ゼラニウム ~玄関には桃色のゼラニウム~
- 2008/02/29(Fri) -
ピンクのゼラニウム


信州ではゼラニウムの外での冬越しは無理である。
去年はそれで失敗し、いくつもの花に悲しい思いをさせた。
今はすべての鉢を家の中に取り入れてある。
その分、部屋の空間が狭くなってしまうのは致し方ない。
霜が降りる前に中に入れてあったそれらの花々もだんだんに目覚めはじめた。
玄関で迎えてくれるのは桃色のゼラニウム。
花心は白く、そこからグラデーションとなって外へ向かい色を染めていく。
ありふれた色の花だが、妙に色気を感じさせる。
名前を書き留めておかなかったのは不覚だった。

  ゼラニューム咲かせアビタシオンの窓々 (成瀬桜桃子)

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花月(金のなる木)
- 2008/02/28(Thu) -
花月


薄いピンクの花が溢れるように咲いている。
反り返った5弁の小さな花を咲かせるのは「花月」。
花弁は星形、丸く白い花心から雄しべがにょきにょきと伸びる。
咲きそろう小花が部屋を賑やかな雰囲気にする。

三代目の花月である。過去に二本も枯らしてしまった。
この花の特性を十分把握していなかった自分が悪い。
知っていると知らないでいるとでは何事にもその距離感と関係性に濃淡が生まれるのは当然だ。
人であれ、動物であれ、植物であれ育てるということは生やさしいことではない。

「金のなる木」と誰かが名付けた。縁起のいい名だ。
でも、もし本当に「金のなる木」があるのだとしたら、私はいらない。
働いただけの報酬が得られればそれでいい。

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ゼラニウム ~まるで薔薇のような八重咲きの花~
- 2008/02/27(Wed) -
八重咲きゼラニウム


白い花びらがくるりと巻き込んでいる。
その開きかけた蕾が薔薇のように見えた。
蕾の中をのぞき込むと、可愛らしい花蕊が見える。
少しの膨らみがわずかに感じられるものから、今咲き始めたものまで五つ。
それらはまるで咲く順を決めたかのようにそれぞれに形を違える。
自分の時間をそれぞれの蕾が持つ。

咲く時期を決めるのは自分の感覚。
向きや大きさを決めるのは自分の感性。
すべては自分で決める。
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カワラヒワ ~寄り添うにように並んで~
- 2008/02/26(Tue) -
カワラヒワ


カワラヒワが寄り添うように並んで枝に留まっていた。寒いのだろうか、少し体を丸めていた。
 
カワラヒワとは何の関係もない、早朝のラジオで聞いた話である。
羅列したメモからその文を起こすことにする。
最近の健康志向や健康ブームでは目的と手段の倒錯が感じられる。
本来、健康は健康のためでなく、人生のための健康でなければならない。
大阪フィルの朝比奈隆は死ぬ直前の二ヶ月前の93歳まで指揮を振り続けた。
朝比奈の目的は人生であり、芸術である。だからいつまでも健康でありたいのだと。
彼の健康は、一日でも多く指揮棒を振るための手段である。
「立つことが私の仕事であり、立って指揮が出来なくなったら私は引退する」と彼は常に言っていた。
どうすれば、さらに高い指揮ができるか、高められるか、それを成就するために健康を保つのである。
健康そのものが自己目的化したときに結果的に健康は挫折する。
自分が何をやりたいか、やりたいことを続けるためにに健康を保つ。
豊かな健康とは体と心のバランスなのだ。

健康のための健康でなく、豊かな人生のための健康、よりよく生きるための健康。考えさせられた話である。
朝5時36分頃に始まる「健康ライフ」、私は毎朝この番組を聞いてから勤務に出る。
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マンサク(満作) ~春真っ先に咲く~
- 2008/02/25(Mon) -
マンサク


