シャコバサボテン(蝦蛄葉仙人掌)~白い翼の~
- 2008/11/30(Sun) -
蝦蛄葉仙人掌

鉢植えのシャコバサボテンが咲いた。
鎖状に垂れ下がる茎節の先端に咲く花は床に着いてしまうほど。
花にとっては毎年植え替えるのがいいと聞くが、これはもう何年もそのままである。
それゆえ、茎節の下の方はまるで老木のような半灌木状となっている。
花はまるで空飛ぶ鳥が羽を広げたよう。仙人掌の仲間はどうしてこうも美しいのだろう。

ふと、はしだのりひことシューベルツのメロディーが浮かんできた。
北山修の作詞による「白い鳥に乗って」、もう40年近い遠い過去の歌だ。
杉田二郎の伸びやかな声の響きがいい。
 白い翼の鳥に乗り 恋は舞い上がる
 白い翼の鳥に乗り 二人は空を飛ぶ 大空へ
 流れ 流れるような青い風 
 頬をなぜてゆく 空を飛ぶよ …(略)

英米ではクリスマス・カクタス Christmascactus とも呼ばれるという。
そうだ、今日で11月も終わる。いよいよ暦一枚の暮れである。

しゃこばさぼてん繚乱と垂れ年暮くるる

シャコバサボテン

しゃこばさぼてん


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逝く秋に燈火親しむ ~たたけとな~
- 2008/11/29(Sat) -
本

しとしと降ったり、青空が見えたり、激しく降ったりと気まぐれな天気に予定していた行事が振り回された。
この雨で、多くの木で残っていたほとんどの葉もたたき落とされたようだ。
近くにある落葉松は一気にその針葉を取られ、綺麗な円錐形を枝で作る。
その下は色とりどりの紅葉とはまたひと味違った、黄丹一色の美しい色模様となる。
激しく動く雲からもたらされた冷たい雨は、遠くの嶺々に雪を運んだことだろう。
役目を終えた秋が逝き、冬にステージを譲る。

燈火に親しみ、赤茶けた書をめくる。
《「古寺巡禮」和辻哲郎著 定価二円五拾銭昭和3年発行》《「美について」高村光太郎著 定価二円八拾銭昭和17年発行》
《「日本美術院史」斎藤隆三著 定価六円九十銭昭和19年発行》《「日本の覚醒」岡倉天心著 定価壹円昭和13年発行》…
昭和19年といえば泥沼の戦を抜け出せず、戦況悪化で国民は生活我慢の状況の中のこと、斎藤はよくも出版したものだ。
その当時、文化本など出すにはよほどの覚悟があったことだろう。
定価に「特別行為税」なるものがあるのは時局をよく表している。

古い本には古い言葉であるが、宝のような心の言葉を多く見つけることができる。
民芸運動家の柳宗悦は「たたけとな、開かれつるに」と遺す。
「物事に対し、積極的に求める、切に求める、限りなく求めるという心の立ち上がりがなければ、見えることも見えず、聞こえるべきことも聞こえない」というメッセージだろう。(青山俊董)
自らのアンテナを常に高く立ち上げておくことが大切である事の意義を説いている。

彼一語我一語秋深みかも (高浜虚子)

日本美術院史

古寺巡礼

 
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ムラサキシキブ ~盛衰の相~
- 2008/11/28(Fri) -
ムラサキシキブの実
                        
揺れながら地に落ちる木々の葉は、何かもの悲しく人の生き様のある時を見るかのよう。
瑞々しい緑色から対局の色に衣替えし、風の誘いに肯いて枝に別れを告げる。
ふわりはらはらと空(くう)に描くその軌跡は、ほんの数秒の人生劇場。
秋深く、風は喨喨と透き通り、心は思いわびて寂寞となる。

ヴェルレーヌの詩を上田敏は次のように訳す。
『秋の日の ヴィオロンのためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し』
また、同じ詩を堀口大學は『秋風の ヴィオロンの 節ながら すすり泣き』と訳す。
それぞれに味わい深く、どれを採るかは好みである。

青春、朱夏、白秋、玄冬、生あるものはいずれその輝きを衰える。
ムラサキシキブはその艶をなくす。そしていずれそれらも姿を消す。

  桐一葉 日当たりながら 落ちにけり  (高浜虚子)

ムラサキシキブ
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スイートアリッサム  ~「彼は誰」「誰は彼」~
- 2008/11/27(Thu) -
スイートアリッサム

