ミレイ展(英国ビクトリア朝絵画の巨匠)
- 2008/09/30(Tue) -
オフィーリア

70余の作品はどれもがミレイの唯美主義やロマン主義、そして自然をありのままに捉えた徹底した写実主義に貫かれている。
数多くの作品を並べれば、その中には落差を感じさせるのもありがちだが、この展覧会に関しては全くそれは当てはまらない。
一点一点から表現者としての彼の思想と哲学のメッセ-ジが観る者に伝わり、そのコンセプトが明確に描き出されている。
《オフィーリア》は彼の代表作の名にふさわしく、衆目がその前に集まるようにその存在感は際だつ。
画題は言うまでもなく、『ハムレット』の悲劇のヒロインに因る。
父を殺されたオフィーリアが錯乱のまま川に落ちて命を落とす場面である。
両の手を広げるのは、ハムレットへの愛の証を死してなお訴える殉教の姿。
目は永遠の愛を見つめるかのように、視点を失い半開きのままにある。
そして口はまるで最後の愛の歌を口ずさむかのようにわずかに歯を見せる。
色や形を異にした多くの花々が彼女の周りを取り囲む。
ミレイはその一つ一つに意味を持たせ、彼女の死に至る悲しみの経緯を語らせる。
テート・ブリテンのパネルはそれらをオフィーリアの心の代弁、象徴として次のように解説する。
「スミレ=貞節、パンジー=叶わぬ愛、バラ=愛、ノバラ=喜びと苦悩、ミソハギ=純真な愛情
 ケシ=死、ヒナギク=無邪気、ナデシコ=悲しみ、ワスレナグサ=私を忘れないで…」
11歳でロイヤルアカデミーに最年少で入学したというミレイの優れた才能の凝縮をその作品に見る思いがする。

渋谷の外はまだ雨が強く降っていた。予定した二日間の芸術鑑賞を終えて、ハンドルを握り中央道をひた走って家路につく。

  勿忘草(わすれなぐさ)光りて呼ぶはちさき水面(みお) (香西照雄)
 
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フェルメール展(Vermeer and Delfft style)
- 2008/09/29(Mon) -
手紙を書く婦人と召使い

フェルメールを観てきた。
『光の天才画家とデルフトの巨匠たち』というサブタイトルを持つ。
世界で三十数点しかない彼の作品の中から一挙7点の展示である。
中でも彼が残したたった2点の風景画のうちの一つ《小径》は興味を惹いた。
また、彼のすべての作品の実物大の作品パネルが展示されていたのも、鑑賞者にとってはありがたい。
今回の展示作品の中で、一番印象深く目に付いたのは《手紙を書く婦人と召使い》だ。
これも多くの作品がそうであるように、光が左上方から窓を経て部屋に差し込む。
婦人はその手紙を誰に向けて書いているのだろう。その表情からは「愛のメッセージ」を感じさせる。
召使いは少し距離を置いてその中味を目にしないように心配りをし、視線を窓の外へ向ける。
きっと主人が認めたその大事な思いをこれから相手に届ける仕事をするのだろう。
二人の女性の表情はそれぞれの立場を美しい物語にしている。
婦人は頭巾を被り耳にピアスをして、首を少し斜めにかしげながら文を綴る。
ペンを持つ右手、紙を押さえる左手、その仕草がまた自然で美しい。
書き直したのだろうか、床に便箋が丸めて捨てられている。思いをもっと深く強く伝えたかったのかもしれない。
光が作り出す静謐な陰影表現が部屋全体に広がる。時間も静かに流れる。
この絵は2度も盗難に遭うという痛々しい歴史を持つ。
以前に観た《真珠の耳飾りの少女》そして《牛乳を注ぐ女》とはひと味違う充実感がある。
ただ、彼が生涯愛し手放さなかったという、《絵画芸術》の出品が突如キャンセルされたというのは残念である。
外へ出ると上野はそれぞれの秋を楽しむ家族連れや恋人達で賑わっていた。  

女とは何か手に持ち秋日傘 (中西ひさえ)
 
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コスモス(秋桜)
- 2008/09/28(Sun) -
秋桜

「薄紅のコスモスが 秋の日の
      何気ない陽だまりに 揺れている…」 (山口百恵 秋桜)
  
