東京(丸の内ストリートギャラリー) ~ 《私は街を飛ぶ》舟越桂作~
- 2023/03/15(Wed) -
船越桂《私は街を飛ぶ》1

4時間40分。
高速バスは渋滞のため到着時間が1時間も遅れた。

会いたかったその人は東京駅にほど近い丸の内仲通りにいた。
洋品店を向いて静かに佇んでいる。

髪とアイシャドーは淡いブルー。
頬紅と口紅は鮮やかな赤。
頭には建物と木を乗せて飾る。
変わった恰好だがとても似合っている。

すぐ横では男性が本を手にコーヒーを飲んでる。
買い物袋を持った人が足早に過ぎる。

私はそばに近寄って前から後から、横からじっくり彼女を見る。
「ふ~ん、そうかあ」
どこから見ても魅力的な人だった。

駅に戻ると幾人もの花束を持った袴姿の若い女性にあった。
大学の卒業式だったのだろうか。

   たまにはその空気を吸うのもいいと都会を一人歩く三月は少し寒く (居山聞涛)

船越桂《私は街を飛ぶ》2

船越桂《私は街を飛ぶ》3

船越桂《私は街を飛ぶ》4

船越桂《私は街を飛ぶ》5
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「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」展 ~芸術と文化の秋だから~
- 2022/11/03(Thu) -
1兵馬俑パンフレット1

名古屋で「兵馬俑展」の紹介記事、会期は11月6日までと。
ちょっと遠いが、制作も一段落したことだし。
よし、行こう。

朝一番の高速バスに乗っていざ。
そして地下鉄に乗り替え、催されている名古屋市博物館へ。
会場内にはすでに大勢の人。
係員は「順序はありませんので空いているところに進んでご覧ください」と何度も呼びかける。
混んでいる入り口付近を避けて、中程の将軍、武士、騎兵傭などを先に見る。
写真撮影もOKとのことで、いくつかの特徴的な俑を収める。
秦の始皇帝の魂を守護するために作られたというそれらの形。
漢の時代に飼育されていた馬牛豚犬などの家畜も。
2000年以上も前のその卓越した技巧には驚嘆。
………………。
………………。
よかった。

帰る。

   遠いし時間と金もかかるけど芸術と文化の秋だから私は「兵馬俑」展を観たのだ (上武旋転子)

2兵馬俑10

3兵馬俑9

4兵馬俑1

5兵馬俑5

6兵馬俑8

7兵馬俑パンフレット2
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東山魁夷唐招提寺御影堂障壁画展 ~「青の世界、墨の世界」~
- 2021/12/03(Fri) -
東山魁夷障壁画展パンフレット

昨日、『東山魁夷唐招提寺御影堂障壁画展』を一人で観てきた。
通常なら鑑賞後の感想の言葉がすっと出るところなのだが、今回はなかなか出てこない。
いや、その68面という壮大なスケールと制作に費やした10年という歳月という事実の前に簡単に出せない。
そしてその深淵なる精神性に。
それは単なる作品を超えた、歴史的偉業であり文化遺産である。

手元にある美術誌の中で解説される美術史学者の言葉を引用して、今あらためて振りかえる。

遠い昔、唐の高僧は度重なる試錬を乗り越えて来朝、この寺を開いた。
そこにいたる経緯と師の精神性の高さに感銘を受けた画家は、ここに壮大な障壁画を手掛け、ひとつの達成とひとつの挑戦を一度に試みた。東山芸術の頂点、その真髄はここにある。

・上段の間 「山雲」   とめどなく湧き上がる雲煙まとう山の量感
・宸殿の間 「濤声」   嶮岨な岩を乗り越えてもなお来たる波の永遠
・桜の間 「黄山暁雲」 絶え間ない雲の去来と峨々たる稜線の岩山
・松の間 「揚州薫風」 柳の葉ずれの音響く、鑑真和上の故郷に捧ぐ
・梅の間 「桂林月宵」 月光の下、たなびく雲つき破る奇峰の連立             (『太陽』菊屋吉生氏監修より)

東山魁夷はこの作画について次のように述べている。
「この障壁画も、私が描いたものではなく、描かされたものである。鑑真和上の精神から発したものが、私を導いて、この絵を描かせたと思われてならない」                                             (『自伝抄 旅の環』 リーフレットより)


支度を済ませ、予定の7:30分、エンジンをかける。
すぐに高速道に乗る。
車窓から北アルプスの白い峰々が目に映る。
穏やかな青い冬の日。
美術館に着いたのは10時頃。

