セグロセキレイ(Japanese wagtail) ~冷たい川の背黒鶺鴒~
- 2007/11/30(Fri) -
コピー ~ 背黒セキレイ

我が家の庭のその先は川だ。四つ五つと歩を進めればもうせせらぎが目に入る。そこからそれぞれの季節の川音が一年を通して耳に入る。夏は涼やかな風を運び、冬は氷の芸術を見せてくれる。

そんな川にいろいろな鳥も来て、目を楽しませてくれる。セグロセキレイもよく来る鳥の一つだ。
姿形はハクセキレイと極めて似ている。しかし、ハクセキレイは額と顔が白く、黒い過眼線があるのに対し、セグロセキレイは顔が黒く、白い額と白色のよく目だつ眉斑があるので区別が付く。何より違うのは英名にJapanese wagtailとあるようにセグロセキレイは日本特産種(固有種)であるとういうこと、つまりは日本以外では見られない鳥だ。

セキレイの仲間は尾を上下に振る特徴があるが、これもそれに違わず、見ていると石の上を跳ね渡ったり、水に入ったりしながら尾を盛んに振っている。別名、石たたき・庭たたきと言われるゆえんである。さらに古くは日本書紀にイザナギの神、イザナミの神に「みとのまぐひ」(婚姻・交合)の道を鶺鴒が尾を振って教えとあり、そこから嫁鳥(とつぎどり)、嫁教え鳥の名も生まれたいう。
水は冷たい。それでも彼にとっては水生昆虫などがいるそこが好みの場所なのだろう。

 鶺鴒の尾を振りきそふ早瀬哉 (尾崎紅葉)

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シダレモミジ ~照葉(てりは)となりて~
- 2007/11/29(Thu) -
チシオモミジ

陽を受けてシダレモミジが照葉となる。ぎざぎざに切り込みの入った細身の葉は他のモミジとはひと味違う姿を見せる。いくつかの枝は下に向かって緩やかな曲線を描き、風が吹くと地を掃く。もうすぐすると、それも幹を取り囲むように地上の模様となることだろう。


かざす手のうら透き通るもみじかな  (大江 丸)
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ウメモドキ ~梅に似て非なるもの~
- 2007/11/28(Wed) -
梅擬き

とっくにすべての葉を落としたその枝先にある丸い赤熟の実はウメモドキ、植えてからもう20年も経つ。
同時に植えたそばにあるカスミ桜は家の高さをすでに超え10㍍にもなろうとしているのに、これはいまだ3㍍ほどしかない。

この実が淋しさを感じさせないのは、晩秋こそ自分の季節とばかりに、今その色鮮やかな存在を輝かせているからだろう。

 桜とウメモドキは形の対比、大きさの対比と併せ、一年を通して日本画の世界、詩の世界、歌の世界などの趣と味わいを私に届けてくれる。それはまた、 華やかな美と、ひっそりとした美の対比でもあり、「ひとりひとりみんなちがっていい」というみすゞの「個の存在」を静かに語り諭しているかのようでもある。

 それぞれにそれぞれが光る季節がある。

鵯(ひよ)の声去りてもゆらぐ梅もどき (水原秋桜子)
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老人の首 ~小品展より~
- 2007/11/27(Tue) -
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グループの小品展は9日間の会期で11月18日に終了した。日展をはじめ各種公募団体に出品している、地元作家72人の展覧会である。私は主催者であったので、会場確保から出品者への連絡、看板表示、搬入案内、目録作成まで一人でこなし、気遣いの連続だった。それも392人の参観者を得て無事終了した。その役は来年まで続くことになりそうだ。仕事を持っている身としては負担でもあるが、しかし誰かがやらなくてはならない。この会のためにもう一踏ん張りすることにしよう。

 これはその小品展に出品した「老人の首」である。久しぶりの石膏直彫りによる制作で、細部は別としてほとんどの造型を出刃包丁1本でする。年を重ねた老人のその年輪と人生を語る内なる声をうまく表現したかった。このところ、木彫ばかりの表現が続いたので、また違う追求の仕方ができて楽しい時間となった。 

3月までにもう一点仕上げれば、今年度の私の制作は終了する。
そして年度が替わって5月にはまた62回目を迎える公募展が待っている。
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柚子(ゆず) ~柚餅子作り~
- 2007/11/26(Mon) -
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 -香り満開ゆべし作り-の見出しで天龍村坂部の柚餅子作りを写真とともに新聞が伝える。「柚餅子」は室町時代からの武士の携帯食で柚子をくり抜いた中に味噌や胡桃を入れる。数ヶ月すると何にも喩えようがない独特の風味に仕上がる。山深いこの地だけの昔から続く伝統の保存食だ。酒のつまみなどには最高である。しかし、今ではこれも高級品となって、なかなか手に入らない。以前勤務の関係でこの地を訪れたことがある。その時味わった柚餅子は今も舌の中に残っている。熊谷貞直が開郷した落ち人の隠れ里、そして神楽の里に残る室町の味だ。
 
