オミナエシ (女郎花)
- 2007/06/30(Sat) -


萩・尾花・葛・撫子・女郎花・藤袴・桔梗と並べると、秋の野に咲く代表的な花と知られる「秋の七草」。これらは日本の秋に欠かすことのできない色であり、風情であり、情趣であり、言葉である。古く万葉の昔から歌に、絵にと多くの人々に愛でられてきた花々である。 琳派の画家達にもそれらを描いた多くの作品があるが、とりわけ酒井抱一の描く秋草図などはそれぞれの草花の持つ味、生命感を十分表現した秀作である。

私はそのすべてを庭で愉しむことができる。 正しくは「葛」以外といったほうがいいのかもしれない。

「葛」は土手に自由きまま、勝手に生えていて、その繁殖力は強く、ほっとけばそこらが一面覆われてしまうほど刈り取りをせまられる植物で、通常決して愉しむ対象とはいえない。(川縁の斜面で作業をする私が困るのであって、葛にとっては自分の住処を除去されて大いに迷惑し困っているのだろうが) 今朝もその伸びて絡まる蔓をいくつも伐ってきたばかりである。

今日は6月最後の日、これからいよいよ夏本番だというのに、しかしすでに家の庭にはこれら秋の草花が姿を現し始めている。今咲いているのは萩・撫子・女郎花・桔梗。

女郎花は10日ほど前から黄色い小花をたくさん咲かせ始めた。茎の先端に横に広がるようにして咲く様は野趣に満ちて心惹かれる。
ただ一つ言えることは、この花の場合外で眺め味わうのがいいような気がする。
時々家人が切り取って生けたりするのだが、独特の匂いがあるのでできれば遠慮したい……。

ところで、女郎花に対しオトコエシ(男郎花)という花もあるというが私はまだお目にかかったことはない。一度見たいものだ。


おみなへしといへばこころやさしくなる 川崎展宏
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ぶどう(葡萄)  ネオマスカット 
- 2007/06/29(Fri) -


ブドウは当然のことながら食べるために育てる。実そのもの形、大きさ、色合いが人の目の対象である。しかし、今年初めて私はブドウの花を見た。花が咲くから実がなるのだが、恥ずかしながら生まれて初めて、ブドウに花があるのを知ったのだ。

これは一昨年植えたネオマスカットという木である。去年は5房ほど収穫できた。かなり甘い品種だ。先頃、葉に隠れるようにして咲いている花を見つけた。
 見ようと思ってみるのと、なにげなく見ているのとの違いがそこにある。身近な花々からメッセ-ジをもらうようになってから、視野が広がり目線が上下し視線が奥まで届くようになった。その結果見つけられたといってもいいのだろう。

その黄緑色の花は2~3㎜ときわめて小さくて多数が房になってついている。 5本のおしべがまるで両手両足をぴーんと伸ばした操り人形のようでおもしろい。



有島武郎「一房のブドウ」を読んだのは小学校高学年のことだろうか。心に残っている作品である。

 「二階の窓まで高く這(は)い上(あが)った葡萄蔓(ぶどうづる)から、一房(ひとふさ)の西洋葡萄をもぎって、しくしくと泣きつづけていた僕の膝(ひざ)の上にそれをおいて静かに部屋を出て行きなさいました」。

僕はその時から前より少しいい子になり、少しはにかみ屋でなくなったようです。
 それにしても僕の大好きなあのいい先生はどこに行かれたでしょう。もう二度とは遇(あ)えないと知りながら、僕は今でもあの先生がいたらなあと思います。秋になるといつでも葡萄の房は紫色に色づいて美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません。 
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ジューンベリー
- 2007/06/28(Thu) -


 夏場を迎え、様々に実を付ける木も増えてきた。ジューンベリーはその名の通り、6月に実る。1㎝にも満たない小さな実だ。

朝早い野良仕事の後、木からつまみつつその場で一つ、二つと口に運ぶと素朴な甘さが喉を通る。果物として味わうような大きさや糖度の高さを持った実ではない。しかし、もし小さな子どもがいれば、きっと賑やかな声をワイワイとあげながら、そのかわいらしいふくよかな手でもぎ取ることだろう。子どもに似合う木である。