いくら年月が流れようとも、秀歌は人の心にいつまでも残る。
それぞれがそれぞれの歴史やその時々の時代を感じたり、
時にはある身近な人との思い出として、
あるいはあるできごとの情景のワンフレーずとして。

「生きてみます 私なりに こんな小春日和の 穏やかな日は
          もう少し あなたの 子供でいさせてください」

庭の至る所で秋桜が揺れている。
場所によってその株の高さや大きさが異なるが、秋映えの中の表情はどれも一緒だ。
人によって見方、感じ方は違うとは思うが秋という季節の中で、ひときわ感傷をかきたてる花だ。

揺れて白揺れやみて紅秋桜 (中村芳子)

コスモス


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ユリ(高砂百合)
- 2008/09/27(Sat) -
タカサゴユリ

山百合、鳴子百合、姫百合、鹿の子百合、鉄砲百合…。
夏の叙情、夏の叙景として絵にも歌にもなる日本の百合達。
その「歩く姿」が美の代名詞として喩えられたのはいったいどの百合だったのだろう。

朝、玄関のドアを開けると鼻にいい香りが届いた。
高砂百合の開花だ。今年は8輪の艶(あで)姿を見せる。
すくっと背丈を伸ばし、高さは1.4㍍ほどになる。
花そのものは鉄砲百合に似て、それをを一回り大きくしたようである。
葉が細いのと、花弁の外側に赤紫の筋があることに特徴を見る。
高砂百合、その名の通り台湾原産の帰化植物である。
球根でなく、種子を飛び放って増えていく変わった百合だ。
この花も数年前にどこかから我が家にやってきた。
今では何ヶ所かに顔を出している。これ以上増やさないように気をつけよう。

風吹けば白百合草を躍り出づ (山口青邨)
 
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丁字桜(藤擬き)~春の花が~
- 2008/09/26(Fri) -
丁字桜

宮澤賢治が好きである。
帽子を被り、コートを着て、腕を後ろに組んで土の上を歩くあの姿が好きである。
彼は自然と共に生きた。 自然は多くのことを教える。 今人は自然を壊す。
彼は土と共に生きた。 土は多くのものを育む。 今人は土を汚す。
彼は農民と共に生きた。 農民は汗を流し働く。 今人は不労の所得で混乱する。
彼は作物と共に生きた。 作物は人の心と体を豊にする。 今人は汚染された作物で不安に陥る。
彼が夢見続けた、人が自然と共生し、人々が支え合って生きる理想郷イーハトーブ。
昭和8年(1933年)9月21日、急性肺炎で死去。享年37歳。生涯、独身。

丁字桜がいくつも咲いている。本来春に咲く花である。桜と同様、葉が出ないうちに咲く。
今は秋、たくさんの葉に囲まれた小さな藤色の花。この時期に咲くのを見たのは初めてだ。
最近、不思議が多い。

今年の栗は少なめだがいい実を付けている。

栗一粒秋三界を蔵しけり (寺田寅彦)
 
栗
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リコリス(ラジアータ・曼珠沙華)
- 2008/09/25(Thu) -
リコリスラジアータ曼珠沙華

お彼岸を挟んで、時を合わせるかのように彼岸花の仲間が咲いている。
これらは地面から突如としてこの時期に顔を出し、花茎をぐんぐん伸ばす。
ここそこにと、いくつかが寄りあってひとかたまりになって咲く。
ひとつの大きな花のように見えるが、実際には10個ほどの花が同時に咲いたまとまりである。
それぞれの蕊は花から飛び出るように、上に向かって弧を描く。
「葉は花知らず、花は葉知らず彼岸花」と言われるように今は花だけ、葉はない。
秋の青空に似合う花である。
ちょうどその上では周りを見渡すように百舌が高鳴きをしている。

空澄めば飛んで来て咲くよ曼珠沙華 (及川貞)
もず

 
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キク(スプレー菊・ベンチャー)
- 2008/09/24(Wed) -
黄色菊