見終わって、屋上テラスに上がると、目の前には善光寺本堂の大屋根。
風はない。
遠くに立ち上る白い煙はまっすぐに上がっていた。
帰ろう。
美術館裏手の駐車場で誘導にあたっていた係の人になぜかお礼を言いたくなった。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」と返ってきた。

   こだはりを捨ててゆるし仰ぎみる空の深さよ限りなき碧  (百)

善光寺
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荻原守衛展・彫刻家への道 ~心熱くした思いに~
- 2019/10/03(Thu) -
1荻原守衛展1

国立新美術館での公募展の飾り付けを終え、新宿歌舞伎町のホテルで疲れを取る。
翌日、私がいたのはホテルから歩いて数分の中村屋サロン美術館。
久しぶりに碌山荻原守衛に会う。

私が碌山を知ったのは大学入学間もない18歳。
ある講義で教授が熱く語る人間「荻原碌山」がきっかけ。
その純粋かつ厳格な生き方に触れ、さらに安曇野の碌山美術館で直に彼の作品を見て、強く惹かれていった。
そしてそれまで彫刻とはまるで無縁だった私は、碌山の魂に導かれて自らも制作するようになった。
以来、細々ながら今日まで彫刻を続けている。

《荻原守衛展・彫刻家への道》は、代表作の『女』や『坑夫』などの彫刻に加え、油彩、スケッチ、デッサン、日記など多岐に亘る。
また、親友の高村光太郎や栁敬助、さらには碌山と関わりのあるロダン、長尾杢太郎、戸張孤雁、斎藤与里の作品も展示される。

総数60数点。
『文覚』の意思と力強さ、そして悲恋。
『デスペア』の悲しみと嘆き。
『宮内氏像』『北條虎吉像』の肖像彫刻の本質。
中村屋の次男襄二を描いた『病める児』はせつない。

思い起こすのは碌山美術館正面の砂岩の壁に刻まれた碌山の藝術観を表す言葉。
それは碌山が口癖のように言っていたという「Love is Art ,Struggle is Beauty.」。
碌山の心中を察していた相馬黒光はそれを「愛は芸術なり、悶えは美なり」と訳した。
あらためて学生時代に心を熱くした思いに返ったひととき。

   青年の眼差し遠し美術展  (岸本久栄)

2荻原守衛展2

荻原守衛展チケットより

3 65回一陽展

4 65回一陽展2

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『クリムト展』 ~ウイーンと日本1900~
- 2019/06/17(Mon) -
1クリムト展1

5:34発の高速バスに乗る。
雨の中の上野公園を傘を差して『クリムト展』(東京都美術館)へ向かう。
最後尾・只今20分待ちの案内。

観たかったメインの『ユディトⅠ』。
その前はやはり一番の人だかり。

目に飛び込むのは恍惚感漂う彼女の表情。
その右下に目を遣れば、彼女が手に持つのは斬首した侵略軍のホロフェルネス将軍。
高潔で信仰心が厚く、しかも勇敢なユディトは策を練り、自ら敵陣に乗り込み、酔いつぶれる敵将を短剣で刎ねたとの逸話。
そんな恐ろしい事を成し遂げたとあととは思えない半閉じの目と半開きの口になんとも言われぬエロスさえ感じる。
描かれる肉体は写実であるのに対し、衣装、背景はどれも単純化され装飾的な表現となっている。
そしてそれらには金が用いられ、ユディトをいっそう官能的なものとして引き立てる。

クリムトは日本美術に傾倒し、その美術史を深く学び、浮世絵や工芸品などの収集もしていた。
尾形光琳の「燕子花図屏風」図版などが載ったフェノロサの著作「日本美術史」も愛読していたともいう。
彼の作品に多く見られる金(黄金洋式)はそうした屏風に用いられる金箔表現を応用し活かしたことがうかがえる。
そして油彩画で初めて金箔を用いた作品とされるのがこの『ユディトⅠ』。

心に深く刻まれたその余韻のまま外に出ると雨はさらに強く降っていた。

クリムトは生涯独身で通した…。
しかし彼には14人の子どもがいた…。
そのほとんどがモデルとの子…。
そんなことも含め、それが多くの人を惹きつける画家“クリムト”なのだと頭を巡らせながら電車に乗る。

   地下鉄の迷路や梅雨の傘提げて (舘岡沙緻)

2クリムト「ユディト」 2

5クリムト展2

6クリムト展3
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ユキワリソウ(雪割草) ~展覧会を観に~
- 2019/03/25(Mon) -
奇想の系譜展・ラファエル前派の軌跡展