まるでホタテの貝ひものような花だ。
黄色い花びらが縮れるように伸びる。

その名は、春にいち早く開花することから「まずさく」がなまったということに由来する。
ほかに、花が枝いっぱいに満ちるように咲くので「豊年満作」のマンサクにしたという説もある。
いずれにしてもそれを名付けた、いにしえ人の発想がなかなかいい。
黄色い変則的な花びらに対し、形の整った萼の暗紫色との対照も味がある。

まんさくは煙りのごとし近かよれても (細見綾子)

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ボロニア(Boronia)~白い小さな釣り鐘~
- 2008/02/24(Sun) -
ボロニア


美術博物館で友人の作品を見た帰り、用もないのに園芸店に立ち寄った。
春を先取りした鉢花が彩り豊かに並んでいる。
色も、香りもそこだけはもう春爛漫だ。
見ているだけで楽しい。
知らない花もたくさんある。
そこで名前を覚えたりもする。
目に入ったのがまるでスズランのような小花をたくさん付けた白いボロニア。
「うーん…」と、悪い癖が頭をもたげる。
「うーん…」と、そこらを一回りする。
「うーん…」と、気がついたら手にその鉢を持っていた。

春一番だろうか、外へ出ると旗をちぎらんばかりに風が吹いていた。
ビニール袋が空に舞い上がっていた。
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老子の言葉 ~目に見えないものにこそ~
- 2008/02/23(Sat) -
黄色い花


先週、朝のラジオで聞いた言葉が心に残っている。
老子の教えだという。
「目に見えないものにこそ、目を凝らして見よう」
「耳で聞こえないものにこそ、耳を傾けて聞こう」
「肌でさわれないものにこそ、心研ぎ澄ませて触れよう」
目を凝らして見れば、単に瞼に写る姿以上の色や形が発見でき、奥深いものにも気づくことができる。
耳を傾ければ風の奏でる音楽や虫の小さな会話や、花々の囁きなど、自然の営みの音が聞こえる。
心研ぎ澄ませば、表には出さない人の哀しみ、耐え抜く人の苦しみ、こらえる人の悩みに触れることができる。
なんどもその言葉を反芻しながら、大事にしたい言葉に出会えたと、自分の引き出しに仕舞うことにした。

窓辺で溢れるように咲く春色の花、この花の名はなんというのだろう。

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ジョウビタキ(尉鶲) ~もうそろそろ帰るのだろうか~
- 2008/02/22(Fri) -
ジョウビタキ


庭先からツッピーツッピー、と鳥の鳴き声が聞こえてくる。
長年親しんでいるのでその声の持ち主はすぐわかる。
「ああ、また来たな」と私はその声のする方を見る。
そのオニグルミの枝先に留まっているのはジョウビタキだ。
この鳥は、人の姿をそばに見ても逃げることは少ない。
というより、むしろ人の動きを楽しむかのように人なつっこく近くに寄ってくる。
特徴はオレンジがかった鮮やかできれいな胸とそしてひときわ目立つ翼にある三角の白斑だ。
この翼の紋付きを連想させる白いワンポイントから,別名モンツキドリ(紋付鳥)の名もある。
頭頂部は銀灰色、これが白髪をイメージさせ鶲の名になる。
翼やのど顔は黒く、胸部のオレンジとのコントラストが美しい。
この時期よく口に運んでいるのはムラサキシキブの実だ。
ジョウビタキは数年は同じ場所に飛来するといわれており我が家にも秋になると毎年やって来る。
よくもまあ、この小さな体してシベリヤから日本海を越えてくるものだと感心する。
暖かくなるとまた北の大地へと旅立つ。
二月も下旬、昨日あたりから肌に感じる朝の空気が違う。春の気配だ。
ジョウビタキが帰るのもそろそろかもしれない。

良寛の手鞠の如く鶲(ひたき)来し (川端茅舎)

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黒き猫 (菱田春草作 重文  永青文庫蔵)
- 2008/02/21(Thu) -
黒き猫