秋の日らしい澄んだ青空が広がる。風も爽やかな久しぶりのいい天気だ。
庭では黄色い菊がその色を比べ合っている。
ああ、秋だ。確かに秋だ。季節は秋を飾る言の葉を喜んで迎えている。
ところで菊は古来より人々に親しまれてきた日本固有の花だと思っていた。
しかし「キク」は音で訓読みはない。つまりキクは漢語であり、和語ではないのだ。
書には『キクが中国から日本に渡ってきたのは奈良時代の初期。しかしこのころの
キク栽培は,皇室を中心とするいわゆる宮廷園芸でごく限られた栽培であった』とある。(岡田 正順)
庶民の間にキク栽培が移るのは江戸時代を待ってからだという。
秋の顔キク、ほかの花も少しずつ開きつつある。
中国では邪気をはらい命を延ばす効果があるとされる。
その花を見ながら、故郷にいる同じ名を持つ母の長寿を心から願う。

花はみな四方に贈りて菊日和 (宮沢賢治)

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ムラサキツユクサ(紫露草)
- 2008/09/23(Tue) -
紫つゆくさ

赤い鶏頭を背景に、ムラサキツユクサが咲いている。
初夏から咲き続けている長い花期の花だ。
茎頂に多数の淡い淡赤紫色の3弁の花を付ける。
花びらの小さく波打つような襞が優しい。
まだたくさんの蕾が色纏う時を待っている。
家にはもう一つ梅雨頃咲き、もうすでにその時期を終えている青紫のと、この2種類がある。
細長い剣状の葉を持つそちらの方が一般的には目にすることが多いような気がする。
あれはあれで和の風情を楽しませてくれるが、この本紫に近い色も味わい深い。
もっとも勝手に和趣を感じるのは私であって、彼女らの故郷(原産)は北アメリカから熱帯アメリカだ。
明治の初めに渡来しとのことだが、酒井抱一など琳派の画家達がいたら、きっと縑素に親しんだことだろう。
昼にはしぼむ一日花、ちょんちょんとある黄色い蕊との補色がまた何とも言えぬ情趣を引き出す。

今といふ刻わがいろに秋生きる ( 山崎荻生 )
 
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ヤブマメ(藪豆)
- 2008/09/22(Mon) -
藪豆

野ブドウの小さな丸い実を見つけた。
蔓がニシキギやモミジなどに絡んで伸びる。
その葉に隠れるように美しい色の蝶形花がある。
「ん?」野ブドウの花ではない。
花をたどると3小葉に分かれた見慣れた複葉に繋がる。
ああ、ヤブマメか。それにしても上品でおくゆかしい紫苑色だ。

『平安の社会では花の色も紫が特に愛好されていたという。
 紫苑もそのひとつで文学作品にもよく登場する。
 秋に用いる色目として衣服や装飾に用いて愛用していたようである。』(福田邦夫著より)
この色を襲(かさね)に用いたという繊細な感性を持った古の佳人達。
「源氏物語絵巻」柏木二(徳川美術館蔵)に描かれる女性達の着物にも、その色を見ることができる。

身を容(い)るる葉蔭あかるき九月かな (鷺谷七菜子)
 
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ゲッカビジン(月下美人・Dutchman’s‐pipe cactus)
- 2008/09/21(Sun) -
月下美人

予感がした。朝、その横を通りかかった時のことである。
紡錘状に膨らんだその先が少し開きかけていたからだ。
数日前からアームにクレーン現象が見られていたので気にはなっていた。
「今日咲く、きっと今日咲く」と確信し部屋へ入れる。
日中、変化は見られない。
夕食を済ませた頃、強い芳香が鼻に届く。
7時過ぎ、一番外側の細い花弁が緩やかに反り返り、優しい曲線を描く。
徐々に内側の花弁が開いていく。
花芯はイソギンチャクの触手のように神秘的な姿を見せる。
香りは一段と強さを増す。
10時、美しい姿はまだ続いている。しかし瞼が重くなってきた。
私の日常生活からしたら限界に近い。
これで幻想的な一夜限りのショーの観覧は終わりにしよう。

今年3度目の月下美人の開花であった。

月下美人力かぎりに更けにけり (阿部みどり女)

ゲッカビジン





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シモツケ(繍線菊・Japanese spirea)
- 2008/09/20(Sat) -
シモツケ