あの小粒で真っ白な花から紫の実へと変身して目と口を楽しませてくれたジューンベリーもそろそろ終わりになろうとしている。

ところで今年は、幸せのベールに包まれたジューンブライドの花嫁はどのくらい誕生したのだろうか。

もう少しで7月だ。

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ビワ (枇杷)
- 2007/06/27(Wed) -


   北原白秋作詞 「 ゆりかごのうた」
   「ゆりかごの歌をカナリヤが唄うよ、ねんねこ、ねんねこ、ねんねこよー」
   「ゆりかごの上に、びわの実がゆれるよ、ねんねこねんねこねんねこよー」

一昨日ビワの実を収穫した。本当のことをいうと、収穫したということは大げさである。なぜなら今年は9個しか採れなかったからだ。それでも少人数のわが家ではそれで十分だ。新鮮で柔らかな甘みが口の中を廻っていた。

市場に流通するビワの多くは《茂木》と《田中》が主流を占める。
その中の《田中》は当地出身の田中芳男が発見したものだが、そのことは地元でもあまり知られていない。田中義男そのものの偉大な業績が知られていないといってもいいのかもしれない。

今の飯田市に生まれた彼は、後に幕府の役所に勤め、シーボルトに面会したり、日本代表としてパリ万博にも出かけている。

彼が手がけたものとしては現在のリンゴの栽培普及、田中ビワの発見 ソメイヨシノの発見、白菜・アスパラガス等の栽培などその業績を上げればきりがない。 

中でも上野動物園の開設や東京国立博物館の開設などは彼の手による。彼が「日本博物館の父」と言われるゆえんである。

彼についてはいずれ、述べることとしよう。

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カスミソウ (宿根霞草)
- 2007/06/26(Tue) -


舞台など、そのストーリーの展開は主役の演技力に依るのは当然のことだが、しかしまた、その主役がその場でスポットライトを浴びるように、存在感溢れる演技ができるようにと、支え際だたさせるようにしているのは周りの小役の演技者達である。

そのほかの多くの場合も、表に立つ一人の、あるいは一つの事柄にはそばで脇役として、自己主張するわけでなく、目立たぬよう控えめの役回りをするものがある。

カスミソウは花の中ではちょうどそんな立場なのだろうか。切り花用として店に置かれていても、それは単独で用いられることは少ない。
バラをコーディネートするための演出用であったりするのが常だ。しかし、そのおびただしい小花が包むふんわりとした優しさが、バラを一層引き立てる。決してメインでない添え花だが、その存在を求められる花である。

この花にはベイビーズブレスという名もあるという。赤ちゃんの寝息ということだろうか。清楚な花である。

人の世も、センターに立つ人、そばでサポートする人、裏で支える人、ただひたすら一生懸命に生きる人、それぞれが認められ、生かされ、共生する社会でありたい。
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ムラサキツユクサ(紫露草)
- 2007/06/25(Mon) -


名前からして、そしてその姿からして、またいろいろな場所でごく自然に見られるので、てっきり日本の花だと思っていたが、これは勝手な勘違いであった。

実際には原産地は北アメリカで、明治のはじめに渡来し、野生化したものだという。

葉はアヤメ類のように剣状で細長く、茎の先につぼみを多数つけ、まさにこの梅雨の時期、青紫色の花を次々に咲かせくれる。

花径2~3センチほどの3枚花で、朝咲いて、午後には萎んでしまう。青紫の花びらの中に黄色い6本の雄しべが調和し、優しさを醸し出す。

雨上がりの朝などに見ると、色紙にでも描きたくなるほど、一層味わい深い雰囲気を感じさせる。

雨受けて 紫露草 色静か
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いぬつげ
- 2007/06/24(Sun) -


 「おとうさんの庭」という絵本をいただいた。父親と3人の息子の話である。

「むかし、あるところに、ひとりの農夫がすんでいました。農夫はあかあかと燃えるスト-ブのように心のあたたかい人でした。どうぶつたちをこよなくかわいがり、ひよこや小ぶたが大きく育っていくのを見るのが、なによりの楽しみでした。さて農夫には三人の息子がいました。三人はたいそうはたらきもので、一日じゅう、うたいながらはたらきました。」これが物語の始まりである。  (略)    父親は生け垣の手入れを始める。次々と牛、ぶた、やぎ、にわとり…と形になっていく。