展覧会を観に出かけた土曜日の東京は冬のように寒かった。
そのうえ、雨まで降って。

上野で『奇想の系譜展』(東京都立美術館)を観る。
伊藤若冲、曽我簫白、長沢蘆雪、岩佐又兵衛、狩野山雪、鈴木其一、白隠慧鶴、歌川国芳の奇才六人。
展観する絵に当時の典型や主流から離れた奇想の表現がつまっている。
おどろおどろしさやユーモアやとんでもない不思議の世界に魅了される。
皇居の三の丸尚蔵館で『天皇皇后両陛下の肖像画』を拝観。
テレビの特別番組で見た野田弘志さんの制作風景と重ねながらじっくりと鑑賞。
肖像を越えた肖像画とも言うべき、人間性、内面性までをも徹底的に追求した写実の真髄。
お台場のホテルに泊す。
翌日曜日は青空が広がる。
丸の内にある三菱一号館美術館で『ラファエル前派の軌跡展』を観る。
ラスキンの哲学から生まれたラファエル前派の若手画家たち。
就中ロセッティはよかった。
紀伊國屋書店、東急ハンズに寄ってバスタに向かう。
15:05発の高速バスに乗って帰宅。
疲れたが、満足。

庭にはまた新たな雪割草。
やわらかに波打つ細長いのと桃色の蓮のような花びらの2種類。
たしかもう一つ青い色のもあった気がする。
それはまだ土の中でウオーミングアップ中なのか、それとも絶えてしまったか。

   飾りなき心のまこと雪割草  (小澤克己)

雪割草3191

雪割草3192

雪割草3193

雪割草3194
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『ムンク展』 ~A Retrospective(大回顧展)~
- 2018/12/18(Tue) -
ムンク展2

日曜日は都立美術館で『ムンク展』。
9時30分の開館に入場できるようにホテルを早めに出て9時には着いた。
しかしすでに館前は長蛇の列、皆同じような考えで行動している。

9つのテーマ毎に101点の作品が展示される。
 Ⅰムンクとは誰か
 Ⅱ家族-死と喪失
 Ⅲ夏の夜-孤独と憂鬱
 Ⅳ魂の叫び-不安と絶望
 Ⅴ接吻、吸血鬼、マドンナ
 Ⅵ男と女-愛、嫉妬、別れ
 Ⅶ肖像画
 Ⅷ躍動する風景
 Ⅸ画家の晩年

メインの「叫び」だけは、1列で歩きながらの鑑賞がとられる。
ゆっくり見たければ一旦流れから離れてパーティションの裏に立つように促される。
私もそうした。
そしてじっくり、じっくりと見た。
それはまさに“共鳴する魂の叫び”。
飛び出るように迫る。
強烈だ。

ムンクは自分に厳しさを求め、画家として生きるためにと生涯独身を貫いた。
どの絵にもその呪縛のような精神性を感じさせる。
たとえば額に縁どられたような“マドンナ”の外を動くのは精子、そして下方に青い顔で描かれるのは胎児。

知っていたムンクと知らなかったムンク。
60年に及ぶ画業と彼の生涯を辿ることができた大回顧展だった。

外に出ると、まだ列は途切れることなく連なっている。
みんなムンクに、あの叫びの人に会いたいのだ。

   なかなかに心をかしき臘月(しはす)かな  (松尾芭蕉)

マドンナ
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「フェルメール展」 ~冬の上野へ~
- 2018/12/17(Mon) -
牛乳を注ぐ女・真珠の首飾りの女

フェルメールは来日のたびこれまで何度も観に行った。
そして今回も足は冬の上野に向かう。
日時指定入場制が取られていて、私達は午後3時から。

現存作35点のうち初来日の3点を含めて8点が展示される。(大阪展では9点)

穏やかな光の美しさ。
人物と家具や道具、楽器などの見事な配置による画面構成。
身に纏う衣服や装飾品と人物の視線と動作に込められた物語性。
そしてそこにある確かな空気感と時間。
  
その作品の前に立てば無条件に、感覚的に人は惹かれる。

満たされた思いの中、心静かに駅に向かう。
またいつかフェルメールは来るのだろう。
そしてきっと私は観に行く。

   とかくして風に聴き入る十二月  (堀葦男)

フェルメール展2

フェルメール展6
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展覧会へ ~芸術の秋~
- 2018/10/25(Thu) -
米林雄一展1