勤めに向かう私の朝は早い。未だ周りは薄暗い。
家を出ると天竜川にまっすぐに向かうように国道へ下りていく。
正面にはちょうど南アルプスの黒いシルエット、昨日はその山の端に糸のような月が浮かんでいた。
月齢28.2、丸の輪郭の一部分だけが切り取られた線の月である。
月出は5:12というから、この時期に月を見るのには朝しかない。
何か大切なもの、ありがたいものを見せられた気分になり、その美しい光景に一人頬がゆるみ思わず笑みが出る。 

「かわたれどき」という言葉は今ではあまり使われなくなり、死語になりつつある。
「彼は誰」かと、相手をはっきり認識できないほどの薄暗い明け方の時を表す。 
「たそがれどき」はその反対の薄暗くなる夕方のこと、「誰そ彼」とやはり人の姿形がぼんやりしている様だ。
私のかわたれどきは、幻想の霧に包まれていたり、群れ飛ぶ鳥たちの影であったりとまるで水墨画の世界である。
他の人が得ることのできない静かな時間と静かな風景の中の「かわたれどき」に今日も勤めに出る。

庭のスイートアリッサムは落ち葉の中で咲いている。

気のつかぬ隣の顔の暮れの秋 (太祇)
 
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ハイビスカス(crystal pink) ~透き通った桃色~
- 2008/11/26(Wed) -
晩秋のクリスタルピンク

高橋真梨子に「桃色吐息」という歌がある。英語ではpink sigh とでもいうのだろうか。
咲かせて咲かせて 桃色吐息 あなたに抱かれて こぼれる華になる… (略)
明かり採りの窓に 月は欠けてく 女達はそっと ジュモンをかける
愛が遠くへと行かないように きらびやかな夢で縛りたい
さよならよりもせつないものは あなたのやさしさなぜ? 不思議

日本語の桃色には男女間の艶めかしさを連想させる意味がある。
その色はすでに万葉の古くから女性的な代表の色彩として認められ、歌にも詠み込まれる。
 桃花褐(ももそめ)の浅らの衣浅らかに おもひて妹(いも)にあはむものかも (万葉集12巻 詠人不詳)
《私訳》染められた桃色の着物は淡く美しいけれど、私のあなたへ会うときの思いは決して淡く薄いものではありません。
    もっと強く濃い色模様なのですよ。

部屋に取り込んだハイビスカスが咲き出した。
強く濃い色のレッドスターともう一つはこの淡く美しいクリスタルピンク。 
水晶のように透き通った仄かな色気…見つめればそんな気もする。

いつまでも咲く仏桑花いつまでも散り (小熊一人)
 
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柿一つ ~木守りという~ 
- 2008/11/25(Tue) -
柿一つ

  しみじみと日を吸ふ柿の静かな (前田普羅)

一番高いところにある柿を一つ残してある。
今年の恵に感謝し、来年の豊かな稔りを願うキマモリである。
その効果は別として、古くから伝わるこういう庶民の俗習を大切にしたいと思う。
殺伐としたあまりにも速すぎる時代の中、このようなアニミズム的な敬虔な心持ちも人のあり方として大事ではないか。
非科学的であろうとも、そんな純朴な心にこそ「まこと」があるような気がしてならない。

「しぶ柿はしぶがあるとて捨てるなよ そのしぶゆえに甘くなる」
これは古歌の一つだという。
偏った視点で物事を見て、隠された本質を見誤るなとでも言うのだろう。
時にはアリのように下から見上げ、時には鳥のように上から見下ろす。
そんな様々な角度から内面をしっかり見つめよと諭しているかのようだ。
今年も多くの柿を干した。暮れにはきっと「そのしぶゆえに甘くなる」冬の味覚に姿を変えてくれることだろう。

 軒低し干柿したる竿斜め (松本たかし)

干柿
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バラ ~山国の薔薇は霜を纏う~
- 2008/11/24(Mon) -
霜のラビアンローズ

日中の晴れ渡る空は凍れる朝の約束である。
心地よいひだまりを作る小春の日射しは凍てつく白い朝の裏返し。

薔薇はその寒さにぎりぎりの命を燃やす。
ありのままを自然に委ね、こごえながら薔薇は静かに咲く。
この前に立つと、詩人はきっとその姿をj情感豊かに詠うだことだろう。
長い言葉で情景を綴るか、短い言葉で叙情を紡ぐか。
花びらが霜を纏う冬薔薇を、私はただじっと眺め、ぐるりを歩く。
この薔薇を描写するに、見つけられぬ言葉を何度も反芻しながら。

冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり (日野草城)


霜薔薇



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「ヴィルヘルム・ハンマースホイ展」 ~静かなる詩情~
- 2008/11/23(Sun) -
背を向けた若い女性のいる室内

彼女はいつも後ろ姿で現れる。しかも同じ黒い服を着て。
髪は無造作にまとめられ、手や耳、そして首には一切の装飾を身につけずに。
口を開くことも、笑みを浮かべることもなく、白く塗られた壁やドアの質素な部屋の中で佇む。
光沢のあるピアノと壁に掛けられた額のダークブラウン以外、色らしい色のないモノトーンの世界。
無声映画を見るかのような音のない静かな室内。
まるで描く画家もモデルも呼吸するかすかな音さえ憚っているかのように。
水平と垂直に構成されるモチーフの中で、彼女の左腕と手に持つ盆が斜めの角度をもって絵に少しの動きと変化ををもたらす。
《背を向けた若い女性のいる室内》1904年はヴィルヘルム・ハンマースホイ40歳の作品、モデルは彼より5歳年下の妻イーダ。

展覧会を6つのテーマに分けた第三章「人のいる室内」には27のイーダが描かれる。
そのうち18の絵はすべてこのような、顔を見せない後ろ姿を切り取った作品である。
残る9枚のややおぼろげな表現に僅かに彼女の顔の輪郭を伺うことはできるのだが。
そしてまたこの絵の前に立つと、誰もが彼らの室内に入り込んだかのように口を開くことができない空気になる。
ハンマースホイも妻も、きっと必要なこと以外語らぬ寡黙な夫婦だったのだろう。絵を見るとそんな夫婦の世界すら感じさせる。

椅子の脚が3本だったり、ピアノに2本の脚しかなかったり、影が光源と逆に動いていたりと、いくつかの絵には構成としての破綻がある。しかし、この室内にあるそれらはさもそれが真実であるかのようにきちんと位置付いて存在するのだから不思議である。
実際と異なる現実より絵の世界の中の事実の方が優る表現の世界だ。

《雪のクレスチャンボー宮殿》などの建築物を中心とした風景画も心を惹きつけるものが多かった。
それもまた、多くは人物が登場せず、小鳥や荷馬車の音さえ全くしない静かな風景である。
デンマークコペンハーゲンのヴィルヘルム・ハンマースホイが演出する静かなワンダーランドで過ごした晩秋の一時。
小春日和の上野公園はまだ銀杏が青々とし、木々の下ではホームレスピープルの食事の配給を待つ長い列が続いていた。

小春日や眼底までも光たり (阿部みどり女)

室内、ピアノと黒いドレスの女性とストランゲーゼ30番地
《"室内、ピアノと黒いドレスの女性とストランゲーゼ30番地》
雪のクレスチャンボー宮殿
《雪のクレスチャンボー宮殿》



 
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バラ ~薔薇の讃歌~
- 2008/11/22(Sat) -
フリューテ

薔薇は おごれる洒落者(ダンディ)のように ひらいてゐる、ためらってゐる。
あふれでる 花の盛りのつつましさを、また、そりかへる花びらのあはれさを、
夕化粧した処女(をとめ)の頬のかなしさを、みそかごに 聴きいる女の耳のをののきを、
薔薇のすがたはさまざまに すぎゆく時のなかに立ってゐる。

こんもりとした そのつぼみの影とあかるみを、まだひとしらぬそのくちびるを
眠りのなかにさそはれたる その思いひのほのかさを、
薔薇よ、珊瑚色のばらよ、
うすく あからみほのほのとして あげはの蝶のやうにふるへる
冬の夜のばらよ。 「薔薇讃歌 大手拓次詩集より」
 
今日は小雪、季節の言葉が一つずつ実感となって頬をなでていく。

小雪の箸のひとひらの千枚漬け (長谷川かな女)
 
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ツタ ~行く秋を惜しむ~
- 2008/11/21(Fri) -
ツタの葉