淡紅色のこの花、繍線菊と書いてシモツケ。
もともとは下野(しもつけ)の国ではじめて見つかったことにその名の由来。
数㍉ほどの小さな花が梢上に寄り集まる。
白い頭の雄蘂がつんつんと花から伸び出る。
咲き始めは梅雨の頃6月だったと記憶している。
むらがり咲く散房は若干小さくなったが、まだ色も鮮やかに咲き続く。
花後はそのままの形にして茶褐色の寂れた色となる。
今年はじめて、そられをこまめに取り除いた。
それが例年になく長く楽しませてくれる結果に繋がったのかもしれない。
本来は山野に自生する野の花、楚々とした控えめの愛らしい花である。

しもつけの花びら綴ることばかり (後藤夜半)

近くにシジミチョウがやってきて恋を語らっていた。
熱いランデブー、二人は長い間そのままでいた。
蝶の愛しあう姿をはじめて見た。
うらじろしじみ
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サンゴアブラギリ(珊瑚油桐・ヤトロファ)
- 2008/09/19(Fri) -
珊瑚油桐

名を冠する珊瑚のようなオレンジ色の花が春から途切れることなく咲き続けている。
鮮やか色の珊瑚油桐、丸い蕾も小さな五弁の花も可愛い。
花茎の先がにょきにょきと伸びて咲く。
葉は両手を合わせたよりも大きい。
幹は酒徳利のようにおなかをたっぷりと膨らめる。
ビビットカラーの小さな花とエンペラーグリンの大きな葉、そしてぽってりした幹とのアンバランスが妙。
二鉢が、わが家玄関で揃ってお迎えしてくれる。

地と水と人を分かちて秋日澄む (飯田蛇笏)
 
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キハギ(朝鮮木萩)~どんぐりねんねん~
- 2008/09/18(Thu) -
朝鮮木萩

紅紫色のこの花は5月頃からずっと咲き続けている。
だいぶ前からある木で、我が家では長老に値する。
その花の特徴からハギの仲間であることはわかるが、正しい名前は知らない。
調べれば、朝鮮木萩(チョウセンキハギ)に似ている。
それを特定できるよりどころはないが、私はずっとそう呼んでいる。
背丈はせいぜい1.5㍍ほどの叢生、さほど高くはならない落葉低木である。
そこが、地上部が冬枯れしてしまう他の草本のハギとは違う。
移植に強く、日陰日向を選ばず、比較的成長も早い。
なにより花の期間が長いのがいい。しかし、ここへ来て花数が少なくなってきた。
花が終わると、葉も落ち始め、細い枯色の枝が淋しげに叢がる。

そのとなり、コナラのドングリが落ちている。
またひとつ、小さな秋を見つけた。

どんぐりの寝ん寝んころりころりかな  (小林一茶)

こならどんぐり

 
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ウド(独活) ~昆虫の楽園~
- 2008/09/17(Wed) -
うど

たくさんの昆虫が遊びにやってくる。
ニラの白い花の上はミツバチとシジミ、モンシロ、タテハなどがお好み。
腰を下ろして眺めていると、その空間だけが別世界のようで時間を忘れてしまう程に楽しい。
それらが飛び交いながら花から花へ移る姿は、まるで映像の中にいるような錯覚にさえ陥ってしまう。

今一番多くの種類が混在して仲良く留まるのが、これは以外だがウドの花である。
特定できない小さな昆虫から、蜂だけでも数種類、蝶は大型のも含めて多くやって来る。
ひとつが飛べばひとつがその後へと、次々に賑やかである。
彼らを引き寄せる何かがウドにはあるのだろうか、あるいはこの丸い花に味覚をそそる味でもあるのだろうか。
鼻を近づけてみたが、ずっとそばにいたい程のいい香りは私には感じられない。
昆虫には昆虫のいい世界があるんだ、そう思いつつ秋空の下の楽しげな光景を眺めていた。

さもなくば独活の花見て帰られよ (榎本好宏)
 
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シュウメイギク(秋明菊・貴船菊) ~モズが~
- 2008/09/16(Tue) -
しゅうめいぎく