「彫刻展を一緒に見に行きませんか?」
二紀会に所属する絵画のH女史からそういう誘いがあったのはしばらく前のこと。
やはり絵画で春陽会のM氏と、新制作で彫刻のN氏、そして私の4人だという。
喜んで参加させて頂くことにした。

それぞれの都合が整った昨日、近くのインターから高速に乗って飯山市美術館を目指す。
目的は『米林雄一彫刻展~宇宙への眼差し~』。
米林先生(二紀会理事)の院生から東京芸大名誉教授の今日に至るまでの80点余が並ぶ壮観な個展である。
事前にH女史が信濃町に居住の先生に連絡を取ってあって、会場まで来て下さった。
団体客が出ていった後だったので、貸し切り状態の中で先生のギャラリートーク。
ほぼ全作品について、制作意図から、表現方法、素材の具体を丁寧にお話しいただく。
ただ作品を見るだけでは分からないそこに込められた作家だけのさまざまな思いと芸術哲学を穏やかに語って下さる。
そのスケールの大きい構想と静かだが迸る強固な情熱に感銘を受ける。
先生からは展覧会のカタログとポスターまでプレゼントして頂き恐縮。
表現の奥深さに触れた晴れやかさと突き動かされるエネルギー感じて館を出る。
そしてなにより先生の紳士的で温かなお人柄に。
3人の表情の中にも同様に満たされたものを見る。

つづいて高橋まゆみ人形館に足を運び、松本市美術館で太田南海展を観て帰路に就く。

天候にも恵まれ、芸術にどっぷりと浸った秋の一日だった。
声を掛けてくれたH女史に感謝。

   美術展夕焼小焼の帰り道  (藤井美代子)

米林雄一展2
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藤田嗣治展 ~満たされた時間~
- 2018/09/25(Tue) -
藤田嗣治展パンフレット

一泊して芸術の秋に親しんだ。
国立新美術館、日本橋三越、都立美術館を廻る。

『藤田嗣治展』にはすべてにおいて魅了された。
今回はその生涯における画業の全貌に迫る没後50年の大回顧展。
展示は9章のテーマからなる。
知られる「藤田の乳白色」の裸婦の数々。
そしてそれ以外の、学生時代から晩年までの年代とともに変遷する表現の世界。
時には時代(戦争)に翻弄され、ある時は日本人である事を自らに問いかけるように日本各地への旅。
たとえば「アッツ島玉砕」の凄惨。
たとえば「客人(糸満)」「孫」(1938年)の2作品に描き出される沖縄への深い思い。

新たに知る藤田嗣治とレオナールフジタの広大かつ深淵な芸術。
深い感慨の中、満たされた2時間だった。

なぜか昼食を摂る気も起こらず、そのまま新宿のバスタに向かう。
2:05発の高速バスに乗る車内で、図録などを読みつつ帰途に就く。
行ってよかった。
ほんとに。


    秋は美術の石柱(ひらし)を囲む人ごころ  (石原八束)
 
藤田嗣治展出品目録

藤田嗣治パンフレット2
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若者たちの作品展 ~僅かずつ昼時間は伸び~
- 2018/01/16(Tue) -
展1787

地元の若い人たちの作品展を観た。
出品者は40人余。
とらわれない自由な多様性。
溌剌とした表現。
それぞれが個を主張する。

感性に年齢はない。
誰にとっても毎日はいつも新しい今日。
漲る精一杯さの空間から波動が私の頭に届く。

僅かずつだが昼時間が伸びてきているのを感じるこのごろ。

   こころまづ動きて日脚伸びにけり  (綾部仁喜)

展1767

展1771

展1772

展1784

展1780

展1785

展1786
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驚異の超絶技巧展 ~三井記念美術館~
- 2017/12/06(Wed) -
驚異の超絶技巧展2 - コピー

『驚異の超絶技巧展』を観に三井記念美術館へ行く。
いくつかのアクセス案内がある中で、“JR「東京」駅(日本橋口)徒歩7分”を選ぶ。
新宿から中央快速で東京に出て、日本橋を渡り、三越本店のライオン像を横に見ながら歩くと、その看板が見えた。
三井本館ビルの中に入るとすでに数十人の列。
その日3日は展覧会の最終日、私のような遠くから来たとおぼしき人も結構見られた。
しばらく待ち、10時の開館時間となって、エレベーターへの案内が始まる。

入ってすぐの前室に展示されている2点のみが撮影を許されているので収める。
宮川香山の〈猫ニ花細工花瓶〉は薔薇の下に遊ぶ猫が高浮き彫りで施されている。
繊細な花や葉の表現と猫の眼や鼻などの細部にわたるリアルな表現は実に見事である。
もう一つの高橋賢悟の〈origin as a human〉はアルミニウムを素材とした金工作品。
頭部に菊とダリアのような花をあしらわせた髑髏はまるで生命を持っているかのような奇妙さが漂う。

