることのないように心がける。

カランコエも咲いてくれた。

乾坤に寒といふ語のひびき満つ (富安風生)
 
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モズ(百舌・鵙) ~暦通りの朝に~
- 2009/01/20(Tue) -
雪百舌

庭にキィーキィーキィーキチキチキチキチというかん高い聞き覚えのある声。
目を向けると、やはりその主は鵙である。
熟柿の落ちた枝に留まっている。
獲物を物色するかのように前を見据える目、尖った強い嘴、枝を掴む長く鋭い爪。

孤高を思わせるこの鳥を見ると、宮本武蔵を思い出す。
言わずと知れた江戸の剣豪であるが、私が思い出すのは彼が描く「枯木鳴鵙図」(重要文化財)の絵である。
やや湾曲して上方に伸びる細枝の先端にやはり鵙が留まる。
緊張感溢れる縦長の構図には無駄もなく一寸の隙もない。
その絵の特徴は精神と絵画の一体化にあり、まさに「剣画」ともともいうべく、簡素でありながら深く重い。
余物を排した鋭い筆致、対象物の本質のみを適確に描写する。
.「枯木鳴鵙図」は武人としての彼そのものと言っていいほど魂の深奥が凝縮されている。
鳴鵙とあるから絵の中の鵙もきっと高鳴きしているのだろう。


大寒の敵(かたき)とごとく対(むか)ひけり  (富安風生)
 
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イベリス ~ときわなずな~
- 2009/01/19(Mon) -
イベリス

イベリスが昨年よりだいぶ早く咲きだした。
たくさんの蕾とともに白い小花が株の中で散らばるように咲いている。
花は1㌢ほどと小さいが、それがまとまって寄り集まるように咲き、一つの花のように見える。
これが満開時となると、株全体が白く覆われて美しい。
花は大きな二枚と小さな二枚の四枚の花弁からなる。
左右対称になったその花びらはよく見ると、まるでモンシロチョウのようだ。

イベリスは、真冬の部屋に心地いい清々しさを運んでくれる可愛い花である。

冬の日にものぬくめゐる静けさよ (小島政二郎)
 
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メジロ ~ひだまりの庭へメジロ~
- 2009/01/18(Sun) -
ミカンと目白

蜜柑を幾つかに切って、木に刺しておいた。
鳥を誘うためである。
早速メジロがやってきた。
二羽で一緒に行動しているので、つがいのように思える。
縦になった枝をしっかり掴み、うまく体のバランスを取って蜜柑に嘴を入れる。
爪先といい、脚の折れ具合といい、留まる姿といい、まるでバードカービングのお手本のようである。
留まる木は蝋梅、その蕾はまだ小さく固い。
突如ヒヨドリが大きな声を立ててやってくる。メジロはさっと退散する。
十分に腹ごしらえしたヒヨドリが立ち去ると、また二羽でやってきて蜜柑をつっつき味わう。
ところで今年はまだツグミの姿がない。
毎年、小正月前後にはやってきていたので、彼もそろそろだとは思う。

こうして、ひだまりの庭のバードウオッチングを楽しむ冬の休日のひととき。

蝋梅に目白つれ渡る冬日和 (文)
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ゼラニウム ~自彊不息~
- 2009/01/17(Sat) -
ゼラニウム1/17


長寿をテーマにした読売新聞に98歳にして現役植物画家の熊田千佳慕が採り上げられていた。
森にいる昆虫や動物、身近な植物などを描く、日本におけるボタニカルアートの草分けであり第一人者だ。
彼の作品に登場する生き物たちは、どれもが親しみを感じさせあたたかい。
それもそのはず、彼は描くまでに体を寄せ目を近づけ観察し、肌を触れ会話して描く。
まずは対象と友達となり、そしてそれと一心同体となって描く。
彼はこう語る。
「僕は70歳でボローニャの国際絵本展で評価を得て、ようやく花開いた。
それまでは、泥水の中にいるような人生。
80代のときは、本当に青春だった。
描けば新たな発見がある。神様が今まで見えなかったことをこれでもかと見せてくれる。
一生現役だから、僕には老後がない。
ときめかなくなっちゃったら、おしまい」。
と今もファーブル昆虫記を描き続ける。
そして100歳の展覧会の予定まで入っているという。
             ※参考文献 【PingMag】97歳現役、植物画の巨匠:熊田千佳慕 取材鈴木隆文
その記事の最後の方に「自彊不息」という言葉が出ていた。
「易曰,天行健。君子以自彊不息」、古代中国「易経」にある言葉だという。 
  易に曰く,天行健なり。君子はもって自ら彊(つと)めて息(や)まず。
天地の運行がすこやかであるように、君子も自ら努め励み、怠ることはない。
人みな不断の努力が大切であり、たゆまぬ向上心こそが自らを高めるということだろう。
熊田の言葉を読みながら、「年」をいいわけにしてはならないと自らを糺す。
お前自身は自らを高める努力をしているのかと、自分に問いかける。

