カンナ(Canna)~黄色いカンナがまた咲いて~
- 2007/10/31(Wed) -
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夏の暑い盛りの時期に咲いていたカンナがまた咲き出した。毎年、一度しか咲かなかったのでこうして二度も花を見ることができるのは嬉しいことだが、しかしなんか変な気分でもある。ノーサイドになって決着を見たのに、再試合を見せられるようなそんな感じがする。カンナも何か思うことがあって、体の中の組織に呼びかけ働きかけているのかもしれない。

茎の先端に咲く唇のような花弁は実は雄しべの変形したもので、実際の花弁は目立たなくてあるのだということを知る。よく見るとたしかにその中心に少し伸びた形が見える。きっとそれが本来の花びらなのだろう。その黄色い唇形花に、点描のタッチで置いたようなオレンジの斑点が花姿に深みを添える。横ではもう一つのピンクのカンナも咲いている。上からは堆朱のような柿の葉と、合歓木の大きな複葉が落ちてくる。
今日で十月も終わり、また一つ季節が進む。


女の唇十も集めてカンナの花  山口青邨

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ジョウビタキ(冬の使者・尉鶲)~雌がまず来て~
- 2007/10/30(Tue) -
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昨日は日曜日に勤務したその振り替えで休みだった。土日と畑や庭の仕事ができなかったので、土や草花にふれて働けるのが嬉しい。夏野菜の残骸や、胡瓜の棚などを片付けた。茄子やオクラはまだしっかり実を付け、これから先も料理に使えそうな顔をしていて有り難い。その後冬野菜用に石灰を撒き、畝を3つ作った。ちょっと遅いがホウレンソウとこれからの鍋にいい水菜と春菊を蒔こうと思っている。レーキで畝の幅や高さを整え汗が少し出てきた頃に、頭上で「ツッツッツッ」と聞き慣れた声がする。思わず見上げた。ジョウビタキがそこにいるではないか。

レーキの柄の先に両手をついて休み、暫く眺めた。すると、いつも側まで寄ってきて楽しく跳ねてくれる彼とは若干と違うことに気づく。目を凝らして見るとあの特徴的な白い三角紋は確かめられるものの、体の色がややくすんでいること、そして若干体躯が大きいことがわかる。そう彼は彼ではなく彼女、雌鳥だった。ということはあの黒い紋付き姿の雄はどこかにいるのだろうか。
それにしても相変わらず人なつっこい鳥だ。私の作業する近くまでやってきてトマトの枝に乗ったり、表面をフラットにしたばかりの畝の上で遊んでいる。そしてまるで私の存在など気にならないかのように、棗の枝先に留まったかと思うと、今度はツルムラサキの下で地面を突っつく。その動きを見ているだけで楽しくなり、時間を忘れる。それにしてもとても嬉しい。いつもやってくる11月が直前、そろそろ来てくれる頃だとその到来を心待ちにしていたからだ。

彼らが春と冬を共に過ごした我が家から北の異国の大地へ帰って行ったのは今年の4月4日だった。それから半年過ぎの再会だ。さあ、しっかりムラサキシキブをお食べ。土の中の虫たちをどうぞごゆっくり腹の中へお運び。そして、春の別れまでまた私の通勤時間を見送っておくれ。

          渡り来て鶲一羽となりしかな 島崎秀風
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バラ(モーツアルトMozart)
- 2007/10/29(Mon) -


花の色や形というよりも、モーツアルトという名そのものに惹かれて数年前に手に入れて植えた花である。その後毎年のように鮮やかなピンクの花をたくさんつける四季咲き一重の薔薇だ。モーツァルトの生誕250周年記念にドイツで生まれたのだという。
八重や、大輪の薔薇のような豪華さはなく、色も極めてシンプルで野バラの趣すら漂わせる。

神童として注目され,若くして巨匠となり,わずか35歳で夭逝した天才モーツアルト、映画【アマデウス】でその波乱に満ちた人生は私たちの持つ彼のイメージを一変させた。シェーンブルン宮殿での女帝マリア・テレジアの前での御前演奏をはじめとし、世界各国の貴族や王の前での華々しい演奏旅行、しかし音楽家としての頂点を極めた彼の最後は借金だらけの貧困のどん底。 見知らぬ男から注文を受けたという最後の《レクイエム》だったが、健康を害したモーツァルトは病床につき,その《レクイエム》は未完のままで世を去る。共同墓地に一つの作業として淡々と淋しく埋葬されるシーンが哀れである。

そういえば私が初めて彼の交響曲第40番《ジュピター》 を聞いたのは22歳の時だったことを思い出す。演奏会用のスコアの表紙絵を書いた折りのことだった。

軽やかで風と戯れ遊ぶこの花は、何事にも縛られることなくフリーで気ままに生きた奔放なモーツアルトの名にふさわしいのかもしれない。
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肩で眠る月(船越桂)~姪の結婚式~
- 2007/10/28(Sun) -


雨の名古屋へ姪の結婚式に出かけた。大学で面識はあったものの、会話するほどの間でもなく、そのまま卒業して今年まで16年間それぞれ仙台、諏訪と離れて過ごしていたようである。それが、様々な経緯を経て偶然と必然の赤い糸をたぐり寄せてみると、その先を握っていたのが二人だったという、まるでテレビドラマの物語のような結びつきである。 式と披露宴は愛知県芸術センター10階の「華」、愛知県美術館と同じフロアーにある。容貌スタイルすべてにおいてモデルにしたいほどの長身の素敵な二人である。シンプルで、心の温まる爽やかな結婚式であった。新居は岐阜になるという。