黒猫がじっとこちらを見据えている。その視線は強烈で鋭い。様子を伺うかのように耳もピンと立つ。猫特有の柔らかな肢体の表現も見事だ。体全体には微妙な陰影表現が施され、猫の存在を立体的に浮かびあがらせる。これに対し柏の表現は、写実から離れ極めて装飾的な描き方となっている。そこに装飾牲と写実の調和をねらったと思われる、春草の意図的な表現の世界が見られる。
饒舌な色彩を排除し、黒と金と褐色とわずかな緑だけのシンプルな色彩表現はこの絵に一層の静寂感と緊張感を与える。絵のおよそ三分の一の位置に猫が座る縦長の構図にもまた、理知的な春草らしい視覚的計算の必然性を感じさせる。さらに葉や猫に施された金泥と黒の色対照もこの絵の印象を強くする。地に目を向けると、2枚の葉がこの絵の空間表現に大きな役目を果たしていることがわかる。背景が何もないこの絵の中でこの2枚の葉は奥行感、遠近感を出す役割を担う。ここは幹を挟んだこの2枚の葉の位置によってはっきりとした距離感を感じさせる部分である。また枝にある拍の葉の多くが葉表あるいは葉裏を正面に向けた装飾的な表現に対し、これらの葉は唯一写生的な自然な形のままの表現を取っているのも特徴的である。さらにこの2枚の葉を隠してみると、絵の中の画面構成が大きく崩れてしまうことがわかる。
たった5日間で描かれた作品とは思えない絵画のエキスを凝縮したかのような絵である。
春草は前年の「落ち葉」(重文)とは違った方向をこの濃彩による「黒き猫」で自らの表現世界の改革を遂行した。それがさらに翌年の「早春」へと引き継がれていく。しかし、“今光琳”と称された革新的な絵画の世界が築き上げられていく途中で彼は失明と腎臓を患いこの世を去る。画人としての求道はこれから先、果てしなく続いただろうに無念だったろう。
36歳、自らの印章に「駿走」を用いた如く、まさに明治を駆け抜けた絵画界の駿馬であった。
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ハクモクレン(白木蓮の芽)
- 2008/02/20(Wed) -
白木蓮の芽


畑の一番北側に白木蓮の木がある。
その毛羽だったつぼみが、今ふくらみつつある。
それはまるでベルベットのような光沢のある柔らかな質感を持つ。
そっと触れてみたくなる。
朝の日射しを受けると柔毛が一段と金色に輝く。
こうして木々の膨らみを見ると春の訪れの気配が懐に入り込み、心まで温められるようでうれしくなる。

昨日は二十四節気の一つ「雨水」(うすい)、氷雪とけて、水ぬるむ頃を示す。
せせらぎの音さえもぬくもりの香りを重ねたハーモニーを奏でる。
春はそう遠くない。

木蓮のつぼみひかり立ちそろふ (長谷川素逝)

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コハクチョウ ~見えないところの努め~
- 2008/02/19(Tue) -
コハクチョウ1


白鳥が悠然と湖辺に浮かぶ。華麗で美しい。絵になる。
しかし白鳥たちは浮いているのではない。
水面下の白鳥の足を見たことがあるだろうか。
その足は常に水中を掻き続ける。ひと時たりとて休まない。
美しい姿の下ではこのようにたゆまぬ動きがある。
見える姿の裏には見えない確かな姿がある。
見えないところにある努め。そこに大切なものがあるような気がする。

ニュースの映像では犀川のコハクチョウの北帰行が始まったと伝えていた。
いくつかのグループに分かれ3月の中頃までにかけて、だんだんにシベリアへ帰って行くという。
今年の日本での冬越しはどうだっただろうか。安心して過ごすことができただろうか。

白鳥の愛のしぐさの水輪かな  (大井幸子)

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ベゴニア(白いベゴニア)
- 2008/02/18(Mon) -
白ベゴニア

 
たくさんの花を付けるベゴニアを我々は総体で見ることが多い。
しかし一つ一つの花をじっくり見ると、そこには味のある可愛らしさや美しさがある。
この白いベゴニアもレンズを通して見るとまるで蘭のような気品すら漂う。
花もいろいろな角度や視点から見ると、このように素敵な姿やいい表情を発見することができる。