展示は~明治工芸から現代アートへ~のテーマで構成される。
展示室1から展示室7まで、様々なジャンルの工芸と現代作家の作品がおよそ140点。
素材を超え、表現の常識を覆すまさに驚異と超絶技巧のオンパレード。
その緻密さと精巧さにどれだけのエネルギーと時間を費やしたことかと感嘆する。
あとはもう見る度にうなる。

ずっと以前この特別展の紹介記事を目にしてから、必ず見ようと決めていた。
そしてやはり期待に違わぬ作品の数々。
それを生み出した計り知れない技と発想を持った人々のその才能の凄さ。
特に見たかった安藤緑山の牙彫りと前原冬樹の木彫…、しっかり目に焼き付ける。

図録を求める。
息詰まるような不思議な時空から、また都会の喧噪の中へ。

   目つむりて己れあたたむ冬の旅  (岡本眸)

猫ニ花細工花瓶 宮川香山

超絶技巧展安藤緑山(胡瓜) - コピー

超絶技巧展前原冬樹(一刻 皿に秋刀魚) - コピー
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個展 ~里山の木々の呼吸は海の音~
- 2017/12/04(Mon) -
記憶をめぐる旅1

友人の個展を観た。
石彫と金属で構成されている。

“里山の木々の呼吸は海の音”
“木と石に刻まれた記憶をめぐる旅”
タイトルや解説に哲学的で詩情あふれる言葉が並ぶ。
照明を落とした屋内には20点ほど。
そして野外展示も。

初日だった。
話ができた。
海外でも個展を開くなど彫刻家として活躍している。
そんな髭の似合う彼とは学生時代からの長い付きい。
この関係は、足腰が弱り、お互いを訪ねることのままならぬ時が来るまできっと続く。
作品のコンセプト、表現過程を語る作家としての迸る熱い情熱に、叱咤される思い。
師走、かけがえのない友の芸術にしみじみ浸り、吾を見つめる。

   青空を海に拡げて十二月 (伊藤通明)

漂流の民1

「森の呼吸シリーズ」から

zaroff528.jpg
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キノコ(茸) ~観たかった作品~
- 2017/10/08(Sun) -
知美美術館パンフレットから

先日、菊池寛実記念知美美術館で「八木一夫と清水久兵衛 陶芸と彫刻のあいだで」展を観る。
現代陶芸のレジェンド、八木一夫氏の作品「ザムザ氏の散歩」(1955年)が展示されている。
38年前、定期購読していた雑誌に「オブジェ焼き」という言葉と共に紹介されていた白黒写真で初めて知る。

ギャラリーは緩やかにカーブを描く螺旋階段を下りた地下。
それは入ってすぐの右手に展示されていた。
機会があればいつかは必ず観たいと思っていた作品を前に、言いしれぬ興奮を覚えた。
想像した通りの哲学的でずっしりとした存在感を放っている。
総数55点、その一つひとつに深いメッセージ性を感じる。

清水久兵衛氏の構築性と動感ある金属彫刻および若い頃の陶芸作品にも魅せられた。

帰ったその日の夜、あらためて書架からその古い雑誌を取り出し読む。

翌日、畑に出ると、伸び始めたシュンギクのそばに薄紫のキノコが顔を出していた。

   膝まづくときの土の香きのこの香 (青柳照葉)


「現代彫刻」1979年28号1
「現代彫刻」1979年28号
「現代彫刻」1979年28号2
「現代彫刻」1979年28号
現代彫刻1975年9号
現代彫刻1975年9号
薄紫の茸1

薄紫の茸2
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運慶展 ~深いまなざし~
- 2017/10/06(Fri) -
運慶展37

東京国立博物館(平成館)の開館は9時半、できるだけそれに合わせようとチエックアウトを早めに済ませた。
ホテルの最寄りの六本木駅から日比谷線に乗って上野に向かう。
しかし、着いたときにはすでに大勢の人が並び、入場制限がなされていた。

会場は3章のテーマによって構成されている。
第1章 運慶を生んだ系譜―快慶から運慶へ
第2章 運慶の彫刻―その独創性
第3章 運慶風の展開―運慶の息子とその周辺の仏師