身についてしまひし芸や寒ざらへ (下田実花)

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オオイヌノフグリ ~可憐な花のその名は~
- 2009/01/16(Fri) -
オオイヌノフグリ1/16

オオイヌノフグリを見つけた。
ぽつぽつと、草むらにその色がある。
まだ地を這うように広がって咲くというほどではない。
それでも、この青紫の花を見ると「春遠からじ」と思う。

その名を漢字で書けば「大犬の睾丸」となる。
こんな可憐な花に何故かと思って調べると、
 「果実の形がイヌのふぐり(睾丸)に似ていることから和名がついた」とある。(山崎 敬)
そうなのかと思いつつ、よく考えたらこの花に果実があることを知らなかったし、見たこともない。
本当にそうだろうか、いつかこの目で確かめてみよう。
それにしても、花の色や形からではなく、果実に名が由来するというところもまた面白い。
観察者が犬好きでなければできない発想かもしれない。
私なら、さしずめ「春告げ草」や「春蛍(はるぼたる)」、「群星草(むれぼしそう)」などと名づけたことだろう。

 いぬふぐり星のまたたく如くなり (高浜虚子)
 
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フユシラズ(冬知らず)
- 2009/01/15(Thu) -
フユシラズ

川沿いの西の土手には春や夏を思わせるような橙色がたくさん目に付く。
暮れ頃から咲き出したこの花、我が家ではすっかり野生化して毎年真冬に顔を見せてくれる。
名をフユシラズ、この花の姿そのままを表している。
花は1㎝~2㎝ほどと小さく、葉も青々として、寒々としたこの時期にあって私の心を和ませてくれる。
こぼれ種からよく繁殖し、我が家では毎年増えて、その面積を広げているように見える。
その横ではオオイヌノフグリも顔を出しはじめた。
冬のひととき、土手の小さな花たちが私に笑みを運んでくれる。

年とつて冷たき土堤に遊びけり (水田耕衣)
 
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ゼラニウム(天竺葵) ~冬の朝~
- 2009/01/14(Wed) -
ゼラニウム

雪の降った翌朝は車の運転は恐いものがある。
特に、晴れた朝は冷え込みが厳しく路面が凍結してハンドル操作は慎重を期す。
昨日の朝も、竹藪で日陰になった緩やかなカーブで少し滑るのを感じた。
上下から気温が奪われる橋梁の上などは特に鏡のようになったりもする。
もうだいぶ前になるが、通常1時間かかるところを5時間かかった経験もある。
そんな「失敗したこと」を「失敗しない」生き方に生かす。
マイナス8℃、月冴ゆる今朝はこの冬一番の冷え込みのようだ。
一番気温が下がる暗い中での出勤だけに、心して出かけよう。

近くのダム湖は全面結氷だという。
「寒い寒い」との人の言葉を聞きながら、窓際の花々はお日様に語りかけられるように咲く。
部屋では幾種類ものゼラニウムも咲いている。
茎葉の特有の魚臭が苦手だという人もいるが、葉も花も様々に楽しめるこの種類が私は好きである。

寒暁を覚めての息の快し (篠田悌二郎)
 
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シクラメン ~豚のまんじゅうとは~
- 2009/01/13(Tue) -
シクラメン

雪が降ったりやんだり、穏やかに晴れたり風が強かったりとなかなか天気は定まらぬ。
春を感じつつあった草花たちも、また再び雪覆いの中でじっとこらえる。
それが自然、風や雪や霜は神様のお使い。まともには花々を喜ばせてはくれない。

さて、正月にのんびり過ごした分、体を絞るには雪かきもいい運動だ。
暮れのドックでは幾ばくかの注意すべき点も見つかった。
少し心がけた生活が必要だ。

また降り出した。今日もどうやら積もる雪になりそうだ。
しばらくは部屋の中の花を友としよう。
シクラメンには「豚のまんじゅう」という和名もある。
その由来には意味があるのだろうが、この花には可哀想である。