朝早くサツマイモを掘った。
いつもより少し早いがいいできだ。コンテナいっぱいになった。
作業を終えたところで、突然“キィーッ キィーッ キチキチキチキー”と甲高い声がする。
「あっ、あれは」と、その声の方を向くと栗の木のてっぺんにやはりモズがいる。
それは「俺はここにいる。ここは俺のシマだ」と縄張りを誇示するモズの高鳴き。
またひとつ、秋の風物詩が我が家に訪れた。
掘ったばかりの手頃なものを包んで焼き芋にした。
少しの焦げが香ばしくて美味しかった。

ピンクの秋明菊も咲き出した。
白いのもちらほらである。

菊の香や垣の裾にも貴船菊 (水原秋桜子)
 
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アジサイ ~十五夜の日に咲く~
- 2008/09/15(Mon) -
紫陽花

十五日に出でにし月の高々に君をいませて何をか思はむ(万葉集12巻3005 詠人不知)

十五夜は今昔問わず夢を乗せて、誰をもロマンチックな物語の主人公にする。
あるいは日常から解き離し、煩わしさの時を置いて、思邪無き幼児の心へ返したりする。
秋のその日に満ちた月がそこにあるだけで、人は自分だけの多くの言葉を見つける。
昨日もきっと、空を見上げて新しい恋の歌、自然の讃歌が生まれたことだろう。
科学がいかに進歩しようとも、月の世界は夢物語の世界であり続けて欲しいと思うのは私だけだろうか。

アジサイも十五夜を待って見たかったのか、今満開である。

けふの月長いすゝきを活けにけり (阿波野青畝)
 
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エノコログサ(ネコジャラシ・foxtailgrass)
- 2008/09/14(Sun) -
エノコログサ

ふんわりしたエノコログサ、風に吹かれてしなやかに揺らりゆらり。
一本抜いて、猫の前で振ってみたくなる。
「猫が顔を寄せ、前足を出し、首をかしげてごろりと転がる」そんな光景を思い浮かべながら。
名は狗(えのこ=子イヌ)の尾に似ていることに由来。
じゃれるのは子猫。
あちらではfoxtailgrass=狐のしっぽ草。
どれも面白い。
我が家でそれを楽しむのは季節外れのヤマブキ。
それも、お似合い。そばにいたいお二人さん、きっと逢いたかったのだろう。

  一憂も一喜も風のねこじやらし (大澤ひろし)
 
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キクイモ (菊芋・Canada potato)
- 2008/09/13(Sat) -
キクイモ

先般手に入れた田中芳男の小冊子にこんな一節がある。
「キクイモの名付け親は私。キクイモは横浜に伝わって外人が食用とし、日本人が栽培していた。ある人が私のところにそれを持ってきて、これは何かと聞いた。花が菊の花のよう、根は芋のように食べられる。そこで『キクイモ』と名づけた。繁殖力が旺盛だから非常時に備えると良い野菜だよ」(~田中芳男 日本博物館の父~より)
キクイモは北アメリカ原産のキク科の多年草で、もともと現地ではその塊茎が家畜の飼料とされていた。
田中の言葉にあるようにそれが食用として日本に輸入され、過去には救荒作物として栽培を奨励されていたようだ。
最近では、イヌリンを多く含んでいることから健康志向ブームで見直され、栽培に乗り出す農家が増えている。
また近隣の地ではアルコール発酵として、焼酎にするところも出てきた。
花は茎の上部で枝分かれし、小型の向日葵のようなたくさんの花を付ける。
塊茎は味噌漬けにしても、汁ものにしても、煮物にしてもよい。
しかしその土臭さと、ショウガのような不定形なでこぼこは調理の面で少し難がある。
また、上述するようにその繁殖力は盛んで、凄い勢いで増殖するので気をつけなければならない。
現に食用として植えたはずの私の所でも、それは数えるをあたわずほどに広がって困っている。

秋めくとすぐ咲く花に山の風 (飯田龍太)
 
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ススキ (芒・尾花・Japanese pampas grass)
- 2008/09/12(Fri) -
ススキ

毎朝、まだ陽が昇らないうちから庭へ出て除草し、収穫し、花の手入れをする。
しかしこのところ、一枚上に羽織るものがないと肌寒い。
しかも、少し厚手のものでないとひんやりとした空気に負ける。
こうして夏の舞台が反転し、秋のステージに入れ替わりつつあることを日常の生活の中にも確かに実感できる。
目を巡らせば空も澄み渡り、歳時記の草花がここかしこに景色となる。
ススキの茎が背比べするかのように立ち並ぶ。
それぞれの穂はまだ黄色く、全体があの銀白色の毛に包まれる姿になるのはもう少し先になる。