人を見るときも、距離をおいて見たり、近づいて見たりするとまた違ったキャラクターがわかるかもしれない。
平面的な見方でなく、その人の立体的なとらえができるといいと思う。
人の話にしても、そういう聞き方、受け止め方ができるといい。難しいことだが、そうありたい。
 
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ホトケノザ~二人可愛い顔して~
- 2008/02/17(Sun) -
ヒメオドリコソウ


オオイヌノフグリに混じって咲くホトケノザを見つけた。
数はまだ少ない。目を凝らして見なければ見逃してしまいそうだ。

3㎜ほどのほんの小さなこの花、まるで帽子をかぶった人の顔に見える。
「おそろいの蝶ネクタイをしてお出かけですか?」
「ええ、ちょっとひだまりさんのお宅まで」
そんな会話が聞こえてきそうな可愛い顔した花だった。

遠来のもののごとくに仏の座  (鷹羽狩行)
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シクラメン ~うす紅色のシクラメンほど まぶしいものはない~
- 2008/02/16(Sat) -
シクラメン

このシクラメンは昨年11月11日にいただいたもの、それから3ヶ月、まだこのように次々と咲き続けている。
ただ私は水をやるだけだが、こうしてきれいな花が長く咲くことができるのはもとの土がいいのだろう。

その昔、小椋 佳の「シクラメンのかほり」が出たとき、シクラメンには香りなどないとの論争があった。
しかし、ここにあるのにはちゃんと鼻腔を通り抜けるほのかな香りがする。
また、「シクラメンのかほり」は「シクラメンのかおり」の間違いだなどという声もあったのも懐かしい。

うす紅色のシクラメンほど まぶしいものはない
恋する時の君のようです
木もれ陽あびた君を抱けば
淋しささえもおきざりにして
愛がいつのまにか歩き始めました    「シクラメンのかほり」2番   1973年(昭和48年)

シクラメンうたふごとくに並びをり ( 西村和子)

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ベゴニア( Begonia ) ~逆光を受けてまるでビロードのよう~
- 2008/02/15(Fri) -
ベゴニア


陽の当たる窓辺でその光を背にしたベゴニア

陽を反射して透き通り、光沢を持つ花びらはまるでビロードのよう

花言葉は「幸福な日々」

このブログ「ひだまりの花々」を始めてちょうど1年

多くの知己を得、まさに「幸福な日々」を過ごすことができた

拙い文に目をとめていただいたことに感謝である

これからも「ひだまりの庭」へ、皆さんに気持ちよくおいでいただくように心がけよう

「私流儀」の表現スタイルとできる限りのおもてなしで
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ゼラニウム(天竺葵) ~窓越しの西日を浴びて~
- 2008/02/14(Thu) -
ゼラニウム

昨日は朝の冷え込みも一段と厳しく、日中も気温の上がらない寒い一日だった。

窓越しの西日を浴びて、ゼラニウムが咲いている。
品種の名は知らない。ごくありふれたオレンジ色の5弁の花だ。
和名に天竺葵(テンジクアオイ)とある。
天竺の名がつくので原産地はインドかと思ったが、実際は南アフリカだという。
ゼラニウムは花の種類も多いが、葉も多種多様でその色形だけでも楽しめる。
部屋の中でまた一つ二つと咲き出し、彩りを増やしつつある。
ゼラニウムの花言葉は「愛情」「君ありて幸福」

今日はあたかもバレンタインデー、巷間では多くの物語が生まれていることだろう。
開けっぴろげな愛、慎ましい愛、明るい愛、義務的愛、偽善の愛、踊らされる愛…。
しかし、真実の愛は密やかに隠れていることが多い。

寒の夜(よ)に三日月仰ぐバレンタインデー (なみあや)

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ギョリュウバイ (御柳梅 New Zealand tea tree ) 
- 2008/02/13(Wed) -
ぎょりゅうばい