展示の方法がまた見事。
キャプション、配置、ライティング、作品との距離と高さ…、どれをとっても見やすくわかりやすく美しく、観客第一。
私も前から後ろから、そしてサイドから。
離れて近寄って、全体とディティールを。
何度も行きつ戻りつしながら。
2時間ほどの観覧。

言葉にするのはよそう。
目に焼き付け心に深くしまう。

出口付近に新聞の記念号外がありいただく。

会場を後にしようとしたとき、偶然に友人の顔を見つける。
小諸の彼で奥さんと一緒だ。
みんな遠くから「運慶」に会いに来ている。

信濃路に向かう帰りのバスの中で、カタログを捲りながらその余韻に浸る。
 
  美術展友人と出会う帰り道  (あや)  

運慶展38

運慶展39

運慶展40
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北アルプス国際芸術祭(JAPAN ALPS ART FESTIVAL 2017) ~山奥にそして集落に現れる世界~
- 2017/07/10(Mon) -
リー・クーチェ 風の始まりwindy1
リー・クーチェ【風のはじまり】

車を走らせて大町へ向かう。
かねてより見たかった芸術祭。
吸い込まれる衝撃と感動。

たとえばそれは森の中に忽然と現れる古代人の住居跡のようだったり。
あるいは山あいの集落が丸ごとペインティング。
山を背景に巨大な風車を思わせる13の竹編オブジェ。
湖岸に直立する組紐の結い。
…………………………………

国内外の34名の作家による展示。
あまりにも広範囲の場所に分散しているため、車で移動して見ることができたのは3分の1ほど。
駐車場から作品に辿り着くまでにさらに時間もかかり、汗だく。

30日までの会期。
残りは日をあらためて足を運ぶことに。

スケールと発想と素材。
これがアート、これぞアート。
久々に心を揺さぶられるそんな時間となった。

   樹々そよぐ颯々の夏いさぎよし (森澄雄)

リー・クーチェ風のはじまりwindy2
リー・クーチェ【風のはじまり】
集落のための楕円1
フェリーチェ・ヴァリーニ【集落のための楕円】
集落のための楕円2
フェリーチェ・ヴァリーニ【集落のための楕円】
ニオライ・ボリスキ-Bamboo Waves1
ニコライ・ポリスキ-【Bamboo Waves】
ニコライ・ボリスキ-Bamboo Waves2
ニコライ・ポリスキ-【Bamboo Waves】
五十嵐靖晃雲結い3
五十嵐靖晃【雲結い】
五十嵐靖晃雲結い2
五十嵐靖晃【雲結い】
五十嵐靖晃雲結い1
五十嵐靖晃【雲結い】
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戸嶋靖昌 ~小さな美術館は情熱の迸る場だった~
- 2017/02/16(Thu) -
左アルパイシンの男―ミゲールの像ー50号 1990年  右「立つペドロ」40号 1991年アルパイシンの男―ミゲールの像ー50号 1990年               立つペドロ 40号 1991年

「新橋駅から…」
「銀座線で赤坂見附で半蔵門線に乗り換えて……」
「半蔵門線駅の4番出口を出て…」

便利な都市交通も、なれない田舎者にとっては、複雑で戸惑う。
道道、何度か尋ねつつ、その美術館にようやく辿り着いたときには11時30分を過ぎていた。
それは英国大使館、麹町警察署などに近いビルの中にあった。

「観覧を予約しておいた長野の…ですが」
「お待ちしておりました。ではご案内させて頂きます。」
学芸員と一緒にエレベーターで上がる。
開けて下さった白いドアの中が展示室となっている。
「順路は特にありませんので、ご自由に好きな方からご覧下さい」

戸嶋靖昌が目の前にある。
これが見たかった。

左回りで見ていく。
メインの壁にはあの『ミゲールの像』(1990年作)
テレビで紹介されていたあれもこれもそこにある。
これらを描いた日本人がいた。
たとえばゴヤやレンブラントからその表現の精緻さを省いたような荒々しい情念で描かれた人物像。
モデルと画家の激しくぶつかりあう感情が飛び出す『クリスティーナの像』。

一通り見て最初の位置に還り、今度は右回りで作品を戻る。
そしてやはり『ミゲールの像』の前で立ち止まる。

中央に置かれてある唯一の彫刻。
モデルは、無名だった彼の芸術性を高く評価し、今に送り出した館長執行草舟氏。
ブールデルを思わせる構築性を持った勢いのある大胆な肉付け。
それもそのはず。
戸嶋はもともと武蔵美の彫刻科を卒業し、助手まで務めていたのだから。
粘土ベラや彼の指や掌のタッチが残る勢いのある表現である。
しかし、あくまでも対象の根幹は力強く坐っている。
モデルの内面の奥深い人間性にも迫るまでの生命感。
360度、何処から見ても執行氏はこのような確固たる強い信念をもった人物なのだろうと想像させる。
最後に今一度確かめたい作品だけを見る。