家の柚子も色づき始めた。「ゆべし」作りの技を知らぬ私は、調理の香り付けか、柚子風呂として楽しむ。

かたくなに山の温泉を守り柚餅子干す ( 中川化生)
 
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銀杏(ginkgo) ~葉を集めて~
- 2007/11/25(Sun) -
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隣り合わせた家と畑の境に銀杏の木がある。今は葉をすっかり落として、白茶の色肌した幹から、真っ直ぐに伸びた枝が空に向かって広がる。その裸木を見ると、無駄なく構築された形は、自然の造型としてまた美しい物がある。光太郎が惹かれ、詩に詠んだ理由が分かる気がする。

イチョウの名はそれが中国から日本に入ってきた時、中国名の鴨脚樹(ヤーチアオシユー)をヤーチャオと聞き,さらにイーチャオ、そしてイチョウとなったといわれる。確かに一枚一枚の葉を見ると鴨の脚の形に似ており、なるほどだと思う。併せて、英名のginkgoは、日本からヨーロッパに紹介された折、「銀杏」の音読み(ginkyo) の y を g と誤記したことによるものだとあるから、これもまた楽しい。

そんな銀杏の葉を集めて焼き芋をした。芋は今年収穫した「鳴戸金時」だ。3時間ほど燃やしておきができたところでイモを入れる。2時間ほどして取り出すと香ばしい焼き芋となる。うまくできた。丁度昼時だ。帰省していた息子は「まるで栗を柔らかくしたようだ。この中の透明になった飴色が何とも言えんね」「焼き芋屋のイモとは全然違う。高級和菓子のようだ。これ、東京に持って行けば高く売れるよ」とワイワイがやがや我が家の休日の昼は賑やかな時間が流れる。

銀杏黄葉昨日のことは忘れたい 武井梅仙

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ピラカンサ(fire thorn=Pyracantha)
- 2007/11/24(Sat) -
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この時期、木の実が少なくなり鳥たちにとってエサ探しは苦労に違いない。その点このピラカンサは、今実をたわわに付け、彼らにとっては米倉にも見える有り難い植物といえよう。ヒヨドリが嬉しそうにうるさいほどの大きな声を上げて口に運ぶ。花言葉は「慈悲」、晩春に花開いた白色の小さな5弁花がこうして色鮮やかな橙黄色の丸い実に変わり、食糧が乏しくなった晩秋にあって、鳥たちにはまさに慈恵を与える木といえる。

その名のピラカンサはギリシャ語、Pyraは炎でcanthaは棘、同様に英名でもfire thorn。このように棘のあるバラ科の常緑木で、一つ剪り取れば、冬の部屋に彩りとなる重宝な植物だ。

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もみじ葉ゼラニウム
- 2007/11/23(Fri) -
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ずっと戸外に置いてあったいくつものゼラニウムを中に入れることにした。このもみじ葉ゼラニウムもその一つだ。
こうして家の一室は3月頃までは寒さに弱い花々によって占められ、ミニ植物園状態になる。しかしそうやっても部屋の中が氷点下にもなる1月や2月の強い冷え込みで寒さにやられるのをいくつか出してしまい、花々には申し訳ないと反省する。今年は管理を丁寧に心がけよう。

この花はその名の通り、葉にモミジのような切れ込みがあり、薄緑で縁取られた中心部の葉色は紅葉したかのように赤い。
鮮やかな橙赤色の花びらは、下方に切れ込みのあるのが3枚と上の方にそれより小さな細めの花びらが不均衡に付く。そのアンバランスさがまた魅力でもある。

今年の秋は短かった。ここ数日、11月としては例年にない寒気が押し寄せ、朝は氷点下の気温となっている。あの9月まで続いていた猛暑からそう経っていないというのに。

初冬のこころに保つ色や何  (原コウ子)

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スイート・アリッサム (庭なずな)
- 2007/11/22(Thu) -


栃の大きな葉が落ちるところにあるのはスイートアリッサム、見た目はか弱いこの花だが、性質は実に強い。信州の寒風がこの白い小さな花の上を通り過ぎても、何ら関することなく静かに咲く。