八重咲きのギョリュウバイ、フリルのような花びらを幾重にも持つ小さな美しい花だ。

中をのぞくと、雄しべに囲まれた中の丸いドームから雌しべがにょきっと突き出ている。

原産地ニュージーランドの国花で、"Tea tree"の名がつくのは昔、茶の代わりに飲用したことに由来するという。

今年、初めて我が家に仲間入りした花だ。それ故、まだこの花のことはよくわからない。

うまく育てられるか、長く育てられるか、きれいな花をいつまでも咲かせられるか。

その可憐な顔を見て話しかけながら、温度と水の管理を丁寧に心がけよう。

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シロハラ (pale thrush)
- 2008/02/12(Tue) -
シロハラ


ちょっとおすまし顔で木の枝にいるのはシロハラ。
庭に降りてきて嘴をうまく使っては落ち葉の下のミミズなどをよく漁さっている。
木に残された熟柿などもよく食べに来るが、鵯が来るとその場をすぐ譲る気の優しい鳥だ。
行動もゆっくりとしているので、その生態は観察しやすい。
そして、人なつっこい鳥でもある。
私の姿を見ても驚くことなく、「やあ、おじさんこんにちは」と目で挨拶をしては、また地面をつついたりする。
名が表すように腹部は白っぽく、目がはっきりとしていてあどけなさを感じさせる。
春になるとまた北方のロシア沿海州、中国東北部などの本来の棲息地に戻っていく。
3月まで、しばらくは我が家の庭の散歩を日課としてくれそうである。
今日は雪がまだたくさん残っているので、なかなか下へ降りてこれない。
きっと腹を空かしていることだろう。

枝移りゆく寒禽のあからさま  (千原草之)

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エナガ ~雪かきの後のひとときに~
- 2008/02/11(Mon) -
えなが


 まとまった雪となった。長靴を隠すほどの深さである。朝5時過ぎ、外の電気を点け、懐の携帯ラジオで「季節の野鳥」のカルガモやアヒルの声を聞きながら、雪かきを始める。-7℃、手袋を通してラッセルを押す手が悲鳴を上げる。冷え切った手袋を変えまた雪を押し出す。ようやく終わる頃にはラジオは「音楽の泉」でアシュケナージによるラフマニノフのピアノ曲を流し始めていた。
風呂に入り、息子が入れてくれたコーヒーを飲んで一息入れる。コーヒ-カップを持ってガラスの外を眺めると鳥たちが入れ替わり立ち替わりやって来る。メジロの今日の目的のメインは枇杷の花だ。そのファミリーは相変わらず忙しく、毛に覆われた枇杷の白い集合花を次々と移り動く。ジョウビタキはムラサキシキブの細枝に、シロハラは柿の木、ツグミは桜で佇み、ヒヨドリは南天を啄み、モズはオニグルミの木の上でじっとしている。
エナガが集団でやって来た。留まったのは紅梅、ようやく赤味を帯びた蕾を口に運んでいる。「花が咲かなくなる!」「いいじゃないか。鳥たちも楽しみなんだから」と部屋の中の声。横から見ると均整のとれたスマートなエナガもこうして正面から見ると、肩の赤みや長い黒い「柄」のような尾も隠れ、まるでぬいぐるみの鳥のようにふっくらとしていて、それもまた可愛い。
雪のあがった日は、こうして我が家は鳥たちのピクニックの場所となる。

鵯(ひよどり)のこぼし去りぬる実の赤き  (蕪村)
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浅間映雪 ~白鳥映雪館を訪ねる~
- 2008/02/10(Sun) -
はるかな刻