 式の予定時刻よりだいぶ早めに着いたので、美術館へ行き収蔵品展を観ることにした。クリムトやゴッホ、マチスなどを経て、広い空間に船越桂の2点の作品だけが展示されている第6室に入る。照明を落とし、作品に弱いスポットが当たるようにして立体感を浮きだたせ、人物の表情に視線を集めるように展示してある。 

「肩で眠る月」は両肩に中世風の家が乗り、正面の顔のその左側にもう一つ小さな顔が付いている。顔は男性のようでもあり、女性のようでもあり、服装も合わせて無国籍的な人物である。大理石を玉眼として嵌め込んだ目は遙か遠くを見つめ、何かを回想しているようにも見える。鑑賞者は目の前の作品を見ながら実は自分の心を見ているような思いとなり、時間を超えて人間の内面性を見る者に深く考えさせる。この作品は1997年の第18回平櫛田中賞受賞作品である。

素敵な結婚式と、久々の船越の作品に触れ満たされた思いで帰路につくと、中央道は事故のため閉鎖され国道から妻籠宿、清内路峠を越えての長い道のりとなった。それもまた、忘れがたい思い出となることだろう。
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飛鳥の春の額田王
- 2007/10/27(Sat) -


君待つと我が恋ひをれば我がやどの簾動かし秋の風吹く  額田王 (万葉集巻八 1606)

安田靫彦が描く「飛鳥の春の額田王」である。今開催されている初期日本美術院を中心とした「絵画の中の物語展」の中の第2室、再興院展の部屋にある。

大化の改新を終え治世の安定を迎えたその頃、飛鳥の宮を望む見晴らしの上に立つ額田王。時の人、中大兄皇子(天智天皇)と子どもまでもうけた大海人皇子(天武天皇)との兄弟の愛の中で心を振り子のように揺り動かされ、その相克に悩む。
大和三山が背後に見える。それを安田が描いたのは、男山である香具山が女山の畝傍をいとしく思い,もうひとつの男山である耳成と争ったとという大和三山伝説になぞらえたものだろう。

後に額田王は中大兄皇子が主催した場に同席したかつての夫に「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る」と詠い、大海人皇子はかつての妻に「紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我れ恋ひめやも」と詠み返す。

王は薄絹を肩に纏って右手にもち、背を通して左手で支える。中大兄皇子と大海人皇子で揺れる悩む思いをそこに暗示しているようにも見える。美貌と才女故に、政治の中枢にいる権力者達の間に生まれた愛の葛藤、それを安田は王の表情に見事に表現している。日本の歴史画における名品の一つといえよう。

この作品は、中学か高校の時の国語の教科書の扉に載っていた懐かしい作品でもある。
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ツルムラサキ(蔓紫)Indian Spinach
- 2007/10/26(Fri) -


ツルムラサキが好きでもう何年も作り続けている。肉厚の葉のぬるっとした独特の食感は、おひたしにしてもいいし、炒め物にしてもいい。味噌汁はもちろんいうまでもない。
栽培が簡単で料理にあまり手間がかからないというだけで作っているが、実際には栄養価がとても高く、胃の粘膜を保護するムチンや血液循環をよくして老化を防いだり、活性酸素を除く働きをする様々なビタミン類、ミネラル、カロテン、鉄分などの栄養素が豊富に含まれているという。舌触りがホウレンソウに似ていることに手伝って、これら体にいい豊かな栄養分があることで、英名でもIndian Spinach(ホウレンソウ)とあるのは頷ける。

原産地とされる東南アジアでは、大昔から食用として栽培され、沖縄でも古くから自生していたという。性質そのものはきわめて強健で、蔓がどんどん伸び、次々と増えて私が建てた2㍍ほどの棚を覆い尽くす。また、こぼれ種から毎年芽が出てくるのも嬉しい。それより何より長期にわたって、収穫できるのがいい。
花弁のない丸い花は赤みを帯びてひとかたまりとなり、そして艶々した黒紫の実へと変化していく。この黒い実も食べられるのだろうか。天ぷらにするといけそうな気がするが、まだ試したことはない。酒のつまみになるようなうまい加工法があればなおいい。

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野菊(ユウガギク・柚香菊)
- 2007/10/25(Thu) -


家の周りには野菊がたくさん咲いている。どれも愛らしい小さな花だが、よく見ると花弁の大きさや色合い、葉形の微妙な違いなどから我が家には3種類ほどあることが分かる。これは葉の切れ込み具合からするとユウガギクだろうか。しかし、ノコンギク、カントウヨメナ、ユウガギク…なかなかその区別を明確にすることは素人の私には難しい。いっそ「野菊」の方が文学的情緒的味わいがあっていいのかも知れない。