毎年のように可愛い雪色した顔を見せてくれるこの花の種まきをしたのは何年前のことだったか。それ以来、春に咲き、夏に咲き、木枯らし吹く晩秋まで咲いてくれる嬉しい花だ。

足が冷える。いよいよストーブを出した。冬将軍ももうじきやってくる。香雪球の名もあるというスイートアリッサム、今年はその白い色が庭にあるのはいつまでだろう。

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バラ ~冬薔薇(ふゆそうび)~
- 2007/11/21(Wed) -
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霜降りても、その身を整え芳しき香を漂わせる薔薇の花、周りのものたちが一つ一つと冬色に染まりゆく中にあって、その姿はけなげでもあり哀れにも思う。木枯らしに身を震わせて、木々が葉衣を脱ぎ捨ててもなお、その色は艶を醸す。耳を澄ませば、今そこからは音なき音、声なき声が聞こえてくる。うすべにいろの、ふゆそうび。

この花びらを傘にして、雨蛙が佇んでいたのはいつのことだっただろう。


淋しさは愉しさに似て冬薔薇 (中村芳子) よき言葉聴きし如くに冬薔薇 (後藤夜半)


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南天(赤熟の実) ~春草の「早春」~
- 2007/11/20(Tue) -
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     実南天紅葉もして真紅なり  (鈴木花蓑)
 
私が南天を庭に植えたのには理由がある。あわせて八つ手も植えてある。でも、多くの人にはその意味を簡単には理解できないかもしれない。

金地にヒヨドリが中央に二羽舞う六曲一双の作品、菱田春草の「早春」(明治44年)は彼の絶筆である。36歳にして世を去ったこの若き郷土の画家が、最後に光琳の境地で描いた作品である。12枚の屏風に描かれているモチーフはたった四つ。右端に南天、左端に八つ手、そして広くあいたその真ん中にヒヨドリが二羽空にある。幾何学的合理性を持つかのような隙のない空間の美がそこにある。眼疾に苦しみ、腎臓疾患を抱え、自らの死を予感しながら描かれた彼最後の画である。

初めて春草を知った20代後半から今日まで、彼の生き様に感銘を受け、一つ一つの言葉を深く心に刻み、何かあるごとに彼の画集を開いてきた。時には、彼が失明の危機に瀕し苦しんでいた茨城の五浦を訪ね、居を初めて構えた代々木の旧宅跡を訪ね、故郷天竜川の石で作られた墓石のある中野の大信寺を訪ねた。

春草を師岡倉天心は「不熟の人」と呼ぶ。彼の絵に対する炎のような情熱と絹糸のような感性、そして怜悧なまでの厳しい制作態度は「不熟の人」以外に形容する言葉はない。

 私は制作者として、春草の心を自分の世界に持ち続けようと南天と八つ手を植えた。気がつけば南天はその数を増やし、今では庭の至る所に10の数を超えている。今日もまたヒヨドリがやってきた。

南天の実太し鳥の嘴に (高浜虚子)
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干し柿 ~柿すだれ~
- 2007/11/19(Mon) -
干し柿

昨日は風の強い日だった。木枯らし1号が吹いたという。シンビジウム、デンドロビウム、ハイビスカス、サンゴ油桐、君子蘭などなど、外に出してある鉢花を中に入れた。シャコバサボテンはもう蕾を膨らませている。冬に向かって、花鑑賞も部屋の中が多くなってくる。部屋全体を暖かく模様替えする時期が来た。

 多く実がなった渋柿を、今年は干し柿にするまでに手が回らないのではと思っていたが、なんとかそれも間に合ったようだ。柿の皮むきはこの地域では昔から家族揃っての夜の仕事である。今では機械などを使って剥くが、それでもこの作業は大変である。私の家では包丁を使ってすべて手で剥いていく。一つ一つ廻しながら皮を剥いた後、専用のヒモに取り付けて並べる。へた先の残った枝の部分に巻き付けくるっと反転させる。それで落ちない。簡単なことだがこれも先人達の考えた技なのだと感心する。

天候にさえ恵まれれば、暮れには白い粉がふいた甘い干し柿になっていることだろう。


 干柿の金殿玉楼といふべけれ (山口青邨) 干し柿を吊る焔の簾さながらに (雨宮一路)

 
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ハナノキ(花の木) ~はらりはらり、1枚2枚と落ちてゆく~
- 2007/11/18(Sun) -
ハナノキ