 小諸市を一望できる小高い丘の上の白鳥映雪館にて、彼の作品を観てきた。
絵はその人の思想を語り、その人の人間性が表れ、その人の理想を絵筆に乗せる。映雪の作品には初期の時代から晩年まで一貫して清潔感に溢れた詩情が漂う。不屈の画家と称されるイメージとはかけ離れた繊細で温かで、そして穏やか世界に包まれている。モデルの表情の豊かさそして描かれるデリケートな線の流れと色彩構成、どれをとっても確かな気品に満ちている。この「はるかな刻」は平成13年、彼89歳の作品であるが、この色彩感覚や構成の美しさは作家の高い芸術性と衰えぬ瑞々しい表現性を感じさせる。
幼少時に両親を失い、自らの生きる道を「絵の世界」に求め、単独上京し困苦を共にしながら画業に励んだ強固な精神性。着実に日本画の粋を修得し、最後は日本芸術院会員にまで自身を高める。
 平成15年に映雪は脳梗塞に倒れる。そこで画家の生命線である右手が使えなくなる。彼はいう「右手がなくても左手がある」と。そうした苦難をを乗り越え、左手で描き始めたのは91歳を越えてからである。病と闘いながら不自由な左手で彩管を握るこの不屈な精神力と気骨、そのビデオに映し出されたドキュメンタリ-の中の彼はあくまでもあくなき美を追い求める一人の画家であった。

苦節を乗り越える人間の強さ、芸術家としての深さ、感動を覚えながら外に出ると雪に覆われた浅間山が真正面に出迎えてくれた。
「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ…」頭の中では自然と藤村の千曲川旅情の歌を諳んじていた。
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メジロ(眼白 繍眼児 Jjapanese white-eye)
- 2008/02/09(Sat) -
雪とメジロ

 
メジロが飛び回る。
椿の枝や金木犀の枝を忙しく移動する。
ピチピチチュッチュッピチピチチュッチュッと声も賑やかだ。
椿はまだ咲いていない。蜜を吸うには早すぎる。
首を上に横に、下にしながら何かをしきりに口に運んでいる。
それが何かは確かめられないが、どうやら彼らの好物がそこにあるようだ。
そんなメジロを見ているとこちらまで楽しくなり、なぜかほっとする。 

英語ではJjapanese white-eye、メジロ(目白)直訳でそれもおもしろい。
ところで以前、沖縄では雀よりメジロのほうが多いのだと本で読んだ記憶があるが、本当だろうか。

見えかくれ居て花こぼす目白かな (富安風生)

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冬来たりなば春遠からじ(今は氷りに包まれていようとも)
- 2008/02/08(Fri) -
氷に包まれた草


涙をこらえて かなしみにたえるとき
ぐちをいわずに くるしみにたえるとき
いいわけをしないで だまって批判にたえるとき
いかりをおさえて じっと屈辱にたえるとき
あなたの目のいろが ふかくなり
いのちの根が ふかくなる   ( いのちの根 相田みつを)

草花は風の歌を聞き、太陽と語りながら、その時々の自らの処し方を常に模索して生きる。

今、いくら寒くとも、「冬来たりなば春遠からじ」である。
冬の後には必ず春がやってくる。
耐えて春に花が咲き、耐えて秋に実を結ぶ。
我々の「生」もまた同じ。
困難に突き当たった際、一つ一つの涙、悲しみ、苦しみ、いかりを自分というかけがいのない木の深いいのちの根としよう

霜あられ烈しくとも生命つよし 春きたりなば果をぞむすばむ (唐沢正作)

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ゼラニウム(満開の細咲きゼラニウム)
- 2008/02/07(Thu) -
細咲きゼラニウム

部屋の中に取り入れたゼラニウムがいくつも咲き始めた。
今年は冬の管理を丁寧にしたこともあって、枯れることもなく順調に生育を続けてくれている。
中でもこの細咲きのゼラニウムはたくさんの花に覆われていて、桜で言えばお花見状態だ。
真冬の部屋の中に明るさと潤いを与えてくれてありがたい。
やはり何事も、手をかけるとかけないでは結果は大きく違うものだと、いく鉢も枯らしてしまった去年の反省から思う。

ちょっとしたずくと手間、ちょっとしたアイディアと工夫、ちょっと前へちょっと上へと、その「ちょっと」が大切。
よりよいものを、よりよいことを、よりよい生き方をと、そんな事をいつも頭の片隅に置いて生活できるといい。

冬の空昨日につゞき今日もあり (波多野爽波)
 
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モズ(鵙・百舌) ~桜の木の枝の百舌~
- 2008/02/06(Wed) -
モズ