息子達が巣立ちを迎えた時、それぞれの子ども達も庭の生け垣を刈り込んでいく。それぞれが作り出した形は馬と馬車、帆船、踊る人々とバイオリンを演奏する人。そしてその通りに長男は御者に、次男は船乗りに三男はバイオリン弾きになる。

この物語でトピアリーにされた木が何かは知らない。しかし最近、この近くでも鶴や豚などに刈り取られたものをよく目にするようになった。その多くはイヌツゲが用いられているようである。

イヌツゲは刈り込みに強いのでいろいろに形を整えられ植えられる。我が家のは半円形が何段かに左右交互に対置して形になっている。今ちょうど花がびっしりと咲いている。

米粒のような小さな白い花のため、多くは花が咲いていることに気がつかない。

一つ一つを見ると可愛い花である。
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クレナイアジサイ(紅紫陽花)
- 2007/06/23(Sat) -


可憐で小さく真っ白な花が少しずつ周りからピンクに染まりゆく。外の装飾花がおよそ赤くなると、その鮮やかな色はさらに中心に向かってその包囲網を進める。そしてついには全体を絵の具で塗ったように真っ赤にかえる。まさに「紅(くれない)」である。

この花は当地、伊那谷の原産だ。ヤマアジサイの一つで何年か前に発見され最近では園芸店でも見られるようになった。

花の前に立ちファインダーを覗くと、その毎日の色の変化が美しく、ついつい何枚もシャッターを切ってしまう。

普通の紫陽花より小さくやや水平に花を広げる。他の紫陽花は4枚が多いような気がしたが、桃の実の形をしたような愛らしいこの花の装飾花は3枚である。

見ていて飽きない。ハチなどがその上に留まる様などは、もうなにも言葉を必要とせず、時間を忘れる。

シーボルトがこの花を見たら、学名になんと付けただろう。


紫陽花や赤に化けたる雨上り 正岡子規
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ヒペリカム こぼうずおとぎり
- 2007/06/22(Fri) -


日々のあれこれと、日常に追われて過ごしていても確実に時は刻み、暦を減らしていく。

さて、今日は夏至。
今年ももう半年過ぎた、あるいは今年はまだ半年あると考えるか。いよいよ暑い夏がやってきた、あるいはこれからは一日一日、日が短くなっていくと考えるのか。

青山俊師は言う。「円筒がある。それを縦に切れば切り口は長方形になる。斜めに切れば楕円形に、真横に切れば円にと。円筒がそこにあるという原点を忘れて切り口で争ってはならぬ」と。

一方向からだけの視点や角度でものを捉えていくと、狭い思考になってしまう。そのものの本質や価値について根本を決して見失うことのないように、多面的多角的な見方考え方ができるようになりたいと常々思う。


暑い日射しを浴びて光沢のある美しい黄色い花が咲いている。花の大きさはは5㎝ほど、多数あるおしべは束になって花から飛び出すように長く伸びている。

赤いのは実であるお蘂が伸びる。小坊主弟切というヒペリカムだ。

しとしとと 鳥の声無く 夏至の雨
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ミヤコワスレ(都忘れ)
- 2007/06/21(Thu) -


庭の一角でヘビを見た。明るい赤茶色の細いタカチホヘビだった。今年初めてのお目見えだ。
いよいよ彼らの出番かと思うと私は少し憂鬱になる。ヘビが大の苦手だからだ。小さい頃からだめだった。

夏場になると我が家の庭には時々彼らが予告もなく訪問してくる。いろいろな場所で出くわす。距離があるところでその存在を確認できるときはまだいい。しかし、草取りや草刈りをしている時など、目の前に突然現れたら、もうだめだ。 どんな小さなものであってもだめなのである。ましてやアオダイショウのようなものになるというまでもない。