秋という言葉の響きにはなぜかもの悲しさと寂しさが寄り添う。

待るゝと思ふ夕の芒かな (霞東)

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ハイビスカス (クリスタルピンク)
- 2008/09/11(Thu) -
クリスタルピンク

天竜川を左に見ながら、南へ下るようにして片道35分の私の通勤路はある。
そこは中央アルプスの嶺々を源とする清らかな水で育まれた田が広がる豊饒な地。
頭を垂れた稲穂が一面秋色に染まり、それを目にしながらハンドル握るだけで幸せ気分になる。
そんな中、まだ、9月のこの時期だというのに、所々もう稲刈りが済んだ田も見られる。
大型コンバインで刈るのだろう、同時脱穀した後の稲束が菅笠のように行儀良く並ぶ。
ここ数年家族総出の稲刈りやハザ掛けをする姿を見ることも少なくなってきた。
田んぼそのものが少なくなってきているのも事実だ。川を挟んだお隣さんの田んぼもこの夏マンションに変わった。
「事故米」なる汚染米を何千トンも輸入するより、自国の稲作農家を大事にする施策が必要だと思うのだが。

赤やピンクオレンジのハイビスカスがまだまだ元気である。
中心にある濃赤色の部分が風車に見え、懐かしい童歌を思い起こさせる。
  花の風車が風を切って廻る~チントゥンテントゥン … ~
いつまでも咲く仏桑花いつも散り  (小熊一人)

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シラヤマギク (白山菊・婿菜)
- 2008/09/10(Wed) -
シラヤマキク

李の下でシラヤマギクが可愛い白い花を無数に付けている。
主茎の先端から広がるように枝分かれした小花が乱れて咲く。
他の野菊と違って、一つ一つの花の花びらは不揃いである。
5枚であったり、10枚であったりとそれぞれ好きな数の顔を作る。
整った姿のもあれば、間隔が歯抜けになった様なものもあり、その勝手きままな姿がまた野の花らしい。
その背丈は1メートルを有に超し、葉は地面に近いところと上の方ではその形と広さが大きく違う。
若菜は、春の嫁菜に対して婿菜の名を付け食用となるというのだが、食したことはない。
ススキと合わせて活けるなどは一層風情があっていい。

初秋の蝗つかめば柔らかき  (芥川龍之介)

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オクラ (アメリカネリ・okra)
- 2008/09/09(Tue) -
おくら

このところ毎日のように食卓に上るのがオクラだ。
食べるのは開花後の角のように先のとんがった若い莢。
輪切りにすると星形の中に五つの部屋。そこへ種がそれぞれ収まって、ちょうど蓮の実のよう。
別名「陸蓮根(おかれんこん)」はその形からの名付けだろう。
毎年栽培しているのは私がとりわけ食材として好みとしているというわけではない。
ただ、作りやすい野菜だからという単純な理由だ。
しかも、少ない家族には余る程作るのだからあきれられている。
納豆と組み合わせたネバネバ兄弟はいい。さっとゆでただけのおひたしもいい。天ぷらなどはなおいい。
花はレモンイエローの優しい色。
夕刻から朝方にかけて咲き、午後にはしぼんでしまう一日花だ。
それ故、この花の美しい姿を見るには朝早くがいい。

ねとねとと糸ひくおくら青春過ぐ (小澤實)

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アレチウリ ~小さく白い花なのだが~
- 2008/09/08(Mon) -
あれちうり

川からアレチウリが上ってくる。
家の敷地のそばまで迫っている。
こんな小さな河川にまで広がるようになったのはいつ頃からだろう。
少なくとも数年前までにはなかったはずだ。
放っておく訳にはいかない。
小雨の中を鎌で切っていく。

その成長の強さにより、生態系等に被害を及ぼす「特定外来生物」に指定されている。
天竜川ではその勢いで多くの植物に影響が出ている。
遠くから見ると木々がまるで網を掛けられたような異様な光景となる。
その繁殖力といったら凄まじく、大木ですら覆い隠され、しまいには枯死させるのだ。