野菊というと伊藤左千夫の「野菊の墓」を思い出す。といっても原作ではない。中学の時、学校の映画鑑賞会で観た「野菊のごとく君なりき」の思い出である。

いとこ同士の政夫と民子に仄かな恋心が芽生える。初めて二人きりになれたとき、「民さんは野菊のような人だ。僕は野菊が大好き……」と政夫は民子を“野菊”に喩え、民子は政夫を“リンドウ”に喩える。淡い恋を隠喩的な表現で心の内を伝え合う。今ではこんな奥ゆかしい恋物語などないだろう。携帯で、メールでダイレクトに自分の思いを相手に送る時代である。
しかし、そんな二人の仲は周囲の大人達によって引き裂かれる。結末は、心ならず町の資産家に嫁ぎ、悲しみに打ち拉がれ病に倒た民子の死。その彼女の胸には、しっかりと、リンドウと政夫の手紙が抱きしめられている
その純愛に涙を流した、遠い少年の日の記憶である。

野菊には悲哀の物語を生みだす何かがあるのだろうか。昨日は霜降、目を移せば遠くの峰々も雪化粧をし始めた。秋もいよいよ深まりゆく。

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ルドベキアタカオ(cone flower)
- 2007/10/24(Wed) -


夏からずっと咲き続けてきた小さなヒマワリのよう花のルドベキアタカオも少しずつ花勢が衰えてきた。周りの黄色い花びらに、暗褐色した中心部が半球形状にもこっと盛り上がっているのが特徴の花だ。この花は手がかからず、またあまり生育場所を選ばないようである。私の家ではモミジや桑の木の下など、少し日当たりの悪い場所に6株ほどあるが、それでもここまで元気な顔を見せてくれた。国道沿いなどでも植えられているのをよく見るのでやはり丈夫な花なのだろう。来年は株分けしてもっと賑やかにしよう。

昨日は十三夜、冴え渡る夜空にくっきりと、そしてふっくらとした女性らしい優しい月が浮かんでいた。

このままで別るるは惜し十三夜 中村芳子

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王昭君(菱田春草「王昭君」と日本美術院の歴史画)~絵画の中の物語展~
- 2007/10/23(Tue) -


菱田春草の「王昭君」(重要文化財)を観てきた。明治35年、春草28歳の時の作品である。王昭君は中国の四大美女の一人にあげられる。この絵が描くのは、訳あって漢の王元帝の後宮を後にし、王昭君が匈奴の王単于(ぜんう)のもとへ向かう別離の場面である。説話の詳細は省くが、悲嘆にくれながら異国へ送られる王昭君と様々な思いを胸に彼女を見送る宮女達との心理描写が見事である。特に送り出す宮女たちを見れば、王昭君に寄せる複雑な感情が一人一人の口元に、目に、そして顔のすべてに細かに表現されている。
 
 これまでの朦朧体の欠点を克服しようと試みたこの作品が発表された時、相も変わらず春草への批評は手厳しいものであった。明らかに画面は明るくなり没線主彩の技術的な効果は濁りのない形で表れている。だが保守的な批評家達は人物描写や無線描法を酷評する。しかし果たしてどの作家が人間の感傷をここまで深く思いを込めて一枚の絵の中に描き表すことができるだろうか。

春草は時の画壇からは常に非難を浴び続けた。生活も苦しかった。それでも彼は決して周囲に迎合することをせず、自らの芸術観を曲げることはなかった。享年三十六歳、彼が自らの印章に用いた「駿走」のごとく、まさに全力で明治画界を駆け抜けた不熟の人である。その生き方に私は深い感銘を受ける。

 また久しぶりにいい作品を鑑賞することができた。美術館の外は彼の季節、「落葉」(重文)の秋である。

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柿(富有柿)~青空の中での収穫~
- 2007/10/22(Mon) -


柿を収穫した。自分で植えた木からその稔りを頂けるのは有り難いことである。
柿の木は裂けやすい。足の置き場は慎重にその場を選ぶ必要がある。だいぶ前になるが親戚がやはり柿穫りをしていて枝が裂き折れて落ち、肋骨骨折で入院ということがあった。
びくを腰に巻いて一つずつ鋏で剪る。いっぱいになったら降りてコンテナに空けてはまた登る。それを何度も繰り返す。
玉は少し小さめではあるがコンテナ3箱分の収穫となった。いつもより多めの収穫である。

この富有柿は植えてからほとんど手をかけていない。春先に混み合った枝を剪って日当たりよくするくらいだ。それでもこうして毎年沢山の甘い実を付けてくれる。感謝の意を込めて、今年も木守りとして10個ほど残す。

ここは「市田柿」のブランドで有名な干し柿の産地だ。しばらくすると農家の軒先に柿すだれが登場する。これもまた、南信州の秋の風情であり、日本の美しい風景の一つといえよう。庭にも渋柿が2本あり、これもたくさん実を付けているが、今年は干し柿作りに手が回りそうもない。そんな私の心を見透かしたのか、早速ヒヨドリが来ては嬉しそうな声を上げて突っついている。特に熟柿は彼らにとっては大好物だ。

コンテナを家の中に運び入れ形や玉の大きさを確かめながら、少し枝葉の付いたのを添えて、遠くの母や姉たちに送る。故郷は柿のない町である。
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ヤクシソウ(薬師草)
- 2007/10/21(Sun) -


今年4月、奈良を訪れた折に拝顔した薬師寺の薬師三尊(薬師如来と月光菩薩、日光菩薩)は、御顔や体躯に白鳳時代独特の豊満さ膨よかさを湛え、参拝の善男善女を平穏な心に導く。人々の病をいやし,苦悩から救うとされるお姿はいかにも優しい。前に見たのはもう20年以上も前のことだから、極めて久しぶりである。