1分ほど待った。でも彼は動かない。もう少し待った。まだ動かない。水やりの途中だったのでホースで水をかけた。そしたらようやく草むらへ移動した。

水やりの続きをした。梅雨入りしてからほとんど雨らしい雨が降っていない。

ツゲの木の下にミヤコワスレが咲いている。その可憐な姿が好きで以前スケッチしたことがある。今ではそんな余裕も失って庭でパレットを持つこともなくなった。

花言葉は「しばしの憩い」、ミヤコワスレの名の由来にまつわる歴史を脳裏に描きながら、私は「フルサト」に思いを馳せ、一人短い「憩い」の時を持った。
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ピラカンサ
- 2007/06/20(Wed) -


もう数年前のこと、諏訪地方でヒレンジャクが大量に死んだというニュースがあった。定かではないが、どうやらピラカンサの実を一度に多く食べたのが原因ではないかという事だったように記憶している。 

花は数ミリほどの白色の5弁花、秋から冬にかけて赤だいだい色に熟した小さな実となり、その集まる姿はきれいである。最近は黄色い実のなるのもよく見かける。


うちでレンジャク類を見たことはない。相変わらず騒いでいるのはヒヨドリだけである。今は山桜の赤い実を朝からやってきて口に入れている。食欲旺盛な鳥だ。ヒヨドリもこのピラカンサの実を食べるのだろうか。
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クリ
- 2007/06/19(Tue) -


この時期、里山を見ると緑生い茂る木々の中に白く際だつ木がある。ちょうど今その花期を迎えた栗の木だ。
垂れ下がるような白い花は雄花で、雌花はその基部に小さくついていてよく目をこらして見ないとわからない。雌花は発育するにつれてとげを密生させたイガとなるが、紐のような雄花はすべて落ち、それを片付けるのがまた大変である。

花穂には特有の強い匂いがあるので、夜歩いていてもそれで栗の木が近くにあることがすぐ分かる。
我が家の二本の木も今白い花に包まれている。これまでは毎年のようにたくさんの栗の実を付けてくれたありがたい木である。

しかし、実はこの木には心底謝らなければならないことがある。それは昨年のこと、クスサン(シラガダイジン)がその葉を食べていた。一日二日そして三日とそのままにしておいた。気がついたら木は枯れ木のように一枚も葉がなくなってしまった。それでもまだ深刻には思わず気楽にいた。しかし、それが一大事であることに気がついたのは夏を過ぎ、秋になってからである。栗の季節なのに我が家の栗の木は葉がないのはもちろん、実など一つもない。
春になってさらにショックは大きくなった。木の中心となる幹が枝を伸ばさない。芽を出さない。それは枯れて朽ちていたのだ。救われたのはいくつかの側枝がまだ生きていたからである。祈るような気持ちでこれまで病害虫に気を配った。クスサンを見つけては一つ一つ手で取り除いた。かなり元気を取り戻したが、それでもこれまでの三分の一の枝振りだ。
クスサンについて調べるとクリの大敵であり栗農家もその処置に苦慮するという。自らの無知をこれまた思い知らされた。

今年は殊の外この木を大事にしようと思う。

  世の人の 見つけぬ花や 栗の花    (芭蕉) ゴルゴダの 曇りのごとし栗の花 (静塔)

 
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クチナシ(梔子)
- 2007/06/18(Mon) -


風に乗って甘い香りが広がる。かなり距離をおいてもその香りは鼻に届くほど強い。黄色い米粒のような柱頭を6枚の白い花びらが取り囲む。翌朝までには黄変し、もとの白の美しさとの落差も少し悲しい。


秋に赤みがかった実をつける。将棋盤や碁盤の脚はクチナシの実をかたどったものだそうだ。「口無し」無言にて勝負入魂を示したものだろうか。盤の脚をイメージすれば自ずと実の形が想起できよう。

「クチナシの花の 花の香りが 旅路の果てまで着いてくる クチナシの白い花 おまえのような 花だった」と、もの悲しいメロディーを口ずさみながら、一輪とった。

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黄色いバラ  ~父の日~
- 2007/06/17(Sun) -


「君は誰?」その一言で私は瞬時に父の置かれている状態を把握しなければならなかった。そばで兄や姉が一所懸命、末息子である事を説明する。「あ、そう。そうか」と父は言う。しかし、数分もしないうちに「君は誰?」とまた聞く。少しの涙が出た。兄や姉に気づかれないようにそっとぬぐった。
時間的空間的な父との距離がその記憶のファイルから私の映像を消していた。 当然と言えば当然のことかもしれない。