やはり学芸員の方の案内で玄関ロビーに出る。
その礼儀正しさにも感銘受ける。
「長野からわざわざ来て下さったということですので…」
そう言って、美術館や戸嶋靖昌の資料、執行氏著作の案内などを下さる。
篤いおもてなしに恐縮。

帰路に就く中央道高速バスの中で執行館長と武蔵美学長による対談「戸嶋靖昌とその時代」に目を通す。
戸嶋の真髄に触れた言葉を拾う。
・日本の芸術家として歴史に残る人物だと信じている
・戸嶋の絵は非常に彫刻的で音楽的
・美しさより、崇高さを持っている
・戸嶋にとって大切なのは「生命」の探求
・魂の画家であり、芸術の求道者
・すべての飾りを取り除いた上での生命を描こうとしている
・血みどろのリアリズム
・打算のない、自分の造形に一直線という生き方から出て来る哲学を持っている
・エネルギーのおもむくままに描いている

しばらくは戸嶋靖昌から受けた衝撃を懐に抱きつつ。

  晴れわたる浅黄の空の二月かな  (物種鴻両)

リーフレット 執行草舟著「孤高のリアリズム」ー戸嶋靖昌の芸術ーリーフレット 執行草舟著「孤高のリアリズム」ー戸嶋靖昌の芸術ーより部分

戸嶋靖昌記念館資料
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日本民藝館 ~『柳宗悦と民藝運動の作家たち』展~
- 2017/01/11(Wed) -
日本民芸館3

かねてよりどうしても訪ねたい所があった。
目黒の東大駒場キャンパス横にある日本民藝館だ。
それがさる成人の日、この何年も前からの行きたい見たいの思いがようやく叶った。

新宿から渋谷に出て、井の頭線に乗り換え駒場東大前駅で降りる。
西口から閑静な住宅街を7分ほど歩けば、いかにも一昔前の佇まいを見せる白壁の大きな建物が目に入る。
道を挟んで対になるように左に西館、右に本館が建つ。

大きな引き戸を開くとそこは広い石敷になっており、その先の黒光りする上がり框で靴をスリッパに履き替えて入る。
10時の開館時間を少し過ぎたところで入館したが、すでに10数人の靴が並んでいた。
あとからも人の姿は途切れることなく、ことに外国人の姿が目立つ。
彼らもまた柳の主導した民藝運動の奥深さを知って訪ね来るのだろう。

「順路は特にありませんのでご自由にお好きなところからご覧下さい」と受付の方からの案内。

バーナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司、棟方志功、芹沢銈介等々、斯界の巨人たちの作品が贅沢なほどずらり並ぶ。
その充実した所蔵品や展示等は様々に得られる情報から頭にはイメージ化されてはいたが、目の前にしてただ息をのむばかり。
「この作品なら飾りたいわ」
「こっちの方が形がいい」
連れ添う家人達は口々に軽薄な評価をしては見ている。
ほとんどが人間国宝級だということは微塵にも頭にはない。
「うちにもこんないいのが欲しいね」
何を言っているのだろう、作家の質とレベルが丸っきし違うということは、お金の問題でもあることに気づいていない。
そうした会話に少しの恥ずかしさを覚え、いくぶんの距離を置いて先を進む。

あの作品この作品に触れてその感想を記したいのだが、なにせ館内は撮影禁止。
目を凝らして内なるシャッターを切って頭のファイルに収めるしかない。

二階には壺屋焼の金城次郎の作品や平良敏子の格子文芭蕉布など、沖縄の工芸家の作品も並ぶ。
「うちにも金城次郎の作品があったよね」
「そう、魚のやつね」
よく覚えていたもんだ。
たしかに魚文の小壺が一点、昭和51年頃手に入れたと記憶している。

作品を撮れないので、窓の外の壺のある風景をシャッターに収めることにした。
その風情がまたよく、いい絵になる。
全体を見終え階下に降りて、今一度第1室「柳宗悦の仕事」を見る。

靴に履き替え門を後にした時家人がぽつりと言う。
「良かったね。気に入った。また来よう」
そう、何時の日か、西館も観覧できる水曜か土曜の日にあらためて来ようと思った。
所蔵品は言うまでもないが、登録有形文化財の建物や微に細に技を駆使した家具調度品に触れるだけでもその再訪の価値はある。