 この小さな黄色い花はその「薬師」の名を抱く。茎葉が薬師如来の光背に似ることに由来するという。いつの頃からか、我が家の庭先に姿を現すようになって、萩の下に隠れるようにひっそりと咲いている。

野の花には概して可愛い花が多い。

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秋桜(コスモスCosmos)
- 2007/10/20(Sat) -


  コスモスの花あそびをる虚空かな 高浜虚子

 コスモスに蝶や蜂が来て遊ぶ。代わる代わるやって来ては、楽しそうに花を乗り移って楽しむ。ほかにも小さな虫たちが次々とやってきて、どうやらそこは昆虫にとってとても居心地のいい宇宙(コスモス)のようだ。
白、ピンク、紅色した花が風に揺れる様は、この季節の旬の彩りを演出し、庭や野のキャンバスに優しい絵を描く。

もともとはメキシコ生まれの花で、日本に渡来したのも幕末の頃、日本人の目になじんでまだ150年位しかたっていない比較的新しい花だという。初めて目にした人々は、秋に溢れるように群生して咲く様子を日本の花の象徴であるサクラに見たてて秋桜の名をつけたのだろう。
横に広がる花びらは、数えるとどれも8枚ある。

コスモスは我が胸の辺の故に揺る 加藤井秋を

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藤袴(シロバナフジバカマ)
- 2007/10/19(Fri) -


-『冬の使者』安曇野に- こんな見出しで、一羽の白鳥が水面で遊ぶ姿が新聞を飾る。
犀川の白鳥湖には毎年2000羽を超すコハクチョウが飛来する。群れなす白鳥が一斉に飛び立ったり、湖面で楽しそうに泳ぐその姿は、見る者に時間を忘れさせる。のどかであり何とも言えぬ平和な時間がそこに流れる。河原で彼らと同じ時間と空間を共有すると心が穏やかになり癒される。
スポーツ面には、うなだれ、魂を抜かれたような少年ボクサーの会見が載る。 極めて対照的だ。
新聞を読み終わった後、庭をぐるりと歩く。ひっそりとした風情のある姿で白い藤袴が咲いている。一般的によく目にするフジバカマは淡い赤紫色をしている。『万葉集』で山上憶良が詠んだ秋の七草にあるフジバカマだ。どうやら我が家のは新しく持ち込まれた外国産の園芸種らしい。色は違うが、花の中には同じように細く伸びた髭のようのものが見える。丸みを帯びた蕾が姿を現してから、この髭が一つ二つと伸びるまでに時間がかかる。全部が咲き開くと一層、万葉人が愛した優しさをそこに漂わせる。

鈴虫や蟋蟀など、心地よい音を奏でた秋虫たちの演奏もそろそろ最終楽章に入りつつあるようだ。季節はまた新たな装いに着替えつつある。

あさっての花もすみたり藤袴 晉



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ハマギク(浜菊)
- 2007/10/18(Thu) -


浜菊はその名が示すとおり、本来は太平洋側の海岸端、特に岩場などの潮風を受ける乾燥した地を棲息の地とする野生の花のようだが、それが栽培品種化され、現在では海に近い地域のみならず、この信州の内陸においてもその姿を見つけることができる。私が園芸店で買い求め庭に植えたのは数年前だが、これはかなり頑強でほとんど手がかからず、一株の中におびただしい数の真っ白な花を咲かせる。

また、ちょうど緑の色が少なくなるこの時期、艶々とした濃い緑葉が横に大きく広がる様は、秋色に染まる庭にあって目立つ存在である。

茎は木質化して堅くなり、放っておくと枯れた低木のようになるので、花が咲き終わったら毎年地際に近いところで切り戻している。花が次から次と咲き続け、長く楽しませてくれるありがたい花である。

吾(あ)と同じ 海山超えて 見つけたり 終(つい)の棲家の 白きハマギク 文
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白木蓮~木の実の便り~
- 2007/10/17(Wed) -


秋は花の後の実りも楽しみだ。我が家の富有柿も今たわわである。今度の休日には収穫し、母の元へ送ろう。

庭へ出て自然の息づかいに耳を傾け、目をこらしながらそぞろに歩を進めると、それまで気づかなかったいろいろなものに出会うことがある。この白木蓮の実もそうだ。両手の手のひらを開いたようにして外皮を裂き、その真ん中に鮮やかなオレンジ色した実がその木に一つだけついている。春を謳うあの白い大きな花にこのような小さな実がなることを初めて知った。身近な草木の中にもいろいろな発見がある。

 昨日の朝のラジオで「今年は動物たちはきっと喜んでいると思いますよ。とにかく木の実が今年は豊作なんです」と、白神山地からの便りが届いていた。昨年は全国的に木の実のなりが少なかったため、熊などが里に下りてきては民家を荒らし、人に危害を与えたというニュースが映像で流れたのは記憶に新しい。そのレポートによると、今年はブナをはじめ、どの種類の木々も実をたくさん付け、山に棲む動物たちにとっては有り難い秋になりそうだとのことだ。熊たちも今年は安心して冬を迎えることだろう。
ハクモクレンのつぼみは,頭痛,鼻炎等の漢方薬として利用されるという。はたしてこの実は食することができるのだろうか。鳥や小動物が食べてくれるのなら嬉しい。

秋風に木蓮の朱一つ葉隠れて
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キンモクセイ(金木犀)
- 2007/10/16(Tue) -