我が子の顔を忘れている父の悲しく辛い現実に私の頭は混乱したが、しかしまた私も自分の置かれた状況を正面からそして少しの理性を持って受け止めることができた。

多少時間が過ぎ冷静になった頃、父の自転車の荷台に載せてもらったことや一筆一筆父が墨で書く年賀状を畳一杯に並べたことなどが走馬燈のようによみがえった。

そんな父を見つめ、守り、ずっと支えてきてくれた母や姉、兄たちには感謝でいっぱいである。

遠くにいて物理的にも精神的にも何一つ父のためにできない自分を責めながら、空港を発ち帰路についた。

久しぶりに帰省した折のことである。

私は父の名から一文字もらっている。
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ウツギ(卯の花)  ~サラサウツギ~
- 2007/06/16(Sat) -


 「 卯の花 匂う垣根に ホトトギス 早も来 鳴きて 忍び音もらす 夏は来ぬ」

 一雨毎に 野山の木々も葉を広げ、一段とその色を濃くし、深緑に染まる。耳を澄ませば、この季節を待ちわびていたかのように遠く南の島からやってきたホトトギスが「テッペンカケタカ、テッペンカケタカ」と繰り返し鳴くのが聞こえる。

うつぎ(卯の花)の季節である。サラサウツギは少し赤みを帯びた下向きの花序が夏の日差しを涼やかにさせ、バイカウツギはその梅のような真っ白な花を風に揺らす。初夏の風情だ。

 ホトトギスや卯の花は古くより文人歌人に多く詠まれている。

 わが宿のかきねや春をへだてらん夏きにけりと見ゆる卯の花 (源 順)

  軽口に任せて鳴けよ時鳥 (西鶴)

  ほととぎす 啼くや五尺の菖草 (芭蕉)

卯の花に酔はねば花も暮れかかる (壇一雄)
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バラ  ~紅薔薇(べにそうび)~
- 2007/06/15(Fri) -


菱田春草は生涯一人も弟子を取らなかった。他に阿ることなく、批評家に迎合することなく、自分の信じる表現者としての道をひたすら追求した孤高の日本画家だった。そこから生まれた苦悩の遺産があの朦朧体である。しかし最後はさらにそれをも超える形で「黒き猫」「落葉」などの新たな境地を切り拓く。

そんな彼が唯一絵の手ほどきをしたのが秋元松子さんである。春草は五浦に居を構えた日本美術院時代、失明の危機にも瀕し、ようやく糊口を凌ぐほど、生活は困窮した。そんな折り、彼に生活援助をしたのが千葉流山の富豪、秋元洒汀であった。松子さんはその洒汀の一人娘である。洒汀の寵愛を受けた松子さんは幼い頃より様々な習い事をする。その一つが父の頼みを受けた春草からの絵の指導である。春草が柿などのお手本を送り、それを参考にして小学生の幼い松子さんが描くというものだ。

その後、松子さんは洋画に転じ、日展で特選を取るまでに画業を重ねていく。

そんな松子さんを流山のお宅へ訪ねたことがあった。当時はもうかなりご高齢であられたが、静かな物腰の中にもそこには気品が溢れていた。

詳細は省こう。松子さんにはもう一つ、佐佐木信綱の門人としての歌人の面ももっておられる。そして訪問した折、松子さんから頂いたのが「紅薔薇(べにそうび)」というご自身の歌集である。
私はその時、薔薇に「そうび」という読みがあることを初めて知った。それ以来、そうびという言葉が好きになった。

つゆ雲るさ庭の隅に暮色の薔薇一輪がかもす明るさ   秋元松子歌集「紅薔薇」より

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ザクロ(石榴)
- 2007/06/14(Thu) -


紫陽花と並んで梅雨時の花としてよく紹介されるもののひとつに、ザクロがある。

男性ばかりの中に女性が一人だけいることを示す「紅一点」の、この「紅」とはザクロのことをさす。


王安石が詠んだ「石榴詩」の中に「万緑叢中紅一点……」とあり、「紅一点」はここに由来する。一面青葉繁れる中に、赤い花が一つだけ咲いている。そこから慣用句として転用されたもののようだ。