ややオレンジがかったハナノキの紅葉もきれいだ。晩秋の陽射しを受けたハナノキを裏から撮ってみた。一枚一枚の葉が少し控えめに色を染める。多くのカエデ科と少し違うのは、葉が幅広く、切れ込みは3つで浅いのが特徴だ。自生するものは20㍍を超す高さにまで成長するが、我が家のはまだ4㍍ほどである。

昨日の朝は氷点下となり、ここ一番で寒かった。霜が降りて家々の屋根は真っ白だった。寒さに弱い植物は一気にその葉の色を茶褐色に変えて命を失っていた。
落葉の木は少しの風で葉が枝から別れを告げる。先ほど掃いた庭にまた上から次々と落ちてくる。一休みしながら、箒を持つ私の頭の上にも届くそんな葉を眺めて楽しむ。

ハナノキもはらりはらり、1枚2枚と落ちてゆく。残ったのはわずかである。それもたぶん今日ですべてが落ちるだろう。
懐かしい文部省歌を思い出し、頭の中で口ずさみながら、また箒を動かした。

  「夕空晴れて 秋風吹く …  … 思えば遠し 故郷の空 ああわが父母 いかにおわす」
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イソギク(磯菊) ~かわいい小花がぎっしりと~
- 2007/11/17(Sat) -
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イソギクはその名の通り、もともとは海岸近くで咲く花だ。房総から伊豆にかけての海岸の崖などが自生地だという。
太平洋の潮騒を聞きつつ、肥沃でない乾燥した崖地で生きたのだからきっと強い花にちがいない。

それは他のキク科に見られるようなきれいに伸びた舌状花はなく、1㌢にも満たない黄色い小さな管状花だけが散房状に群がって咲く。海岸端の潮風を受ける厳しい地では、舌状花はその構造からして退化したのだろうか。葉の縁は銀白色に縁取られ、裏は白い毛で覆われて、それもまた美しい。

毎年株が大きくなり、横へも増えて広がって、この寒い土地でも何年も元気でいてくれる嬉しい花だ。黄色は昆虫を惹き付ける色だとどこかで聞いたような気がするが、この花にもよく小さな虫や蜂などが散歩に訪れる。

   今日の誕生日の花「イソギク」(磯菊)、花言葉は「感謝」。

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ヤツデ(八つ手) ~天狗の羽団扇~
- 2007/11/16(Fri) -
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小さな花が集まって白い玉のようになっているのは八つ手である。

天狗の羽団扇とも呼ばれる青々とした葉の上で咲くこの球状の花を見ると、どこか海の中の、たとえばイソギンチャクやサンゴの仲間のようにも見える。白く伸びた柱頭などはまるでそれらの触角のようだ。その上にごく小さなハエトリグモなどが座るなどすれば、それは珊瑚礁を泳ぐクマノミとの関係のようにも見えてくる。この寒い時期、ほのぼのと心和ませるものを感じさせる花である。


さかんなる八ッ手の花のうすみどり 星野立子

日のぬくみ消しゆく風や花八つ手 徳永夏川女

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カリン(花梨) ~黄色い花梨の実が…~
- 2007/11/15(Thu) -
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我が家には北側と東側に花梨(カリン)の木が2本あるが、おもしろいことに実のなり方が1年ごと交互に違う。今年は東側の方のなりがいい。春に咲くあの小さな淡紅色の可憐な花が、黄色く色を変えてこんなに大きな実になるのだから不思議に思う。今年もたくさんなっていて嬉しい。

その果皮は滑らかで、熟してくると油成分のようなものが表出し、極めて強い芳香を放つ。手にするととその甘い香りがしばらくは手についたまま離れない。収穫するまでもなく、自然に落ちてくるのを拾っては家の中に入れ、玄関などに置く。その香りは部屋に広がってしばらくの間いい気分にいられる。見た目には美味しそうな色と形をしたこのカリン、実はとても硬く生食できないのが難点だ。咳止めや喉にいい成分を有するので、近くの温泉などでは加工して砂糖漬や果実酒にし土産物として販売している。私は車に入れたり、時々風呂に入れて花梨風呂として楽しんだりする。

ここ長野では諏訪湖の花梨並木が有名だが、それはこの花梨でなくマルメロである。見た目は形大きさとも全ど一緒だが、マルメロの果皮には細かい毛があるので近寄ればその違いは簡単に見分けが付く。

週末には林檎に添えて故郷に送り、母にもこの香りを楽しんでもらうことにしよう。

手離してなほ掌に残りかりんの香  (麻生孝雄)