手をふれて金木犀の夜の匂ひ 中村汀女

このところ秋も深まりを増し、朝夕の空気は肌をひんやりと感じさせ、朝露に草も重くなる。

キンモクセイ(金木犀)の甘い香りが庭を包むようになった。すっかり暗くなった駐車場に着き、鞄を持って車のドアを開ける私を2本の金木犀が迎えてくれる。

『古今集』の歌人は梅の花について「色こそ見えね 香やはかくるる(闇夜のた め花の色は見えないが、匂いの方は隠れもない)」と詠った。
キンモクセイの花も、例えば夜、姿は見えなくてもその香りに誘われるように鼻を近づけ、手で触ってみたくなったりするほど、それはそこに木犀花が咲いていることを教えてくれる。そして、脳の隅々まで届くような、その甘い匂いの金木犀には人を日常から解き放ち、無防備にさせ、垣根を取り払いすべての心を許す優しさに包みこむような、不思議な魅力がある気がする。

 胸の奥 たしかめにくる 木犀花 伊藤敬子

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緑陰問答(蝉)
- 2007/10/15(Mon) -


公募展の会期が終了し、作品を搬出してきた。
 
私の制作のほとんどの場合、構想を立てると、デッサンなしに一気に直彫りしていく。チエーンソウでほぼ8割方粗彫りを済ませ、後はアトリエの中に入れて、鑿で仕上げる。ただ、彫り進めるうちに、途中構想が変わることがある。というより、このところ、大体においてそうなる。今回は、初めの構想では作品の前には”本“が開かれていた。しかし、人物と体の部分が進み、全体のイメージが掴めはじめたところで、”本“は胸に留まる“蝉“に換わった。

額から汗を流す私の周りでしきりに鳴く蝉、そしてラジオからはアメリカの17年蝉の話題が届く。夕刻には蜩が哀調帯びた声を響かせる。
何年もの間、土の中でじっと命を育み、そして必死の思いで脱皮してこの世の光を目にして声を出した時、彼に残されたその時間は後1週間。庭では今朝生まれたばかりの蝉の穴がいくつもある。空蝉が木々に残る。もののあわれや人生観をふと考える。こうして”本“は“蝉“に換わった。 材質は欅と檜、台座は杉。

 秋の小品展への出品が近づく。コンセプトはできている。しかし、また仕上がった時には描いたプランと違うものになっているのかもしれない。

今しがた 此世に出でし 蝉の鳴く (小林一茶)
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赤い薔薇(宴?) ~矢沢永吉と薔薇~
- 2007/10/14(Sun) -


赤い薔薇が咲いている。この花には「宴」という名が付いていたような気がする。とても香りがいい。キャプションの整理が完全にできていないため、正確に名を確定できないものがいくつもある。いずれにしても、赤、オレンジ、黄色、ピンク、白等々薔薇はまだまだ賑やかにその存在感を示している。

「『永ちゃん記念切手に』郵便会社オリジナル第1弾」という新聞の見出しが目に付いた。例のごとく、口を曲げてマイクを握った矢沢永吉の写真が10枚載っている。これがすべて切手だという。いろいろな意味を含めて、「格好いい」という言葉が本当に似合う男人はそう多くはないが、その少ない一人が矢沢だ。

折しも、矢沢の特集が週刊朝日に掲載されていた。彼の言葉がまたいい。「ドキドキってのは、まず自分が動いてみないと生まれないじゃない?動いたら良いも悪いもその結果でまた、『えっ、じゃ次はこうしよう』ってパワーが生まれてくると思う。仕事でも家庭でも自分を取り巻いているものをビルドアップする努力をしている人なのか、まったくしない人なのかで差が出るだろうし、できれば、取り巻いているものは自分でちょっとずつでも上げたいよね」
どのような世界であれ、何事においても一流という域に立つ人の言葉には深いものがある。私も矢沢の言うように、自分の日常において「ビルドアップする努力」を怠らないようにしたい。

こんな矢沢のステージに似合う花はやはり赤い薔薇ではないだろうか。この「宴」を一本、口にくわえて歌う姿などはまさに「格好いい」と思う。
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ゼフィランサス(玉すだれ/カンディタ)
- 2007/10/13(Sat) -


あまり花が生育するには適していない北側の日当たりの悪い場所で、けなげにも顔を覗かせているのはゼフィランサス、花茎が伸びてその頂に白く咲く姿は水仙にも似る。花の形はクロッカスのようでもあるし、サフランにも見えるが、実はあのヒガンバナ科の仲間で、やはり有毒成分のリコリンを塊茎に含むという。2週間ほど前から1輪2輪と交代しながら咲いてくれ、目を楽しませてくれている。

ゼフィランサスの上を覆うように広がっている栃の木は、その大きな葉が枝から身を解き放ち、バサッ、バサッと音をたてて地面に接地する。その落ちる様子を見ると「葉っぱのフレディ」の一節を思い出した。

『ダニエルが答えました。「まだ経験したことがないことはこわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化しつづけているんだ。変化しないものはひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。きみは春が夏になるときこわかったかい? 緑から紅葉するときこわくなかったろう? ぼくたちも変化しつづけているんだ。死ぬというのも変わることの一つなのだよ。」
 その日の夕暮れ金色の光の中をダニエルは枝をはなれていきました。「さようなら フレディ。」ダニエルは満足そうなほほえみを浮かべゆっくり静かにいなくなりました。』