 星形をした6片の花が可愛い。これが時間を掛けテニスボールほどの実になる。熟して割れ中から白い粒の種が顔を表す。
その形がまたいい。

時に芸術家達はその形に惹かれ作品にしている。以前碌山美術館で高村光太郎の着彩された木彫の「ザクロ」を見たことがある。造形的な美以上に内面から醸し出される彼の精神性に強く心打たれた記憶がある。

碌山と光太郎との出会い、それが私が彫刻に進むきっかけとなった。


五月雨に ぬれてや赤き 花石榴(はなざくろ)
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ヒルザキツキミソウ
- 2007/06/13(Wed) -


夏を知らせる花として知られるヒルザキツキミソウ、風が吹くと揺れなびく優しい色合いの花で、ちょうど今我が家の庭にも二輪三輪、三輪二輪と咲き始めた。

花言葉は[変わらぬ熱愛]。
この花の色形を見ていると情熱的な愛というより、控えめな愛の方が言葉としては似つかわしいかもしれない。

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ユズ(柚子)
- 2007/06/12(Tue) -


「白い花が咲いてた 故郷の遠い夏の日 さよならと言ったら 黙ってうつむいてた お下げ髪
さみしかったあの時の あの白い花だよ」

この歌の故郷はどこだろう。そしてこの白い花はなんのは花だろう。お下げ髪と言うところに、その歌の時代背景が忍ばれる。


柑橘類の多くはこの時期白い花を咲かせる。もしかしたらミカンの花かもしれない。

ユズはここから少し南に下った山間の地で「ゆべし」として加工される。その昔は貴重な保存食だったようだ。今では高価な食品となっていてなかなか口にはできない。

花に近づくとやはり柑橘類のいい香りがする。
シャッターを押して立ち上がろうとすると棘に引っかけられた。ユズには棘がある事を忘れていた。
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アヤメ(白あやめ)
- 2007/06/11(Mon) -


目を楽しませ、心に安らぎを与えてくれる花々、花の側に寄り花を眺め花と会話すると、怒りとか苦しみとかそんな感情がどこかへ行き、いつしか穏やかになる。

樹木医の塚本このみ氏は「植物は私たちに生きる勇気や優しさを取り戻す力を与えてくれます。植物を育てる人にも見る人にも温かく豊かな心をはぐくんでくれます」とコラムに書いておられる。

日常の交錯した感情を解きほぐしてくれる、心の医師ともいえよう。

アヤメ科の花々も少しずつ自分のその華やかな着物を脱いで、またあたらしい年の装いまで長いくつろぎの時間を過ごす。
遅れて咲いた白アヤメの演舞もそろそろクライマックスを迎えつつあるようだ。


 「ほととぎす鳴くやさつきのあやめ草あやめも知らぬ恋いもするかな」

読み人知らず 古今和歌集

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ハコネウツギ(箱根空木)
- 2007/06/10(Sun) -


まだ梅雨入りではないが、昨日は朝から雷を伴う強い雨に見舞われた。予定されていた行事も中止となる。そして今朝も雨だ。

雨の少しの合間を縫ってガザニア、アリッサム、シレネ、ディモルフォセカ、ディリフィニウム、カリフォルニアポピー、そして黄花コスモスやヒマワリなど夏から秋のまでの花の種を蒔いた。これらの花はほとんど手を掛ける必要がなく、あとは御天道様へお任せだ。ひと月もすればこれらの花々が次々に庭に彩りを添えてくれることだろう。

小一時間の作業を終えて庭に目をやると、キジバトが歩いている。時折、嘴を下に向けるが、何を口に運んでいるのだろう。

その向こうに昨日の色と違ったハコネウツギがある。この花は一日で色が変わっていく。最初は白く、そしてピンクを帯びさらにだんだん紅色、濃い紅紫色と変化する。色が移り変わるところは紫陽花にも似ている。

花言葉は「人の魅力を引き出す」。私の魅力も引き出してくれると嬉しいのだが。
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カルミア
- 2007/06/09(Sat) -


駄菓子屋といってももう過ぎ去った昭和の言葉の一つになったのだろうか。

「それとこれと…あっあれも」と小銭を手にした子ども達が、口広のガラスの中の好みの菓子を、髪を結った着物姿のお年寄りに注文する。買わなくても子ども達には、そこに並んでおもしろい形や彩り豊かな菓子を眺めるだけでも楽しい時間が流れた。しかし、そんな光景はもう映像の中でしか見ることができなくなった様な気がする。