部屋のことすべて鏡にシクラメン (中村汀女)

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ユキワリソウ(雪割草) ~足止めて見れば~
- 2009/01/12(Mon) -
雪割草

庭にほんの小さな赤い色を見つける。
それは地につくようにある。
「ん、花?」。
膝を折り、顔を近づける。
「ああ、雪割草」。
はにかむように下を向いている。
周りは一面の霜柱。
こんな冷え冷えとした朝に…。
見つけた嬉しさと、凍える土の中で咲く花の命に心奪われる。
そういえば、去年咲いていたのは確か3月に入ってからだった。
春告げの花なのだろうに、なんと健気なと。

 控え目に雪割草の地を割りぬ (吾孫のどか)

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ホオズキ ~誘われて雪情景~
- 2009/01/11(Sun) -
雪の中のほおずき

雪がやみ、空に青色が広がる。
日射しが伸び庭も明るくなる。
雪が私を外に誘う。
長靴の跡が歩幅に合わせて後ろに付いてくる。
埋もれる草花と顔を出す草花の中に鬼灯を見つける。
中の赤い玉はそのままに、編み目になった向こうが透けて見える。
一枚の絵に会ったような気分。
さらに歩を進める。
地面の起伏に合わせて、雪がやわらかな曲面を作っている。
木の影もそこに合わせて折れ曲がる。
人の手ではなしえない自然の造形美。
ある雪の日の情景。

いくたびも雪の深さを尋ねけり (正岡子規)

庭の雪
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シクラメン ~雪の朝~
- 2009/01/10(Sat) -
ピンクシクラメン

外は雪である。
久しぶりの白い世界、景色が絵のようだ。
雪を受けた枝にヒヨドリが遊ぶ。
シロハラは嘴を地に刺しながら柿の下を歩く。
そんな様子を、私はすこしよどんだ頭で眺める。

昨日は特別な新年会だった。
10数年ぶりの顔もある。
若い頃の懐かしいエピソードが次々に出てくる。
あんなことも、こんなこともとそれぞれの口が映像を甦らせる。
気がつけば翌日を迎える時間が近づいていた。
私にとってこんな時間まで起きていたのは最近記憶にない。

そんな目覚めの重い頭とボーとした目でシクラメンにレンズを向けた。
優しい顔のシクラメンと、雪の中の鳥たちと、酔い覚ましの茶を飲む私。


シクラメンうたふごとくに並びをり (西村和子)

 
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タンポポ(蒲公英) ~黄色一輪~
- 2009/01/09(Fri) -
タンポポ

  たんぽゝと小声で言ひてみて一人 (星野立子)

タンポポを見つけた。
そういえば年明けてから、このところ日中は日射したっぷりのぽかぽかの日が続いていた。
そんな陽気に誘われて、草布団を除けて出てきた今年の新顔さんだ。
しかし、朝の冷え込みはまだ厳しい分、花茎は伸びず葉の上にすぐの花である。
こうして野に黄色い花があると、なぜだか春を見つけたような気分になる。
晴れの日に比例して少しずつ、野の花たちも膨らんでくるに違いない。

ああ……、そういえば天気予報では今日は「雪」だという。
せっかく顔を出したタンポポもどうやら今日は雪の下だろう。
「やけに真っ白な雪がふわふわ あったかいだね ぐっすり眠る…」
そんな歌なども思い出す。

   草々に蒲公英の黄の自己主張 (福島恭子)

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シクラメン(篝火花)
- 2009/01/08(Thu) -
赤いシクラメン

先駆けて一本伸びて咲く赤いシクラメン。
他は未だ首をUの字にして小さな蕾のままだ。
同じように育てても同時に開花するというわけではない。
いち早く花開くもの、ゆっくり時間を掛けるもの、周りのあとに付いて咲くもの。
それぞれの場所、陽当たり、お隣さん、根張り、吸い上げ…。
目には見えない人の分からないところで自らの調べに合わせて育む花たち。
同じようでいて同じでない。人もそう。
ゆっくりな人、軽やかなリズムを刻む人、突っ走る人。
自分に合うペースを見つければいいのかも知れない。