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ユリオプスデージー ~銀緑色の葉も美しく~
- 2007/11/14(Wed) -
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このユリオプスデージーは、これから先、年を越して4月頃まで咲き続ける花期の長い花である。周りに彩りが少なくなり淋しくなってきた庭を、その澄んだ黄色い色で暖かく演出してくれる。これはマーガレットに似た一重咲きの花で、株はかなり大きくなり背丈も結構高く伸びる。「シルバーリーフ」と呼ばれるやや白銀を帯びた淡い緑色の葉も美しく、黄色の花とのコントラストがまた互いを引き立てる。寒い冬のあまり花のない時期に次々に咲く貴重な花でありがたい。丸い形の蕾はすでにすっと伸びた花茎の先で いくつも出番を待っている。
 
花言葉は「円満な関係」、それは冬という厳しい季節に自らを調和させるかのように咲くこの花の性質に由来するものだろうか。時折、ハチが来てはこの花の上をのんびりと飛び交う。ハチとも円満な関係を築いているようだ。

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ニシキギ ~寄り添うかのように赤い実が二つ~
- 2007/11/13(Tue) -
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錦木の紅葉はとても美しい。目にも色鮮やかな紅色である。このように揃ってきれいに紅葉するところから、この木には美しいものをたとえていう錦を冠する名がついたようである。また、錦木紅葉(にしきぎもみじ)ということばもあるように、古くから多くの人の目を惹き付け賞美され、句を詠む人にも季題として取り上げられてきた。

この晩秋に赤い実がぶら下がってつく。見ると二つはまるで寄り添うかのようである。熟すと縦に割れてつややかな種が出る。
この後葉はすべて落ちて、またあの羽を張り出したようなおもしろい形をしたコルク質の枝をさらけだす。


  錦木の実もくれなゐに染るとは ( 後藤夜半 )

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冬桜 ~晩秋にけなげに咲く八重の花~
- 2007/11/12(Mon) -
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白みを帯びた八重の桜が咲いた。といってもこれはいわゆる春咲きの普通の桜とは違う。多くの木々が身震いをし始めるこの季節はずれに花が咲き、また4月にも再度花が咲くという変わりものの大阪冬桜である。毎年、葉が落ちる頃にぽつぽつと咲き出し、順次1月頃まで咲く。秋深まる花の少ないこの時期に、というより冬に向かってまっしぐらの寒いこの時期に咲くけなげな花である。

 一般的にサクラは純血、処女の象徴とされ、花言葉は”教養“と”精神美”である。加えてこの冬桜には、”けなげ“あるいは”偲ぶ“、”忍耐“という花言葉はどうだろう。

山の陽を呼び寄せてゐる冬桜 (杉浦虹波)
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枇杷(Japanese medlar) ~蜂が蜜を求めて~
- 2007/11/11(Sun) -
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1㌢ほどの小さな花が密集する白い枇杷の花が咲き出した。芳香を持つその花の中へ蜂が体を突っ込んで蜜を吸う。次々にやってきては吸い、吸っては別の花へとはしごする。彼らにとってはこの花はどうやらいい味をしているらしい。これから年を越え2月頃まで咲き続ける。そして、夏になると橙黄色に熟した甘い果実をつけて、私の口へと運ばれる結果となる。今年はあまり多くは穫れなかったが、来年を期待しよう。

このビワは田中、茂木と並び称される2大品種の一つだ。明治の初期に田中芳男が長崎から種子を東京の本郷の自宅にもち帰って播種、それを育成栽培し普及させたものである。芳男はこの南信州飯田市出身で「日本博物館の父」と呼ばれる。上野動物園の開設や東京国立博物館の開設などは彼の手によるものだが、あまり知られていない。今我々が食べている西洋りんごも彼が接木したものがもとになり、その栽培がはじまっている。彼は果実としての我が国の「りんご」の生みの親でもあるのだ。市の中心にある「りんご並木」の先に彼の顕彰碑があるが、地元の人でもその存在と田中の業績を知る人は少ない。


  忘れゐし花よ真白き枇杷五弁 (橋本多佳子)
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サンシュユ (赤い山茱萸の実)
- 2007/11/10(Sat) -
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「自動ドアもその前に立たなければ開かない」 昨日のラジオで聞いた難病と闘う人の重く深い言葉だ。

その言葉を反芻しながら考えた。
 自分が自分で体を前に出さずしては何事も起きない。自分で歩を進めることなくして直面した状況を変えることはできない。自分をステップアップさせるには自分がアクションを起こすことなのである。何もしなければ失敗はない代わりに成功を得ることもできない。自分でエネルギーを燃やさずして誰が燃やしてくれよう。何もしない後悔より動いた結果の後悔の方がいいと。