 その日の夕暮れ 金色の光の中を
            ダニエルはいなくなりました。
葉っぱとして生を享けたフレディは、力強く立派に成長していく。
多くの友人と交歓の時を持ち、大自然はフレディたちをしっかりと育んでくれた。
葉っぱに生まれてよかったと、フレディは胸がいっぱいになる。
そして親友のダニエルから、生きるために大切な知恵や、心の糧を教えられる。
夏が去り、秋が去り、突然冬がやって来て、みんなの別れの日が来た。
死の恐怖がフレディを襲う。ダニエルはフレディを力づけた。
「まだ経験したことのないことは怖いと思うものだ。しかし世界は変化し続けているんだ。変化しないものは一つもないんだ。春から夏に、緑から紅葉に変わるように、死ぬというものも、変わることの一つなんだ。死は生の終わりではない。」と
その日の夕暮れ、ダニエルは「さよならフレディ」と満足そうに笑みを浮かべ、金色の光の中を、風に舞いながら消えていった。
                  レオ・バスカリー著「葉っぱのフレディ」みらい・なな訳より

色づいたツタの葉もまた、行く秋を惜しむ。

 ゆく秋や何をおそるゝ心ぜき (久保田万太郎)
 
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スノードラゴン(ミスキャンタス) ~必ずゴールが~
- 2008/11/20(Thu) -
スノードラゴン

「物事を受け入れる勇気をください。物事を変える勇気をください。二つを識別する心の静けさをください」
2010年2月のスペ-スシャトル搭乗が決まった山崎直子さんのインタビュー記事に載っていた言葉である。
結婚出産、両親の介護、そして自らの宇宙飛行士としての仕事。
さまざまな葛藤の中で、道しるべになったのが高校時代に教わったその詩だという。
そして仕事、母親、妻、嫁、そして夫の病、娘の子育て、搭乗訓練…と、仕事と家庭の両立のすべてを乗り越え、彼女は言う。
「仕方ないことは仕方ないし、できることは一生懸命する。どこかに必ずゴールがあると信じた」と。
37歳、強い意志を持った道のりである。彼女の宇宙からのメッセージを楽しみにしたい。

昨日は天気予報通り、日中も気温の上がらない寒い一日だった。そして初雪である。いよいよ白い季節だ。
部屋の中に入れた鉢花の中にスズランのような小さな白い花をたくさん付けているのがある。
葉は細長く、オリヅルランやヤブランにも似ている。
スノードラゴン(ミスキャンタス)ではないかと思う。
下向きに咲く控えめな可愛い花である。

初雪を幼心に見てゐたる (家垣青泉)
 
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ホシザキゼラニウム ~冬隣の夜に~
- 2008/11/19(Wed) -
秋のホシザキゼラニウム

冷え込むとの予報である。
昨日会議の資料準備で遅くなったハンドルを握る手に、ラジオは明朝の氷点下を伝える。
帰宅後、暗闇の中ですぐ外にある4つの水道の不凍栓を止める。
庭を移動する私の足はカサッカサッと落ち葉を踏んで音を立てる。
見えずともそれが欅の葉であることは長年の感触で分かる。
季節は冬隣、行き合いの風がこれからは冬への一方通行。

部屋に入れたホシザキゼラニウムが赤い花びらを開く。
秋の声を聞いた頃からはそれはほとんどが白を占めていたのだが。
隣にはこれまで通りの白い花、同じ株に紅白の花を見る。
暖を取る夜、赤い鳥の歌う「赤い花・白い花」のメロディーが脳裏に流れる。
 赤い花 つんで あの人にあげよ あの人の髪に この花さしてあげよ(略)咲いてゆれるだろう お陽さまのように
 白い花 つんで あの人にあげよ あの人の胸に この花さしてあげよ(略)咲いてゆれるだろう お月さまのように

落葉松の針の煌めく冬隣 (山崎千枝子)
 
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トチノキ(栃) ~秋麗(しゅうれい)の黄落~
- 2008/11/18(Tue) -
秋の栃

久しぶりに菱田春草の画集を開く。
自然観照の深い境地の中で描かれた「落葉」。
写実でありながら写生ではない。
自分の心の中の秋の表現である。
実際に何度もその作品を見てきたが、息が止まるほどになる。
一瞬の静寂が切り取られた世界。
この絵の前では多くの解説はいらない。

栃の葉は地面に落ちるとき、長い葉柄を付けたままバサッと音を立てる。
一枚二枚と枝から離れ、今はもう数えるほど残りわずかである。
春草は落ちた葉を緻密にスケッチした。
秋が深まる度に春草の落ち葉の秋を思う。