見上げると、杉の木のてっぺんでモズが高鳴きをしていた。
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ハイビスカス(クリスタルピンク)~ハイビスカスは秋の花~
- 2007/10/12(Fri) -


NHKの「趣味の園芸」を見ていると、ハイビスカスが一番いい形で咲くのはこの季節、秋だと専門家のコメントがあった。つまりハイビスカスは秋の花だという。ハイビスカスというと、そこから連想されるのは南国のハワイであり、沖縄であったりして、夏の花というイメージが強い。はたしてそうなのだろうかという思いと、いやきっとそうなのだろうという思いが複雑に絡み合いながら放送を見ていた。暑い太陽の日射しをいっぱいに浴びて咲く夏の象徴的な花、それがハイビスカスだと認識していたがどうやら必ずしもそうではなさそうなのである。物事を固定観念で見ていると、それを覆すような場面が突如表れた場合、理解と納得するにかなり時間がかかる。

多少の戸惑いを感じるものの、我が家でも今たしかに赤やピンクのハイビスカスが咲いている。葉はまだ青々として元気だ。
しかし、秋風は涼しさを増し、朝霧がたちこめ、露も草葉に着くようになってきた。新聞には西駒千畳敷カールの紅葉が色鮮やかに映し出されて、山も粧う時期であることを知らせている。私はいつものように11月前には中に入れることにしよう。

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ひおうぎ(檜扇) ~ぬばたま~
- 2007/10/11(Thu) -



   我が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢に見えつつ寐ねらえずけれ
            (万葉集 巻第四0639  娘子のまた報へ贈れる歌一首)

 大学で万葉集の講義を取ったとき、その導入本として岩波新書の斎藤茂吉著「万葉秀歌 上・下」を求め、繰り返し繰り返し何度も読んだ。最終的にレポートとして認めたのは有馬皇子の「磐代の浜松が枝を引き結び…」「家にあれば苛に盛る飯を…」の二首についてであった。そして読み深めるうちにそのほかにも中臣朝臣宅守など、いくつもの心打ち、心惹かれる歌に出会った。今でもそのなかの何首かは諳んじることができる。
「万葉秀歌」を通して多くの言葉の意味に思考を深め、日本語の美しさや、古人の豊かな感性に触れることができ、私の学びの中で印象に残る講義の一つだ。ぬばたまが夜の枕詞であること、つまり檜扇の黒い玉が夜の暗闇を連想させたことから生まれた枕詞であることを実感として理解することができたのもこの講義を通してである。遠い過去の青春の一こまとして蘇る。

今年のあの暑い夏に、オレンジ色した美しい斑入りの花を咲かせた檜扇は、今まさに”ぬばたま“にその姿を変えている。艶々とした真っ黒い玉でありながら、ほのかな魅惑を覚えさせるものがある。額田王や狭野茅上郎女など、万葉の人々はこのような植物の小さな玉の色を借りてそれぞれの思いを歌に詠んだのだと思うと、ロマンを共有できるようで嬉しくなる。


  あかねさす日は照らせどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも (万葉集 巻第二0169 柿本人麿)

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フェルメール展 《アムステルダムの孤児院の少女》
- 2007/10/10(Wed) -


 先般観覧してきた『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』は、出展された作品の充実した内容から、久しぶりに見応えのある展覧会だった。「牛乳を注ぐ女」以外にも、外光を効果的に取り入れた人物や室内の陰影表現と、質感を的確に表した写実的描写力はもちろんだが、さりげない日常の一場面をモチーフにしながら、実は深いシンボリックなテーマを内在させているそれぞれの作家の豊かな感性に惹かれるものがある。『表現する』ということにおけるコンセプトの大切さを多くの絵から示唆された気がする。

中でも、ニコラース・ファン・デル・ヴァーイの《アムステルダムの孤児院の少女》は無条件に私をその絵の前に立ち止まらせた。きっと一つのデューティを済ませただろう、自分だけの許されたわずかな時間に、窓から差し込む逆光の中で本を読む少女が浮かび上がる。周りを忘れたかのように活字に耽る、その薄幸の少女のけなげさが伝わってきて心を打つ。
モデルの内面性にまで入り込んで描いたヴァーイの作品に私は深く感銘を受けた。この絵が世の多くの人々の目に取り上げられることなく、知られていなかったことが不思議にすら思う。傑作である。名画といえよう。

その余韻に浸り絵について、作品について語らいながらの帰り道、新宿西口の京王に寄って息子が萩焼の湯飲みを買ってくれた。それから毎朝それでお茶を飲む。白萩釉の景色も良くその器の形にマッチし、そしてなにより手になじんで使いやすい。いい器だ。
一昨日、夕食時にそれを落として割った。10日しか使えなかった。形あるものはいつかは必ず壊れる。わかってはいるが残念だ。
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リンゴ ~王林の花、三度~
- 2007/10/09(Tue) -