カルミアは色も形もそんな駄菓子屋のガラス瓶の中にでも入っている菓子のような花だ。花の一つをとってその中に紛れ込ませても気がつかないかもしれない。

本来はアメリカシャクナゲと言うようだが、このカルミアという名も考えればどこか菓子の名としても通用しそうである。

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ノイバラ(野バラ)
- 2007/06/08(Fri) -


 「わらべは見たり 野なかの薔薇 清らに咲ける その色愛でつ 飽かずながむ 紅におう 野なかの薔薇 … … 」

ゲーテ作詞のこの歌を覚えたのは中学生の頃だっただろうか。

シューベルト、ウェルナーの二つの曲を並べて歌った気がする。どちらもすぐに口ずさめる。

庭の周りや川縁(べり)の土手にはこの「野バラ」がいくつも自生している。花は小さく可愛い。

今日の誕生日の花だそうだ。花言葉は「素朴なかわいらしさ」。その通りの花である。

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- 2007/06/07(Thu) -


今でも覚えているが小学校の高学年、たしか4年だったと思うが、遠足のアルマイトの弁当箱の中に4分の1の柿が入っていた。当時、果物は何かの大きな行事や病気になったときしか口に入らないものだった。それが平凡な4人兄弟を持つ家族の日常だったように思う。
小さな町の子らにとって遠足や運動会はまさに一大イベントであった。子らへの愛を遣り繰りした母の弁当、ふたを取って中を見た時の喜びは、遙か遠い過去のことだが、今でも鮮明に私のアーカイブとして遺されている。

今、植えたもの、実生のものを含め、数本の甘柿、渋柿の木がある。渋柿は干し柿や醂柿にするすべも覚えた。ところで、「猿カニ合戦」ではないが甘柿のイメージは誰しもすぐに思い浮かべることができるだろう。しかし、その花はというと多くの人は見たことはないかもしれない。

これは富有柿の花である。黄白色でつぼ状の形をしている。緑色の萼は大きく、すでに4裂しあの実の上に乗るヘタを想像させる。
きちんとした管理は出来ないが、それでも毎年大きな実をたくさん付けてくれる。秋になると葉を付けたままの実を、その地では柿の木は育たない故郷の母や兄弟に届けるようにしている。

この地方では柿の実を収穫する際、キマモリ(木守)といって果実を最後に一つ残す風習があることを知った。その木への感謝であり、木に宿る神への翌年も実がよくなりますようにという願いなのだろう。いつからか私もそのようにしている。

いつしか、時も流れあの時の母の年をも越えた。

柿の花土塀の上にこぼれけり 正岡子規
柿若葉愛静かなる日を照るも 岩崎冨美子
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スズラン ~枯れかかって~
- 2007/06/06(Wed) -


【スズランの花は、なぜした向きに咲くの?】こんなタイトルで小さなコラムが中日新聞に載っていた。

こういう事だという。
スズランは下向きに1列に咲き、しかも花びらの先端が上に反り返っているが、これには立派な理由がある。ではスズランなど下向きに咲く花の先は、なぜ反り返らなければならないのか。それはハナバチが蜜を吸いやすいようにするためであり、彼らはその反り返りにつかまって安定した姿勢で蜜が吸えるという。しかも腹を上にして逆さになってこの花にとまれるのはハナバチだけだそうだ。

コラムはこう結んでいた。「花の形にはそれぞれ意味があるんですね」

なるほど、スズラン一つの形にも自然界の造形の奥深さ神秘さを認識させられる。

改めてこうした不思議さを感じながら一つ一つの花を草を眺めたら、またその姿に物語を見つけることができるかもしれない。

あわててスズランを撮りにいったら、もうすでに枯れかかっていた。
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アブチロン
- 2007/06/05(Tue) -


アブチロンはアオイ科の花なのでハイビスカス(仏桑華)と同じ仲間ということなのだろう。花びらを見ると確かに似ている。しかし、明らかに違うのはハイビスカスのように完全に花が全開しないことである。これは半開きのまま風鈴を思わせるように下向きに垂れさがって咲いている。それゆえに、めしべ、おしべの花心を見るのには顔を下にして覗くしかない。