黄落の日々こがね透くごとくなり  (松村蒼石)

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バラ(ラビアンローズ) ~久しぶりの雨~
- 2008/11/17(Mon) -
ラビアンローズ

久しぶりの雨である。暮れゆく秋の雨は何故か淋しい。
周りがオブラートに包まれたかのような色景色となる。
そんな冷たい雨の中、健気に薔薇は咲く。
それはしとしとと花びらに優しく落ちる。
細かい雨粒を乗せた薔薇の顔はまた違う。
例えば、長い髪の清純な少女が傘も差さずに歩いているかのように。
私は薔薇を眺める。
見れば愛おしくなる。
剪って部屋に入れよう。

雨に剪る薔薇の色のこぼれつゝ (稲畑汀子)

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タンポポ ~暮れゆく秋の中で~
- 2008/11/16(Sun) -
タンポポ

銀杏や桜、桂や栃、花の木と李と一週間分まとめて落ち葉を掃いた。
かなりの量である。小山のようになった中に、薩摩芋を入れ火を付けた。
勢いよく炎が出て燃えるというわけでなく、火は見せずにじわじわと煙を上げる。
こうして家族の数だけの焼き芋のできあがりを待って、晩秋の色探しに出かける。

山路に入って5分、そこには不動の滝。
周りの木々と50メートルの高さから落ちる滝の流れ。
他に誰もいない、私達家族だけの景色にしばしの時間を楽しむ。
桜の葉が広がる中にタンポポを見つけた。秋の果てなのに、落ち葉に埋もれるように一輪のタンポポ。
その横では脚の長いクモが行ったり来たりする。脚の長さは10センチほど、細いのですぐ葉に紛れる。

山を下る。V字になった落葉松の黄色い山肌の遙か向こうに見える赤石の山脈(やまなみ)が美しい。  
芋はうまく焼け、飴色になっていた。

冬近し落ち葉に顔出す黄花かな  (文)
     深秋や身にふるゝもの皆いのち (原コウ子)

ながあし蜘蛛

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南アルプスの朝日 ~ほんの数分の世界~
- 2008/11/15(Sat) -
旭

朝一番、外へ出る。
ジョウビタキは私が動くと付いてくるように声を掛ける。
霜が降りて、私の黒い車は真っ白になっている。
空を見上げる。雲がない。未だ薄暗いが快晴であることが分かる。
こんな日はちょっと足を伸ばして朝日を見に行こう。
ほんの数分車を走らせた高台、そこは南アルプスの遠望。眼下には低い雲が棚引く。
仙丈ヶ岳、間ノ岳、農鳥、塩見、荒川、赤石…、3000級の山々のシルエットが目の前に連なる。
そして今、まさに塩見の横から太陽が顔を出す。
徐々に広がるプリズムのような放射、しばらく光の時間に身を委ねる。
すべてが上がるまで時間はそうかからない。
ああ雄大だ、自然はかくもありがたきかな。
辺りが明るくなり、風景がそれぞれの色となる。
暮秋の早朝の一人幸せ時間を得て、またハンドルを握り仕事へ向かう。

    秋深しすぐ目の前の山の襞(ひだ) (久保田万太郎)
 
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ゼラニウム (ハイブリットゼラ ガレリア スノーファイヤー)
- 2008/11/14(Fri) -
ハイブリットゼラ ガレリア

部屋の中に入れたゼラニウムたちが生き生きとしている。
ホシザキゼラニウムの花びらは真っ赤に変わったのがいくつもある。
白や赤、オレンジや、暗紫と部屋にさまざまな色が増えて嬉しい。
やはり外の寒さは辛かったのだろう。
このガレリア・スノーファイヤーはかなりの大きな株に成長した。
それぞれの白い花びらの中に綺麗な濃いピンクの斑点が入る。
どの花も上の花びらにはそのドットは形や色がはっきりと大きく入り、下のは小さく薄くぼやける。
中にある大の字を書いたようなオレンジ色の小さな雌蕊も可愛い。
秋の日射しが部屋の中に差し込む。
小春日和の穏やかな日だ。

玉の如き小春日和を授かりし (松本たかし)
 
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ハナノキ
- 2008/11/13(Thu) -
ハナノキ