小一時間で作業は終わった。
10月頃までにまだ2~3度は必要だろう。

身のまはりは草だらけみんな咲いている (種田山頭火)
 
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アジサイ ~秋風の中で~
- 2008/09/07(Sun) -
紫陽花

赤とんぼが群れなして飛ぶ。
ススキが陽を受けて光輝く。
草むらから蟋蟀が跳ね出す。
薄紫の可憐な野菊。
穂を垂れるネコジャラシ。
粒を集めて揺れるタデ。
秋、秋、秋…。
ラジオからも秋の歌が流れる。
秋を感じ味わう。

秋風に、時を違えて紫陽花が花開く。
ほら聞こえないかい、トワエモアが。
「今はもう秋、誰もいない海…」

紫陽花や大きな夢はばらばらに (加藤楸邨)
 
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アゲハチョウ ~早起きは~
- 2008/09/06(Sat) -
アゲハチョウ

“早起きは三文の得”なる言葉は過去の遺産になりつつあるのかもしれない。
24時間めまぐるしく廻る世の中だ。その言葉を知り、語り諭す人の多くはもう時代の主流からは離れつつある。
幼い頃、父や母はよくそんな人生訓的な言葉を語ってくれた。
一つひとつの意味はよく分からなかったが、言われることは大切なことなのだと感じていた。

今、朝の早い私は三文どころか確かに一分一両もの得をしている気がする。
こんな美しいアゲハが庭で静かに休んでいる姿など目にすることができるのだから。
蜂もそうだが、蝶などの昆虫はどうやら陽が昇り気温が上がらないと活発に活動しないようだ。
かなり近づいても、ほとんど動かずじっとしている。
そしてようやく私の気配に気がついて、そこを離れるが、その羽はスローモーションの如きにゆっくりですぐ近くに留まる。
今留まっているのは三椏(ミツマタ)、今日彼女はこれから何処へ行くのだろう。

しかしまた困ることを目にすることもある。
柚子(ユズ)の若芽を食ってぼろぼろにした彼女の子ども達(幼虫)の姿だ。
実を付けた柚子も大事にしなくてはならない。可哀想だが、一匹ずつ取っては草むらへ投げる。
山村暮鳥の詩の世界のように、美しい蝶もゆっくり遊ばせたいしそんな姿も見たい。
だが、人は同時に二つのことを得ることはできない。一方を得るには片方を捨てることなのだ。
同時価値をどのように取捨選択するか、その時々常に我々は決定を迫られる。

天よりもかがやくものは蝶の翅 (山口誓子)

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リコリス(オーレア・鍾馗水仙)
- 2008/09/05(Fri) -
リコリスオーレア

勤務先へ出かける前の朝早く、庭や畑へ出るのが日課である。
まだ陽が昇らない時間ではあるが、そんな中でも庭には色々な姿を見ることができる。
頭に桜の葉が落ち、返り咲きのヤマブキを眺め、コナラのドングリを拾い、と日々違った朝である。
まだ人々の音のしない朝の一時は、五感も繊細に働き、それらの豊かな表情を空の鳥たちと共有する。
そして花それぞれの顔を見ると、脳の中には心鎮める穏やか物質が広がり、満たされていくような感さえする。
明るさがまだ届かないそんな朝、リコリスが長い茎を伸ばし、鮮やかな黄金色の大きな花を咲かせている。
花びらの縁はちぢれ波打ち,先端は巻き戻るかのようにそり返る。
細い6本の雄蘂と雌蕊がスッと伸びて長く突き出し,緩やかな美しいラインとなって上向きに湾曲する。
雄蘂は花開くときは紫色をし、時間が経つにつれ黄色く変化する。
今、葉はない。地から茎が直接伸びて咲く。葉は花後に出て翌春には枯れる冬緑型多年草の典型である。

キツネノカミソリなど、これらヒガンバ科の花が目に付く季節となった。

こころとは毬のようなり曼珠沙華 (金子皆子)
 
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『夏の日の青いりんご』 ~この夏の私は~
- 2008/09/04(Thu) -
真夏の青い林檎