いつかテレビで見た中国内陸部の結婚式に向かう、ほほを真っ赤に染めた恥じらいの乙女のようだ。


熱帯原産だというので、冬場は室内に取り入れておき、いい日和となった5月の陽射しを浴びさせたところ咲き出した。

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クジャクサボテン
- 2007/06/04(Mon) -


これまでは一輪しか咲かなかったクジャクサボテンが、今年は数個の花芽を付けた。我が家に入籍させてからもう8年目になるだろうか。育てるには、こまめに外に出したりするなどの管理が必要のようだが、これは一年中部屋の中に置いてある。まるで外に出すと心配になる箱入り娘のようだ。 

ともあれ、紅色した鮮やかな甘い香りのする大輪の花を咲かせた。「月下美人」もそうだが、まだ花がない扁平で不定型に伸びた茎節だけの時を見ると、そこにこのような豪華な花が咲くとはあまり想像できない。これがサボテン科の植物の特色なのだろう。

1週間、充分目を楽しませてくれた。さて、来年はどんな顔を見せてくれるだろうか。またよろしく頼む。

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ペチュニア(つくばねあさがお)
- 2007/06/03(Sun) -


ペチュニアは南米原産のナス科の一年草だ。近年、一重・八重・小輪、複色の咲分けや絞りなど、いろいろな咲き方の品種が開発されて種類もかなり多い。夏場に向かうこれから先、花壇やプランター植えなどにより、豊かな色彩で彩られるこの花の姿を見ることが増える。近くには庭がこれらの花で一面埋め尽くされるようになっている家を見ることもある。

淡い紫色したこのペチュニアは実は不思議なことに多年草と化している。もう何年も同じ場所で同じように咲いている。しかもそこは大きく張り出した屋根の下でほとんどといっていいほど雨の当たらない場所である。その上、栄養などない砂の多い地で植物が生育できる場所としてはきわめて不適と言わざるを得ない。ましてや肥料などやったことはない所にである。

その乾きやせた地がかえってっこの花の体内遺伝子に故郷を思わせる環境なのだろうか。

本来はブラジルやアルゼンチンなど、ラテンの陽気のもとで育ってきたであろうペチュニアだが、今ではすっかり我が家の庭に根付いている。

信州の氷点下の冬場でも枯れることのなく咲き続けるこの花に多少の憐れを感じる。

この花も時々私のように歌うのだろうか。「思えば遠くへ来たもんだ……」と

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シャクヤク
- 2007/06/02(Sat) -


美人の形容に使われる言葉としての『立てば芍薬(シャクヤク、座れば牡丹(ボタン)』とは,ボタンは横枝が出るのに対し,シャクヤクは茎がすらりと伸びる姿を示したものだという。なるほどその似つかわしい喩えを導き出すごとく、昔の人は花の姿をよく観察したものだと頷く。

しかし、「つつましやか」というより、むしろ「妖艶華麗」というべき自らの美をアピールしているかのようなこの花を見ていると、その花言葉〈恥じらい〉はそぐわないようにも思ったりする。

芍薬やつくゑの上の紅楼夢   永井荷風

芍薬を嗅げば女体となりゐたり    山口誓子
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コンフリー
- 2007/06/01(Fri) -


先日、地元テレビ局がリポートした放送でこのコンフリーを天ぷらにした料理が紹介されたところ、コンフリーは体に害を及ぼすおそれがあるという指摘があり、それを受けての謝罪放送があったという。

私は、これまでおひたしなどにして食べてきただけに少し戸惑いがあった。

今一度山野草の本や百科事典をいくつか調べても、例えば「葉と根を民間薬,牧草とする。近年,葉は緑黄色野菜として注目されている。」「食用あるいは観賞用に栽培される。」「長寿者の多いことで有名なカフカス地方で食用とすることから,食べると長寿の効があると宣伝され,一時ブームを呼んだ。」「本場のヨーロッパではホウレンソウに取って代わられており,むしろ飼料用作物としての利用がある。」などとある。

畑の隅で大きな株となっているこの花を見ながら複雑な気持ちになった。
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