今年のハナノキの紅葉はいつもより少し赤みが薄い。
それでもそれは美しく、特に夕陽に照らされるなどはえもいわれぬ。
やや広めの浅く三裂した葉に多くのカエデと異なりの特徴を見せる。
我が家では他のカエデ類に先駆けて色づき、秋色の妙を楽しませてくれる。
もともとは中部地方の限られた地域に自生する日本の固有種で、葉に先立ち多数の紅色の小花を春に咲かせる。
雌雄異株であるが、この木はどちらなのかこれまで気にしたことはなかった。
来春、花咲く頃にまたじっくり見て確かめることにしよう。
もう葉数も少なくなってきた。今度の週末にはほとんどは落ちてしまうだろう。

かざす手のうら透き通るもみぢかな (大江丸)

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キク(菊・chrysanthemum)
- 2008/11/12(Wed) -
銀正月

菊について、「花円く高く美しく、高貴な色はそれぞれ天地をかたどり、早く植え晩く咲く様はまさに君子の徳であり、
霜を冒して香るは強く正しくありて、菊酒は神仙の長寿健康の食である」と鍾会はその五美を詠う。
姿形香り性質の強さすべてよし、それを食すはますますよし、そしてそれを見るはなおもよしである。

赤い大きなドーム状の菊の前に白い菊。
それぞれがそれぞれの味を出すべく互いに引き立て役となって。
薄暮に菊の勁直な香が漂う。

たそがれてなまめく菊のけはひかな (宮沢賢治)
 
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バラ(ブライダルピンク)
- 2008/11/11(Tue) -
ブライダルピンク

この季節の日射しには「やはらかい」との表しがあうのかもしれない。
キクも含めいくつかの花々がその時を終えて、一つ二つと姿を消していく。
華やいだ美しい花びらは黒や赤い実に形を変えたのもある。

バラが咲いている。
北原白秋は「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。 ナニゴトノ不思議ナケレド」と詠う。
確かに何の不思議はないのだが、心を引き寄せられる。
一輪の薔薇によってどれだけのロマンと恋物語が生まれたことだろう。
初氷の便りも届き、季節が行き合う。
深秋の薔薇に時間が佇む。

深々と礼をするかに薔薇見入る (上田日差子)
 
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リンゴ(王林の花) ~こんな季節に~
- 2008/11/10(Mon) -
オウリン

勤めの朝が早い私は、ゆっくりと庭の花々の顔を見ることができない。
帰るのももちろん陽が落ちて色のない暗い中となる。
休日はそんな花々とじっくり話ができる時を持てる。
誰にも知られぬ私だけの一人賢治の世界だ。
美しい顔の薔薇もまだたくさんだ。白い枇杷の花も集まって咲いているのも見つけて嬉しくなる。
時には知らないうちに、思わぬ花が咲いていることもある。
これはリンゴ王林の花、立冬を過ぎた霜降りるこんな季節にである。
当然のことながら、私はその花の春のその時期に花を見、その実の秋のその時期に実を収穫している。
春に咲き、夏に咲き、初秋に咲き、そして今と4度目の開花である。
返り咲き、戻り咲き、狂い咲き、帰り花、戻り花…、それにしてもである。
花がおかしいのか、季節がおかしいのか、自然がおかしいのか、地球の今がおかしいのか。
人がおかしいのか。

  さかりを俤(おもかげ)にしてかへりばな  (風虎)

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ゼラニウム(モミジバゼラニウム)
- 2008/11/09(Sun) -
モミジ葉ゼラニウム

先日ある会合でみんなで歌う時間があった。
用意されたのはサトウハチローの「秋の子」、歌詞、メロディーとも叙情溢れるしみじみとしたいい歌だ。
一 すすきの中の子 一二の三人 はぜ釣りしている子 三四の五人
  どこかで焼栗(やきぐり) 焼いている つばきを飲む子は 何人だろな
     二 柿の実見てる子 一二の三人 さよならしてる子 三四の五人
       御飯になるまで お守(もり)する  おんぶをする子は 何人だろな
しかしいざ、歌が始まるとなってこの歌を知っていたのは40~50人ほどの中で、私を含めわずか2~3人だった。
悲しいかな、少し淋しい歌声となった。
これを日本の秋を代表する歌の一つだと思い込んでいたのはどうやら私だけのようだった。
来週また同じ会合がやってくる。こんど歌うのは「もみじ」、これならきっと大丈夫だろう。