今日から1週間の会期で小品展が始まる。夜明け前に制作を続けてきてようやく完成(?)を見た。納得いかない部分もあるが、もう一人の自分に了解を得てそこは妥協する。今年は「老人の首」の出品だ。作っていると父の顔が浮かんできた。もうだいぶ父の声を聞いていない。

 楕円形した赤いサンシュユの実がたくさんついている。この鮮やかな紅色から秋珊瑚とも呼ばれる。漢方では強壮剤とされるこの漿果、口にしてみるがお世辞にもうまいとは言えない。毎年、そのまま落下させるだけだが、何かうまい利用法はないものだろうか。
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薔薇 (ファンタジー)
- 2007/11/09(Fri) -
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薔薇を漢字ですらすらと書ける人はそう多くはない。何度見ても覚えにくい難しい字の構成である。芳香を放ち姿の美しいこの花が我が国に渡来した時、それを初めて見た人々はなぜ「薔」「薇」という文字をあてたのだろうとふと考えたりする。

薔は水辺に生えるたでの一種の「みずたで」、薇は山野に自生する「ぜんまい」、その二つから薔薇を連想するには無理がある。それがどうしてこの花と結び付くのだろうと不思議に思う。薔には「バ」の音はなく、薇にも「ラ」の音もない。名付けた人にはきっとそうすべき必然的な深い思いがあったのだろうが、それで「ばら」と読ませることは簡単には理解しにくい。

この薔薇はファンタジーという名が付く。なるほど、表が赤く裏が白い特殊な花びらのこの花、たしかに幻想的でありえない「白日夢」のような物語を発想させたとしても肯うこともできる。他の花にはない独特な趣があって私の好きな薔薇の一つである。


薔薇の香か今行きし人の香か   (星野立子)    針ありて蝶に知らせん花薔薇 (乙 由)


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ヒマワリ(晩秋に淋しげに咲く)~Vincent van Goghへ~
- 2007/11/08(Thu) -
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「向日葵がすきで狂ひて死にし画家」(高浜虚子)

虚子がこの歌に詠んだその画家はゴッホだろう。きっとそうだと思う。「向日葵」が好きで「狂い死にした画家」は彼以外の誰が考えられるだろうか。女性にもてないうだつの上がらない男、美術商のあとは語学教師、続いて伝道師に、しかし教会からは解雇と、何度もの失恋と失職の末にたどり着いたのが画家だったが、それもまた絵は一枚も売れない。生活は弟テオの援助に頼るという貧困。

そして〈耳切り事件〉という悲劇的な結末をみたゴーギャンとの共同生活の破綻。《ひまわり》は彼の精神が荒々しくとげとげしく動く丁度その時期に多く描かれたモチーフだ。狂気の画家、炎の画家と呼ばれる激しい気性のゴッホ、最後は《一面の黄色い麦畑の上に黒い不吉な烏》を描き,ピストル自殺をとげる。生きているうちは不遇な生活であったが、死後彼の評価は世界中で高まる。最近では「ひまわり」をはじめ、日本でも何十億という価格で彼の作品がいくつも購入されている。

ヒマワリを「黄金日車(こがねひぐるま)」と造語したのは与謝野晶子だが、ゴッホに「黄金」は生涯無縁であった。

今日は立冬だというのに、庭では淋しげに向日葵が咲いている。「お疲れさん。もう君も休みな」とゴッホが愛した花に声かける。

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菊 (黄色い菊の花)
- 2007/11/07(Wed) -
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この菊、たしかヨーロッパ産の菊だったような気がするが、その名が出てこない。調べてみるがなかなか答えにたどり着けない。そのうちいつかきっと分かるだろうとその作業を放棄する。

ついでに「菊」にどのくらいの異称があるか、古来からの呼び名にはどんなものがあるかなどを手近な本で見ることにした。「大般若、、承知の花、隠君子、草の主」など、おもしろい名がたくさんある。また、「秋しくの花、いなで草、 契(ちぎり)草、かたみ草」など、情緒的な味わい深い言葉もある。「少女草、弟草、花の弟、翁草、 女花、齢草」などは老若男女すべてを網羅していてこれも楽しい。ほかにも「かわら蓬、金草、黄金草、千代見草、残り草、初見草、星見草、鞠花、百夜草、山路草」という名も見つけることができた。いつ頃からこのような名が定着したかは分からないが、天地人の様々な視点から名付けられているということは、やはり「菊」が我が国において多くの人々に古くから愛されたからに他ならないのだろう。