雪の日、百舌が桜の木にやってきた。蕾をたくさん付けた彼岸桜の枝の上だ。
雪は鳥たちにとって楽しいお出かけの日なのだろうか、いろいろな鳥が次々にやってくる。
この日代わる代わるやってきたのは、シロハラ、カワラヒワ、キジバト、メジロ、ジョウビタキなどなど。
もちろんのこと、この界隈を取り仕切る首領ヒヨドリは一番賑やかい。
こうして我が家では目の前で鳥たちの会話が聞こえ、遊ぶ姿が楽しめる。
    百舌が枯れ木で鳴いている
    おいらはわらをたたいてる
    わたびき車はおばあさん
    コットン水車も回ってる
ところで、モズを見るとこの哀調を帯びた歌を思い出す。中学時分の音楽の授業で初めて知った歌だと思う。
     モズよ寒いと泣くがいい あんさはもっと寒いだろう
2番3番と聞くにつれ、この歌は悲しい歌だとようやく理解したことを覚えている。
 
 冬の鵙去りてより木は揺れはじむ (加藤楸邨)
 
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紅梅 ~蕾はまだ固く、雪を枝に乗せる~
- 2008/02/05(Tue) -
梅と雪

温かい地方からは梅の便りが映像に乗り、届けられる。
太平洋の風は蕾に開花を促し、いち早く整った美しい5弁の花びらを広げさせているようだ。
きっとその地では梅の香に誘われて、メジロなども楽しげに遊んでいることだろう。

日本人は古来より梅を愛し、梅を飾り、梅を物語の場面に詠んだ。
万葉にはじまり源氏の世界でも「花」というとそれは桜ではなく梅であり、古人にとっての梅は花の代名詞だった。
彼の菅原道真の太宰府飛梅伝説は有名だが、幼いときより学才を発揮した彼には
「月の耀くは晴れたる雪のごとし、梅花は照れる星に似たり」という11歳の時の漢詩もある。(有岡利幸『梅』)

ところで我が家の紅梅は雪に覆われ、堅いつぼみのままだ。
道真の「照れる星」の形になるにはまだ少し時間がかかりそうである。

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立春 ~春は名のみの水は凍りて~
- 2008/02/04(Mon) -
川が凍る

今日は立春、暦の上では春が始まるということになる。
とはいえ、まだまだ厳しい寒さが続くのが実情であり、体で春を実感するのはしばらく先のことだ。

吉丸一昌作詞の「早春賦」は、信州の早春風景を歌ったものといわれている。
そこには「春は名のみの風の寒さや」と詠まれているが、まさに信州の春とは名だけで、包む気は肌を突き刺すように冷たい。
気温の上がらない寒々とした、まさに衣更着(きさらぎ)の日が続く。
庭の一角を流れる井水も所どころで凍っている。自然が作り出す真冬の造形としてそれもまた美しい。厳しい寒さがあるからこそ味わえるこんな光景、ある意味においては「見て感じることができる冬」をありがたいと思う。

話を変えて、私は若い時-20℃を超す日が連続となる土地で勤務していたことがある。それはそれは体験した者でなければわからない世界がそこにはあった。ご飯は必ず冷蔵庫に入れなければならない。なぜなら部屋の中においておくとカチカチに凍ってしまうからである。そこでは冷蔵庫が温蔵庫となる。酒が凍る、コーラが凍る、万年筆は破裂するので使えない。布団の襟が睡眠中の息で凍り、風呂上がりのタオルが棒のように固くなるなど、今では楽しい思い出である。

寝ごころやいづちともなく春は来ぬ (与謝蕪村)
 
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節分 ~雪の朝の木槿~
- 2008/02/03(Sun) -
雪をかぶった木槿