今、「モミジバゼラニウム」が咲いている。
葉は紅葉したかのように見えるが、実際には一年中このままの形と葉色である。
部屋の中に入れてあったのを外に出し、陽に当ててやった。

青空の押し移りゐる紅葉(もみじ)かな  (松藤夏山)
 
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バラ ~匂薔薇(においそうび)の名を見つけ~
- 2008/11/08(Sat) -
赤いつるバラ

冬立ちぬと、暦は秋に別れを告げる。
遠く望むアルプスの嶺々は白化粧の施しを広げている。
そういえば、少し前まで耳に心地よかった秋虫の音色も届かなくなった。
鉄の風鈴が淋しげにぶら下がる。

ありがたいことに、今年の薔薇は長い。
まだまだ、いくつもの種類が咲き続けてくれる。

緩やかに湾曲したその細い枝の先にいい香りのする一重の薔薇。
名前は定かでないがつるバラだったような気がする。
香り佳き薔薇を「匂薔薇(においそうび)」の言葉で呼ぶ人を知る。
ああ、確かにこんな薔薇にそぐわしい。

   冬麗(うらら)匂薔薇の上下する (文)

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バラ ~いつしか雨薔薇(あめそうび)と呼ぶ~
- 2008/11/07(Fri) -
雨受けの薔薇

今日は立冬、雨は気温を一気に下げる。
色づいた木々の葉も、地へと降り急ぎはじめる。
赤まんま、猫じゃらしはすでに草紅葉(くさもみじ)。
深まり行くこんな秋の日は「最後の一葉」、「葉っぱのフレディ」、「星の王子様」を手にして一人読書会。
自分で自分に読み聞かせし、言葉の重さや美しさ、人の心の思いやりを今一度幼き心に返って考える。

『娘は壁にただ一枚残る蔦の葉を見つけ、そしてそれを見て、絶望の淵から生きる気力を取り戻していく。
その最後に残った葉は同じアパートに住む老画家が病気の娘のために嵐の中、命がけで描いたものであった…。』

『ダニエルが答えました。「まだ経験したことがないことはこわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化しつづけてい るんだ。変化しないものはひとつもないんだよ。』

『星の王子様は「かんじんなことは目には見えないんだよ。心での目で見ないとね」と言う。』

雨の中で咲く薔薇をいつしか私は「雨薔薇」と呼ぶようになった。

 冬来る眼をみひらきて思ふこと  (三橋鷹女)

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ペチュニア(衝羽根朝顔・Petunia)
- 2008/11/06(Thu) -
ペチュニア

霜の訪れである。家々の屋根が白い。
車のフロントが白い。ワイパーを動かすと薄い氷の膜が張り付く。
また、季節が一歩進む。

ペチュニアが咲いている。これは植えたものではない。
数年前までは毎年10以上ものプランターに賑やかに植えていたが、今はそのエネルギーはない。
飛んできた種から出てきたのか、その由来は知らない。ほかにも何ヶ所にその姿がある。
多年草と化したのだろうか、我が家では同じ場所にいつも顔を出すこのペチュニアである。
見るからに少しの風にもなびく弱々しさがあるが、意外と丈夫でこれから先、冬の間も咲き続けてくれる。
陽を背に受け、自らの茎の形を影として薄紫の花びらに映す。
バルコニー・ペチュニアもいいが、晩秋の一輪もまたいい。

夕風やペチュニア駄々と咲きつづけ 八木林之助

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ホシザキゼラニウム ~霜月はお引っ越し~
- 2008/11/05(Wed) -
ホシザキゼラニウム

庭の木々の紅葉も一段と進む。
今、ケヤキが美しい。

春からずっと外に出しておいたゼラニウムたちを部屋の中に入れた。
栃などの木々が葉を落としはじめる頃になると、毎年鉢花のお引っ越しである。
まだまだ多くの花を付けているゼラニウムたちであるが、寒い風が吹く冬はどうも苦手のようだ。
これから、半年は部屋で一緒に生活を過ごしてその色を楽しませてもらおう。
秋が深まるとホシザキゼラニウムの赤いドットは目立たなくなり、花びらは白の面が多くを占める。
切れ込みのある先端が尖った花びらを輝く《星》になぞらえた名のだろうか。


欅の秀(ほ)枯るる仔細を極めたり (富安風生)
 