でもやはりこの花には「菊」の名が一番ふさわしい。


さながらに河原蓬は木となりぬ 中村草田男

黄菊しらぎくその外の名はなくもがな 嵐雪

たそがれてなまめく菊のけはひかな 宮沢賢治

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サザンカ~淡い紅色の山茶花が咲き出して~
- 2007/11/06(Tue) -
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淡い紅色の山茶花がぼつぼつと咲き出した。これから冬にかけて寒さに肌身をさらけ出しながらも咲き続ける貴重な花だ。枯れ葉が舞い落ちるひんやりとした空気に包まれる中、そのさびた風姿は控えめである。絵心、歌心のある人にとって、それは写生の良いモチーフとなり、演歌の世界では艶やかで秘めた物語を演出する花となる。

近くでは生け垣にしてある家を見ることもあるが、もともとは本州西端から沖縄などの暖地に自生する植物で、様々な改良を加えられ、ここ信州や東北などの寒冷地でも栽培が可能になったようだ。材は堅く,楽器や折尺、建築、器具、彫刻などに用いられ、良質の木炭にもなるという。折尺といってもそれをすぐ思い浮かべられる人はもう多くはいないかもしれない。というより、今では巻き上げ式の便利なスケールに取って代わられ、その姿を消しつつある。私の中学校の技術室には曲尺と並んで必須のアイテムだった記憶がある。授業でそれを使って長さを測り、自分用の背もたれ椅子を作ったことも思い出され、懐かしい

一重あり、八重ありの我が家のサザンカは、これからセピア色になっていく景色の中で季節の風に身を置きながら、静かに赤や白い色を目に届けてくれることになる。

山茶花の長き盛りのはじまりぬ   (富安風生)
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イチョウ(公孫樹)~落ち葉掃き~
- 2007/11/05(Mon) -
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朝から落ち葉掃きに2時間も費やした。栃、柿、花梨、桜、花水木、杏、百日紅、小楢そして鬼胡桃とこの一週間で落葉樹はだいぶ葉を落とした。それは黄色、赤の鮮やかな彩りから淋しげな茶褐色までの秋色に身を変えて地面に様々な模様を描く。庭のぐるりと畑の周りを一通り掃き終わった頃には、桜はまた新たに地のキャンバスに、まるで落ちる場所を相談するかのように広がって絵を描いていた。見上げるとまだ半分近くが残っており、しばらくは、この仕事が続きそうである。「葉っぱのフレディ」「最後の一葉」「春草の『落葉』」それぞれにいろいろな物語がある…私は落ち葉掃きは好きである。生老病死、人生ではないが、秋は人を感傷的にさせる。箒を持つ私のすぐそばにジョウビタキがやってきて「よく働いたね」と声を掛けてくれる。

公孫樹は全体がきれいな黄色い姿のままだ。これも来週になれば自分の足下を一面黄色の絨毯に変えていくことだろう。


 枝に残る銀杏は知らね落葉掻 (中村汀女)  掃き了へて落葉をとむる箒かな  (飯田蛇笏)

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ホームズ彗星を観る ~帽子掛け用になってしまった私の作品~
- 2007/11/04(Sun) -
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文化の日、日展を観に出かける。新宿で息子と待ち合わせ六本木の国立新美術館に向かう。先日亡くなった黒川紀章の設計によるスケールの大きな美術館だ。日展を息子と見るのはもう何年もの恒例となっている。そして鑑賞後昼食を摂りながら芸術談義に花を咲かせる。今年は高山辰雄、高橋節郎など遺作に目を惹くものが多い。白鳥映雪の作品も印象に残る。道に徹した人の作品はやはり人の心に深く刻まれる。近づいた小品展への仕上げに向かって制作へのエネルギーをもらい帰途につく。

 朝3時、外に出て夜空を眺めた。月は半月に欠けるやや細身、まだ東の空にある。カシオペアを探す。目的はここ数日で急激に大きさと明るさを増して話題になっているホームズ彗星。通常よりも大量のガスや塵が吹き出して、それがアウトバースト現象を起こし40万倍もの明るさになったのだという。肉眼でも見えるというが、倍率の低い双眼鏡を持って外に出た。カシオペアの3番目と4番目の延長線上にあるというので探す。やや黄色く見えるあれがきっとそうだろう。その周辺を見ても他にそれらしきものは見あたらないので、自分の中でたぶんそれだろうと納得する。その時、一筋の流れ星がスーッと横切る。流れ星を見るのは何歳になっても嬉しい。真夜中に一人だけプレゼントをもらったような少し得した気分だ。部屋に入る。双眼鏡を手にしていた手は冷えている。