雪の朝である。しんしんとした静かな朝である。どのくらい積もるのだろう。

万葉の歌人、大伴家持は正月に降る雪を見て
 “新(あらた)しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)”と歌っている。
「今年も今降り積もる雪のように、良いことがたくさんあることを祈りたい」という意だろう。
中谷宇吉郎は「雪は天から送られた手紙である」と一片の雪を科学的な思考でとらえる。
雪一つ取ってみても、それをどう見るか、どう感じるか、何を考えるかは人それぞれだ。
雪国の人にとってはそれはまた違った重さと感慨があるのかもしれない。
しかし、私は無条件に雪そのものが好きである。雪に包まれた景色が好きである。
天を仰いで落ちてくる雪を口の中に入れたくなる。柔らかい雪の上に素足で足跡を付けたくなる。

 今夜は「鬼は外、福は内」と訪れる邪鬼をはらい、幸いを招き入れようとする子ども達の楽しい声が各所から聞こえてくることだろう
子どもと一緒に投げ撒き散らかした豆を数えながら拾ったことなど、懐かしい。

節分や灰をならしてしづごころ  (久保田万太郎)

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椿 (白椿の蕾二つ)
- 2008/02/02(Sat) -
椿蕾2輪

黒澤明の「椿三十郎」が、織田裕二でリメイクされ公開されている。その作品を見てはいないが、私にとっては 椿三十郎は三船敏郎であり、 室戸半兵衛は仲代達矢である。上役の不正に立ち向かう若者に助太刀する三十郎が意味とメッセージを込めて「赤い椿と白い椿」を切り落とし水に流す。そして張り詰めた空気と音のない時間が流れる、仲代との息をのむ壮絶な一騎打ちの場面。小さい頃見た映画であるが、今でもストーリーとそれぞれのシーンが脳裏によみがえる。少年時代はよく映画を見た。そして、心に残る作品が多い。

 至る所から椿の便りが舞い込む。しかし我が家の椿はまだ固い蕾のままだ。

白椿うすみどり帯び湿らへる (大野林火)

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冬木立 (高村光太郎「冬の詩」)
- 2008/02/01(Fri) -
冬木立

諏訪湖の「御神(おみ)渡り」が30日に確認されたという。張り詰めた湖面の氷がひび割れ、両方からせり上がって湖の端から端まで繋がる。言い伝えによると、この伸びる氷の道は諏訪大社上社の男神が対岸の下社の女神に会いに通う「恋路」だいう。
ロマンチックな伝説とともに、諏訪地方の冬がいかに厳しいかを物語る現象でもある。

冬木立は小枝を天に広げる。じっと見ていると、それは凛として堂々としている。背中丸めて右往左往する人間を、なんてちっぽけだと見下ろしているかのようだ。高村光太郎の「冬の詩」を思い出す。冬と自然と真正面から対峙する力強い詩である。

冬だ、冬だ、何処もかも冬だ/冬よ、冬よ/踊れ、叫べ、僕の手を握れ/大きな公孫樹の木を丸坊主にした冬/きらきらと星の頭を削りだした冬/ (略)
貧血な神経衰弱の青年や/鼠賊《そぞく》のやうな小悪に知慧を絞る中年者《もの》や/温気《うんき》にはびこる蘇苔《こけ》のやうな雑輩や/おいぼれ共や/懦弱《だじゃく》で見栄坊な令嬢たちや/甘つたるい恋人や/陰険な奥様や/皆ひとちぢみにちぢみあがらして/素手で大道を歩いて来た冬/(略)
時のきびしさを衆人に迫る/冬よ、冬よ/躍れ、さけべ、足をそろえろ/(略)
自然を忘れるな、自然をたのめ/自然に根ざした孤独はとりもなほさず万人に通ずる道だ/孤独を恐れるな、万人に、わからせようとするな、第二義に生きるな/根のない感激に耽《ふけ》る事を止めよ/素より衆人の口を無視しろ/比較を好む評判記をわらへ/(略)
ああ、そして人間を感じろ/愛に生きよ、愛に育て/冬の峻烈の愛を思へ、裸の愛を見よ/(略)
冬だ、冬だ、何処もかも冬だ/見渡すかぎり冬だ/その中を僕はゆく/たった一人で――

144行続く長い詩である。
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