ケヤキの紅葉
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サフラン (泊夫蘭・saffron)
- 2008/11/04(Tue) -
サフラン

サフランが咲いている。香りのよい淡紫色の美しい花だ。
庭の草花が茶褐色に変わりつつあるこの時期だけに嬉しくなる。
いくつもの細い線形の緑葉の中に対照的なふんわりとした花がある。
6枚の花びらと糸のように伸びた赤い雌蕊とのコントラストが美しい。

泊夫蘭に物の葉零(ふ)れれば香の走る (田子六華)
 
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彫刻の世界 ~文化の日には~
- 2008/11/04(Tue) -
吊り橋

文化の日は晴れの特異日だと聞く。しかし昨日は一日中空は灰色で覆われていた。
私はこの日を毎年「私だけの文化の日」にしている。
どんなイベントを選ぶか年によって違うが、「文化」を意識した自分の時間を作るように心がけている。

今年はS先生の「彫刻展~60年の歩み展~」を観てきた。
その展覧の会場、芸術資料館に一歩足を踏み入れた途端に、私は言葉を失った。
圧倒とか衝撃というか、体が震えるような、鳥肌が立つような、そんな言葉の時間となった。
大きなハンマーで強烈に打ちのめされた震撼を体が覚えた。
作品の前に立ち、「芸術とはかくありき」とただたただ畏敬の念を持つのみであった。
その仕事の重さ、広さ、深さ、そして大きさについてはあらためての機会を持つことにする。
私の今年の「文化の日」は自分の制作の小さな世界を思い知らされる日となった。
そして「仕事をするということがどういうことか」神経を研がれるような忘れがたい一日となった。
山あいの古びた建物を背にし、早く家に戻りたかった。木に向かい合いたかった。

家に戻り夏に庭に運んだ4㍍もの楢の木の前に立った。

林檎磨き路傍かゞやく文化の日 (殿村菟絲子)
 
静慮
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イソギク(磯菊)
- 2008/11/03(Mon) -
磯菊

磯菊は本来はその名の通り、潮風を受けて海崖に咲く花である。
その小さな株が我が家に根付いてからだいぶ立つ。
信州の凍土の中で冬越しをして、今では1㍍ほどの大きな株となった。
花は一般的なキクに見られる舌状花はなく、ほとんどは黄色い筒状花である。
密集する頭花は花開いているのかどうかは目を近づけても定かにできないほどに小さい。
ところが去年あたりからだろうか、白色の舌状花を持つ雌花が見られるようになった。
周りすべてが黄色い中でその白は目立つ。
ちょうど働き蜂を従える女王蜂のように。

朝夕の冷えが急速に進み、今年もまた私の足を襲う。

磯菊の冬芽にとほき日の匂ひ (中澤愛)
イソギク


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サザンカ(山茶花・Camellia sasanqua)
- 2008/11/02(Sun) -
サザンカ

木々は花凋を迎え葉に錦の衣を着させる。
木々は花落を迎え葉に色の調を喪わせる。
空は高くどこまでも青く澄み渡る。
目に映るすべてが秋色に包まれる。
山茶花は咲く。
青々とした照葉に紅の山茶花が咲く。
山茶花が咲く。
黄葉のハナノキを裏地に山茶花が咲く。
都会では木枯らし一番が吹く。
田舎では干し柿の吊しが並ぶ。

山茶花は固より開く帰り花  (車庸)

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チャ(茶の花・tea)
- 2008/11/01(Sat) -
チャノキ

緑葉に隠れるように白いチャの花が咲く。
黄色い葯を持つ多数の雄蘂が花の中心を大きく占める。
丸い蕾や鋸歯のある葉もそうだが、花も一重の山茶花に似る。
とまれ、葉が主役故に多くの人にその花の存在は重きをなすものではないのかもしれない。
ふと、小さい頃飲んだ茶には時折花が入っていたことを思い出す。
香りの強い茶だった。懐かしい。

もう十数年前のことになるが、私は自分で茶摘みから袋詰めし製品になるまでの作業を体験したことがある。
天竜川の川霧に育てられた「赤石銘茶」に、オリジナルブランドの名を冠して自分だけのマイお茶を楽しんだ。
一芯二葉だけの若々しいやわらかな一番茶だけに、格別な味だったのを覚えている。

 茶の花のひとつ咲きたる垣根哉  (星野麦人)
 
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