流れ星悲しと言ひし女かな (高浜虚子) 星流る疑ふこともなく生きて(山口青邨)

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ハイビスカス(ハワイアンイエロー・仏桑華 rose of China)
- 2007/11/03(Sat) -
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11月霜月、木々が葉を一枚二枚、一枚と落とし、枝や幹を裸にしていく。昨日掃いた庭にまた天狗の団扇のような栃の葉が音を立てて落ちてくる。澄んだ夜の空気は大地から地表の熱を奪う。金沢では雪つりが始まったという。冬が足音を立てて近づいてくる。

玄関先ではまだハイビスカスが咲いている。幾分花は小さくなったとはいうものの、蕾はいくつもついており、しばらくは冷涼とした晩秋の風を受けながらも咲き続けそうだ。これはハワイアンイエローという名のハイビスカス、異国情緒の鮮やかな黄色が目を惹く。

手持ちの本によると、ハイビスカスは東南アジアでは靴みがきにも利用したりするとあり、shoe flowerとも呼ばれるという。そういえば少年の頃に近くの仏桑華をとっては手のひらでつぶして何かに塗って遊んだ記憶がある。花をすぽんと花柄から取り口に含んで甘い水を吸う、そんなことも懐かしい。芙蓉の仲間だというこの花に「琉球木槿(むくげ)」の異名があることも知った。

人は暖かな衣が欲しくなる季節、南国育ちのこの花に信州の冬はつらい。そろそろ、中に入れることにしよう。


   いつまでも咲く仏桑花いつも散り  小熊一人

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菊(綾衣) ~今年のできは~
- 2007/11/02(Fri) -
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職場の同僚から松茸をいただいた。おそらく大型店で販売されるとしたら数千円にもなろうかと思われるほど傘の大きさ、茎の太さそして長さにおいて立派なものである。早速松茸汁として味わった。その感想を言葉にするにはあまりにも意味のない話だ。やめよう。豊作だという今年、彼は32本も穫ったという。今夏の猛暑は松茸にとって過ごしやすい寝床となったようだ。

さまざまな菊の話題もチラホラと届くようになった。近くには菊人形で有名な寺もある。きっとテーマは「風林火山」だろう。
ところで我が家の菊の今年のできはなんと評価しよう。20株ほど並んで植わっている菊は、一つの株にどれも数えらきれないほどの花がびっしりと咲いている。そういう点ではしっかり育って花丸を付けたいところだが、しかし、すべてにおいて背丈が高く伸び過ぎているのが悲しい。ほとんどの株がが1㍍をゆうに超す。昨年までは30~40センチの高さで揃って咲いていた菊たちだ。花は長く伸びた先端にあるため、鑑賞するにはいい目線をなかなか作れない。それが残念である。全体の姿と形はそういう点からして花と茎がアンバランスである。原因は分かっている。過肥によるものだ。「過ぎたるは及ばざるがごとし」そのままである。何事もそうだがやはり適当にほどほどがいい。

まあ、それはそれでよしとしよう。花はそこにある。また来年育てるうえでデータとして引き出しにしまっておこう。


松茸や知らぬ木の葉のへばりつく  (松尾芭蕉)     今日はまた今日のこゝろに菊暮るゝ  (松尾いはほ)

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都忘れ(ミヤコワスレ・ノシュンギク)
- 2007/11/01(Thu) -
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都忘れという哀愁漂うロマンチックな名を持つこの花、書をひもとくと、山地に自生するミヤマヨメナ(深山嫁菜)が園芸品として観賞用に改良栽培されたもので「野春菊」が本来の名とある。その名のイメージを損なうことのない控えめな薄紫色の可憐な花が、今赤く色づいたウメモドキの下で風にゆらゆら揺れて咲いている。通常は春から初夏にかけて咲く花だが、この秋の佇まいにもよく似合う。もともと野の花だったというだけに、その整った形の中にもどこか垢抜けぬ素朴さ、慎ましさがある。私がこの花と出会ったのはもう15年ほど前になる。それ以来、私の好きな花の一つとなり、こうして語り合う庭の友となった。

この花が咲くのを見ると、室生犀星の「小景異情」の詩と重ねて、私自身の遠き故郷を思い出してしまう。もうだいぶ帰っていないその空と景色は変わったことだろう。

末息子からの柿が届いたことに、年老いた母は「何か欲しいものはないか」と電話の向こうで尋ねる。


都忘れふるさと忘れてより久し   志摩芳次郎

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