シクラメンには篝火(かがりび)花という和名があるという。
燃える篝火を思い起こさせるところから牧野博士が付けたという。
物語や詩の世界のような美しい名で私はこの名が好きだ。

恋文は短きがよしシクラメン (成瀬櫻桃子)

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ジョウビタキ~ふくらどりとアサガオ~
- 2009/01/07(Wed) -
ジョウビタキ

寒の入りも過ぎて今日は七草、正月モードもここらで一区切り。
心にしっかり蓄え、さっぱりとリフレッシュした電池を仕事の場に移動する。
さあ働こう、頭を使おう、動こうと自分に声を掛けて奮い立たす。

庭にはジョウビタキ、体が秋より丸くふっくらとなっているのがわかる。
彼は寒に耐えるために、自分の羽毛をダウンコートに仕立てて羽の間に空気を取り込み、体を膨らませているのだ。
そのような姿の雀を『ふくらすずめ(脹雀・福良雀)』というが、そんな鳥たちをまとめて『ふくらどり』と呼ぼう。
そばでは、タコのような宇宙人のような形のアサガオの冬姿も見つける。
見渡せば冬には冬のいろんな表情があって、それはそれで目を楽しませるものがある。
そんなちょっとの余裕を持ちながら仕事に励もう。福良に恵まれるよう。

寒入りて芽出し桜枝(え)に福良鳥 (文)

冬の朝顔

 
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ユーホルビアセリーナ ~しごと・シゴト・仕事~
- 2009/01/06(Tue) -
ユーホルビア セリーナ

 去年今年貫く棒の如きもの (高浜虚子)

机の上にあるのは赤いユーホルビアセリーナ、可愛い形の花だ。
赤いのは正しくは苞で、中に小さく黄色く見えるのが本当の花だ。
葉が形を変えた名残なのか、時折苞の一部には緑色も見えたりする。
1㎝ほどの棘が細く突き出て茎を取り囲む。
指に当ててみると、思ったほど痛くはなく弾力性もある。
原産地はあのバオバブの木がある東アフリカのマダガスカルだとある。
あの大きなバオバブの木の近くに生えているのだろうか。
あるいは可愛いキツネザルたちが側で遊んだりしているのだろうか。
想像するだけでも楽しい。

さて、一月は行く、二月は逃げる、三月は去るという。
時間に追われることなく、時間を作って事を進めていこう。

    六日はや睦月は過ぎぬ机に紙 (文)

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レオナール・フジタ展 ~藤田嗣治の4章~
- 2009/01/05(Mon) -
二人の友達

藤田嗣治といえば、誰しもあの『すばらしき乳白色(グラン・フォン・ブラン)」と呼ばれる、独特の白磁を思わせる色艶の絵を思い起こすことであろう。
当時のヨーロッパに於いて最も成功を納めた「フジタの白」は、日本の美と西洋の文化の融合を独自の発想によって生み出されたものであった。
彼はそこに至る思いを次のように述べている。
「自分の細い線を現すにはもつと滑らかな、光澤のある畫布を作らなければならぬ。しかし、これは容易には發見出来なかった。けれども一つの不成功は経験となり、一つの失敗は進歩となって遂に理想的のいはゆる白カンヴァスを發見することに成功した」。(藤田嗣治畫集1929~図録より~)
今回の展覧会にはもちろんその輝く白の作品を見ることが出来る。しかし館内に踏み入れた私たちは、それは藤田にとって全てではなく序章でしかなかったことに、そしてこの展覧会が「レオナール・フジタ展」であることに初めて気づかされる。
まずその第一章はモディリアーニやスーチンらと過ごした「エコール・ド・パリ」時代とグラン・フォン・ブランの世界。憂いのある首長が特徴のモディリアーニ風の作品もいくつか見られる。
第2章は巨大な画面に描く群像表現「構図」「闘争」などの大作への挑戦である。まるでギリシャ彫刻の肉体美やルネッサンス絵画の物語性を思わせるダイナミズムが表される。フジタが古典に深く傾斜し学んでいたことがわかる。
第3章は晩年を過ごしたエソンヌでの生活人としての仕事と表現の統合である。我々はここで、彼がきわめてデリケートな表現者であること、そしてフランス国籍を取得し、カトリックへ改宗したレオナール・フジタとなったことに気づく。田舎の簡素な一軒家に落ち着いたフジタが作るのは、おびただしい数の家の模型や礼拝室、器など生活と密着した工作手仕事ので世界であった。器用な生活者としての一老人の姿がある。
そして最終章はこれまであまり知られなかった宗教画の世界である。
彼は晩年、ステンドグラスをはじめとし、生誕、十字架降下、イブ、洗礼といったキリスト教に題材を求め、最後は「平和の聖母礼拝堂」を建立する。
「白のフジタ」はいうまでもないが、4章の中で変遷していくフジタ、あくなき表現者としてのフジタ、そして初めて知った「宗教画のフジタ」に強く惹かれた展覧会であった。