実りの秋という言葉は今年の王林には無縁であった。

5月にほかの林檎と同様に薄いピンクの可憐な花を咲かせた王林、猛暑続きの9月に再び咲いて私を驚かせた。そして今三度、同じ花が咲いている。秋、本来なら収穫の時期なのだが、この異変は彼自身にとってもかなりの戸惑いを体の中に感じていることだろう。なぜなら、花は咲けども、咲けども結実したものは一つもないのだから。「オレはいったいどうしたらいいんだ!誰か教えてくれよ!」と、本来あるべき姿を見せられないことへのもどかしさと苛立ちが彼の中でぶつかり合っているのかもしれない。1年に3度も花を咲かせるようでは体力も消耗しよう。素人の私は、ただこの自然の不自然な営みを見守るしかない。そしてきっとセルフコントロールによって体内リズムを取り戻すであろう王林の春を待つ。 
 
この王林を囲むようにその周りでは白い秋桜が揺れている。桜の木は一枚二枚と葉を落とし始めた。


日かげりし林檎の花の紅ふくみ   小原青萍

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ムラサキシキブ ~艶やかな実と蔕と~
- 2007/10/08(Mon) -


ムラサキシキブの艶やかな青紫の色が目を惹く。いい色だ。密集して付いた実の重さで、スーッと伸びた枝は柳のように撓む。

そんな実に見とれていると、その鮮やかな色の中に何カ所か黄色い小さな花のようなものが見えるのに、ふと気がついた。「ん?」と顔を近づけ、眼鏡を外して目をマクロにする。それを理解するのにそう時間はかからなかった。そして実を一粒取ってみた。なるほど、それは蔕である。美しいその実を裏で、下で支えていた蔕であった。眼鏡をかけ直すと、枝の周りには数個の実が落ちていた。

美しいのはなにも表にあるものだけではない。隠れてひっそりとした美もある。
一流の役者が華々しくステージで演じるその花道の下の奈落で、回り舞台やせり出しを動かす人もいる。
この小さな蔕を見ながら、そんなことなどを思った秋の朝だった。

ムラサキシキブは20年ほど前に植えたものを庭の至る所に株分けしてある。それには訳がある。冬鳥として北の大陸から毎年我が家にやって来るジョウビタキの好物だからだ。冬をここで過ごし、春3月また中国シベリアの地へと戻る。通常は11月の初旬、文化の日の前後に飛来するが、去年は珍しく10月の比較的早い時期にやってきた。そろそろ、彼のあの鮮やかなオレンジを纏った紋付き姿に出会えるかと思うとワクワクする。

紫は古き世の色式部の実 山本鬼園

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百日紅
- 2007/10/07(Sun) -


昨日は青空の広がるいい天気だった。朝は久しぶりに肌寒さを感じた。重ね着をし園芸セットを胴に巻いて作業をする。「盗人萩」をすべて伐った。家への入り口のサザンカの下やヤマブキ、ルドベキアタカオの横など、知らないうちに大きく広がってたくさん生えていた。伐るそばから、衣服にまとわりつく。しかも手で払ってもなかなか落ちない。少し難渋しながらすべてを伐り終わった。

 作業を終えて、庭をぐるりと歩くと、花櫚は実が大きく膨らみ、山茱萸は小さな実を赤く染め、柿も色づいて秋色が目に付く。その中にあって、空の青を背景に百日紅が赤い色をなびかせている。補色に近いそのコントラストがまた美しい。しかしよく見ると、だいぶ長い間楽しませてくれた百日紅にも茶色い房が目立つようになってきた。ドウダン、ナンテン、ハナノキの葉も赤くなりつつある。そろそろ秋の彩りの仲間へバトンタッチの時期だ。

 その後、公募展の飾り付けがあったので出かけた。あの猛暑の中、鑿を振るった自分の作品と久しぶりの再会だ。作品の割れが心配だったが大丈夫だった。息子は石膏の直付けで私は欅と檜を用いた木彫である。息子の作品と並べて展示されるのは少し面映ゆい。

枝先へ枝先へ花百日紅   星野立子

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ニラ ~白い花は黒い種になりシジミチョウが~
- 2007/10/06(Sat) -


 一面を白くして賑わっていた韮の花は、秋の声とともにその色を潜め形を変えて直立して並ぶ。それはまたそれで、その一角を切り取って眺めると、景色として違った趣と味わいがある。

そこへウラゴマダラシジミがつがいでやってきてとまった。じっとして動かない。黒い種を足でしっかり抱きかかえている。とまるからにはきっと何か目的があるのだろう。「二人で何しているの?」と声をかけたくなるような睦まじい光景だ。

この後、ニラは緑の葉も色を無くして枯れ草色となり、雪をかぶった後、最後には地上から身を隠す。そして春の声を聞くまで、地下に根を張り出番をじっと待つ。


韮の花女人禁ぜし境に入る    山口誓子 

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薔薇(プリンセスミチコ) ~アマガエルの好きな場所~
- 2007/10/05(Fri) -


朝6時5分、ほぼ定刻に家を出る。年間を通して変わらぬ勤務先へ向かう時間だ。その出かける前のわずかな時間に、庭へ出て花や野菜の様子を見る。最近は日の出時刻が遅くなったので、その時間まだ陽は南アルプスを超えてこない。陽の出ないうち故にそれぞれの色合いや表情を具には確かめることはできない。でもこの時間は私にとってほっとするひとときである。

 薔薇の側を通ると、また彼が居た。今度はプリンセスミチコの上だ。人が薔薇の美しさに惹かれその香に引き寄せられるように、アマガエルにとっても薔薇には魅力を感じさせるものがあるのだろう。正面に廻って顔を見ると、とても居心地良さそうにいい表情で座っている。ほんの短い朝の時間だが、自然からはいろいろな発見や、思わぬ贈り物を頂ける。
この無為の顔をしたアマガエルを見ると、今日一日何かいいことがありそうなそんな気がしてくる。