お盆を前後にはさむ暑い盛りの日々は私にとっては「制作の夏」である。
どんなイメージでどう表現していくのか、ただひたすら作品に向き合う。
朝5時頃からそれは始まる。テントの下は削り取られた石膏で白い。
飛び散る粉から目や鼻口を守るため、帽子、マスク、保護グラスを付ける。
その装備で暑さが一層増す。立ちっぱなしだ。汗が流れる。水を飲む。
モデルはいない。ただただ自分との対話の世界だ。
今年のバックミュージックは懐かしいPPM、そしてブルーノートなど。
少し疲れたら、テントを出て花を見る。薔薇が心を癒す。
石膏を溶く。モデリングする。すぐに固まる。
出刃包丁が私の手の代わりになり、それで叩き、落とし、削りを繰り返して仕上げていく。
完璧というわけにはいかない。しかし区切りを付ける。
リンゴを側に置いて作品に語らせる。部屋の中に入れ着色をする。
終わった…。

そしてまた始まる。

我恋は林檎の如く美しき (中川富女)
 
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ニラ ~白い花と白い蝶と~
- 2008/09/03(Wed) -
ニラと白い蝶

畑の真ん中で溢れんばかりに咲く白い花は韮、蝶や蜂たちがその上を楽しそうに遊ぶ。
増えて増えて……仕方ない、と思いつつもこうして白一色に埋め尽くすのを見るとまた嬉しくなる。
本来食用として植えたものだが、今では食材としての利用より、花が部屋を飾ることが多くなった。
下から鎌でばっさり切りとって、ワイルドにどばっと花瓶に差し込む。
たくさんの小さな星形の花が半球形に広がる。「いい」、と一人納得し肯く。

私は以前、韮作戦を立てたことがある。それは縁側の板の間に韮を植えて埋め尽くすというものだ。
過去に建築家藤森照信氏が、建築した『ニラハウス』を目にしたからだ。
設計した赤瀬川源平氏の家の屋根には韮が植えてあった。
屋根に白い花が咲き揃うその光景を見て、私もやってみようという思いに駆られたのだ。
縁側に蝶や蜂たちがやってきたらどんなだろうと思いつつ。
しかし、未だ実現していない。

足許にゆふぐれながき韮の花 (大野林火)
 
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ハギ(宮城野萩) ~秋草の時~
- 2008/09/02(Tue) -
宮城野萩

宮城野萩、多くの人が思い浮かべるハギ色の姿である。
よく枝垂れて湾曲したその先端は地に達している。
両脇に咲く白萩とのコントラストがまた情趣を添える。
萩は英語でJapanese bush clover、その群がり咲く様をよく描写した表現だ。
Japanese冠するところは、外国においてもやはり日本を代表する花として捉えているのだろう。
少し先になる藤袴をのぞき、庭に秋の七草が顔を見せている。

祭りの後のような淋しい秋…、人恋しくなる秋…、ドングリ拾う小さな秋…、ススキと赤とんぼの秋…
白秋の秋、賢治の秋、魁夷の秋、元宗の秋、光太郎の秋、智恵子の秋…
秋、秋…それぞれの秋。

天上もわが来し方も秋なりき (中村苑子)
 
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リンゴ(王林) ~なぜ今咲く~
- 2008/09/01(Mon) -
りんご王林

リンゴが栽培されるようになったのは明治初期である。
その技術的な第一歩を手がけ、その普及に努めたのは飯田市出身の田中芳男だ。
彼は1866年、西洋リンゴを海棠などを台木として日本で最初にりんごの接木をした。
その後苗木をアメリカから輸入し育て、徐々に栽培果樹として各地へ広げていった。

ところで博物学者であった芳男は、そのほか日本で最初に手がけた仕事を多く残している。
 上野動物園の開設 東京国立博物館の創設 国立国会図書館の創設… 
ソメイヨシノの発見 田中ビワの発見 夏ミカンの発見…その功績は枚挙に遑が無い。
しかし、日本の農林水産、産業振興、学術文化に大きく寄与した彼を知る人はあまり多くはいない。

店では「千秋」が並ぶ。そのほかのリンゴも出荷時期を迎えつつある。
我が家の「王林」はなぜだか今頃花を咲かせている。 

  夢のいろのうす紅や花りんご (及川 貞)
 
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