「敬虔なフジタ]と過ごす時間の中で、心洗われる信仰の深い思いに触れた清々しい上野での正月であった。

磔刑 「磔刑」


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正月4日 ~金城次郎と蓮の実~
- 2009/01/04(Sun) -
金城次郎と蓮の実

「次郎君の仕事はすべて目に見えない地下の根で勝負している。君は天から恵まれた自分の根の上にたくましい幹を育て、陽に向かって自然に枝が繁るように仕事を果たしてきた」
陶芸家濱田庄司が金城次郎の展覧会に寄せた文の一節である。
私がショーウインドウに置かれていた次郎のこの作品を見て、一目でその土着的な素朴さの魅力に惹かれて買い求めたのは昭和53年頃のことであった。
彼が人間国宝に認定されたのは昭和60年のことであるから、それより少し前ということになる。柳宗悦や、河井寛次郎らが賛辞を贈る陶芸作家であることを知ったのはそれからだいぶ経ってからである。
この器は本来は酒を入れる瓶であろうが、一度も酒を注いだことがない。
むしろ、時々こうして花瓶がわりに用いたりして楽しんでいる。
今年は「蓮の枯れ姿」を挿してみることにした。次郎の魚には蓮一本がいい。そうしよう。
バランスはきわめて悪い。しかし、余分なものが無い方が互いの味を出す気がする。
素の姿、朴の形、不安定な妙、枯れた温もりといったところか。
ところで、濱田がいうように、「人の仕事は目に見えないところにある底の部分の勝負が大事」なんだろうと思う。
自分が生きているうちには自分育てという仕事はいつまでも続く。
私も次郎のように「自分の根の上に、たくましい幹を育て、陽に向かって自然に枝が繁るように仕事を果たせる」ようになろう。

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正月三日 ~清めるが如くに~
- 2009/01/03(Sat) -
サンゴアブラギリ

志高清遠、強く思はば全ては可也


心を清めるが如く庭を掃き初(そ)める。
吹きだまりを掻き出し、箕に集め取る。
一掃きの箒の跡、二掃きの残る筋に働きが見える。
ふと、かの寒山拾得の絵が思い浮かび、「行いの全ては道なり、修行なり」と耳に届く。
中国の書物『晏子春秋』の中に「為す者は常に成り、行う者は常に至る」とあるという。
努力は人を裏切らない。誠実な積み重ねは道を開き必ずや導かれるということだろう。
気持ち新たにして「深くし、高くするもの」を求めよう。
志は清く高く遠くに持ち、それを成し遂げんと強く欲すれば必ずや成るものと信じ。

部屋では夏の花、サンゴアブラギリが咲く。

三日はや雲おほき日となりにけり (久保田万太郎)

掃き初め


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初日の出 ~南アルプスを望む~
- 2009/01/02(Fri) -
2009初日出

内陸の山裾にある地では日の出が少し遅い。
年改まり、空は澄んで雲一つ無い凛とした初めの朝である。
ひとまず仕事の手を休め、家族揃って眺望のきく地へと車を走らせる。
そこには左手から右手いっぱいに広げても抱えきれないほどのパノラマが広がる。
南アルプスの連なる嶺々の一角が明るくなり始める。
その位置は一月ほど前より南の方に移動し、今は荒川岳や聖岳のあたりのようだ。
黄金色の線が一気に伸び、たちまちいくつもの帯となって広がる。
そしてすべてが顔出した初日の出、あまりにも目映くて日の輪郭は見えない。
諸事の願いと思いを託しつつ、強い光が徐々に嶺の上から離れゆくのをしばらく眺める。

神を隠して迎えた今年の正月、めでたき色の箸置きはない。
池田満寿夫を選び、干し柿を丑年の食い初めとする。

連嶺に礼をして年の改まる (福田蓼汀)

Masuo


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