そろそろ時間だ。照度が不十分の中、シャッターを切って踵を返す。


 雨蛙レインコートの女細身 大野林火
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ツツジ(躑躅) ~何かを感じて~
- 2007/10/04(Thu) -


  雲はみな動きめぐるや衣替  加藤楸邨

 朝夕の気温は急に下がった。女生徒らはその身を包む色をまぶしいほどの白から、一気に厚い布地の紺色に変えて道を行く。

この季節の端境期は、名残の色と粧いの色が同居する。

しかし今、躑躅が咲くとは…。

新聞では赤とんぼが少なくなったと書いてある。そういえば、いつもの年よりその姿を見なくなったような気がする。

躑躅も何かを感じているのだろうか。


躑躅赫し愛より強き言葉欲し 清水芳堂


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ホトトギス(杜鵑草)  油点草
- 2007/10/03(Wed) -


東京から帰ってくるとホトトギスが咲いていた。年を経るごとに株も大きくなり、花の数も増えた。この花が咲くと辺りは景色をさびの佇まいに変え、自ずと俳人の気分にさせてくれる。その色といい、形といい、味わいのある花だ。

夏の花が少しずつ姿を消し、秋の花に入れ替わる。人は鈍感だが、草花は季節の移ろいをデリケートに感じ、空気を読み、自分の主張する時を知っている。

こんな穏やかな花を見ながら自らの日常を省みると、その度量の狭さ、発する言葉のいたらなさを恥じ入り悲しむ。常に持ち続けたい大切な思いとは裏腹に、実際の生活の中では気配りを失い、不徳をわびたい言動があったりする。自分の知らないところできっと心を深く傷つけた人がいるのだろう。文字と文字の間にある、その書かれていない行に示されたメッセ-ジを読み取れないばかりにする誤解……、言葉は生きている。不如帰あらば、その胸に飛ばして真を伝えたし、そういう思いを抱く。
最近もそんなできごとがあった。

今朝は雨だ。一雨毎に涼しさが増す。私も今日から衣替えにしよう。


幾度も雨に倒れし油点草 稲畑汀子

紫の斑の賑しや杜鵑草 轡田 進
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薔薇とアマガエル
- 2007/10/02(Tue) -


家にはよくアマガエルがくる。特に夜になると南向きのガラス戸に何匹かへばりついているのをよく見る。それはちょうどアマガエルを腹の方から見ることになるので、指の吸盤などがしっかり見えておもしろい。時々、小さな蛾がくると、じっくり時間をかけて近寄る。そして自分の瞬間移動の間合いになったところで、蛾を捕らえる。その一瞬の動作はあまりにも素早い。
そんな生き物のユーモラスというか、厳しい現実というかを目の前でドラマチックに見せてくれるアマガエルである。

時折、彼は知らない間に家の中に入り込んでテーブルの上に居たり、急須の蓋にちょこんと座っていることがある。その小さな体、目に飛び込む鮮やかな緑の色、そして何より、まるで鳥獣戯画に出てくるような均整とれた顔から、家族は皆、彼をかわいがる。「だめじゃない。ちゃんと外で遊んでね」といってそっと手に取りシンビジュウームや月下美人の葉の上に乗せる。そこで彼は30分ほどじっとしてる。葉の上に乗るそれがまた絵になる。

昨日は雨、傘を差して畑や花のあるほうへ足をやる。雨のしずくを受けて、またそれぞれの姿や表情が違う。雨に打たれる薔薇もいい。芳香に誘われてピンクの薔薇に近づくと、彼が雨宿りしていた。外の一枚の花びらを床にしてその上の花びらを屋根の庇にして。その様子に見とれて雨の中を少し眺めていた。
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牛乳を注ぐ女 ~フェルメール~
- 2007/10/01(Mon) -


「牛乳を注ぐ女」に会ってきた。「フェルメールとオランダ風俗画展」が行われている国立新美術館のメインホールに彼女はいた。
上から白、黄色、モスグリーン、青、赤と飾り気のないシンプルな色を彼女は身に纏う。そして左上方からやわらかい光がガラス越しに入り込む部屋で、ミルクを広口の器に注ぐ。夕餉の支度だろう、部屋にはポトポトとその小さな音だけがする。
そして時間は止まった。マジックショーのごとく、永遠に彼女の注ぐ牛乳は流れる。

解説では消失点の不一致に見られる計算された画面構成、背景をシンプルに白い壁に塗りつぶしたフェルメールの表現の巧みさを述べている。

しかしこの絵の前に立ってなんの説明がいるだろうか。黙ってその時間と空間を彼女と共有すればいい。17世紀のオランダの台所の一人の女性の動作をじっと見ればいい。私はその場から暫く動けなかった。
新聞ほどの大きさの一枚の絵に世界の時空を超えて感動させるものがある。それを芸術というのだろう。

たぶん混雑するだろうと開館に間に合うように朝4時50分には家を出た。しかし開場前から長蛇の列、入館と同時に中はフェルメールに、そしてその彼女の魅力に惹き付けられた人々で溢れていた。

久々にいい絵を見ることができた。心の貯金箱に金貨を頂いた気分で、私はまた信濃路へと向かった。
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