新宿に戻り、蕎麦のある店を見つけて入る。
それぞれ違うのを頼む。
会計を済ませて、外に出て10歩ほど歩を進めたほぼ同じタイミングで言葉を口にする。
「美味しくなかった」
「だめだったね」
きれいな店で客も多かったのにと、首を傾げる。

高速バスに乗って家路に就く。
諏訪辺りはかなりの雪が降ったようだ。
着けば留守していた家の庭にも多くの雪が地を覆っていた。

   一月の汚れやすくてかなしき手   (黒田杏子)

日本民芸館4

日本民芸館6

日本民芸館1

日本民芸館2
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クラーナハ展 ~「ホロフェルネスの首を持つユディト」~
- 2017/01/10(Tue) -
クラーナハ99

“たまには都会の空気でも吸おう”そう思って二泊の旅に出た。

最初に足を運んだのは上野の国立西洋美術館『クラーナハ展』。
少し風があり肌寒さを感じさせる曇りの日だったが、多くの人が訪れていた。
チケットは事前に手に入れてあったので並ばずに入ることができた。
音声ガイドを頼み会場に踏み入れる。

クラーナハのすべてに魅了される展覧会だった。
そしてその企画構成もまた素晴らしい。
彼ををリスペクトする多くのアーチストの作品が並行して展示されており、クラーナハの魅力を更に引き立てる。
たとえばピカソの版画「ダヴィデとバテシバ」の第一ステージから第九ステージまでの一群。
クラーナハとピカソの融合に足が止まり惹きつけられる。
森村泰昌のセルフポートレートやレイラ・バズーキの絵画コンペティション、さらにはマン・レイ、マルセル・デュシャン等々。
それらの多視点での発想と多様な表現性にも驚嘆させられる。

90点を超える作品の中でやはり一番の存在感は「ホロフェルネスの首を持つユディト」。
元になった史実や背景は省く。

着飾った美しい女性が手に持つのは男の首。
それは自らの手で切り落とした敵軍の司令官ホロフェルネス。
祖国のために淡々と計画を実行しただけと、さも何事もなかったかのように前方へやわらかな視線を落とす冷静な表情のユディト。
一方、ホロフェルネスの白目を剥いた不気味で無機質な死顔。
そこには善と美と官能に権力と支配と醜悪との対比を思わせる。

全体を見終わって、もう一度戻り再び「ホロフェルネスの首を持つユディト」の前に立つ。
焼き付ける。

クラーナハと向き合ったおよその二時間は、十分満たされたものとなった。
しばらくは剣を持つユディトの顔が脳裏から離れないだろう。
外に出るといつものように周辺は人で混雑していた。
今にも雨が降ってきそうな空模様、ホテルへの帰途を急ぐ。

  冬の空昨日につゞき今日もあり   (波多野爽波)

クラーナハ60

クラーナハ02

クラーナハ70
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シーラス(Cirrus)  ~秋の雲と彫刻展~
- 2016/10/19(Wed) -
彫刻展139

青空の高いところにいくつもの絹雲があった。
それは平刷毛を軽く当て、さっと引いて巻き上げたような美しい形だった。

30分ほど車を走らせ創造館に着く。
彫刻展の搬入と展示作業である。
総数70点ほど、それぞれの作家の人間性と表現性が並ぶ。
私は旧作の頭像2点を出品。

疲れた。
家に着いてからも節々が痛かった。
特に腰。
「もう若くはないさ」と体が私に囁く。

  どちら見ても山頭火が歩いた山の秋の雲  (山口誓子)

想

沁
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『夜桜美人図』 ~応為(お~い)、お栄(おえ~い)~
- 2016/02/12(Fri) -
夜桜美人図

葛飾応為の肉筆画『夜桜美人図』がどうしても観たいというのだ。
メナード美術館は遠い。

中央道を南下し、小牧ジャンクションで名神に入る。
小牧ICで降りて国道41号を進み、左折。
左手に小牧城を過ぎればすぐそば。
休日とあってか行路は順調、ほぼナビの設定時刻に到着。

開催されていたのは絵画・書・工芸からなる企画展『和のかたち』。
求めた応為の作は第三室、―うたを楽しむ―の章の中にある。
描かれるモチーフや主題へ想像を膨らませつつ、近寄って観て、離れて観る。

春の夜、妙齢なる女性が左手に短冊、右手に筆を持って、二つの石灯籠の間に立つ。
想が練り上がり、いよいよ筆を走らせんとするその時だろうか。
灯りが映す表情から量ればそれは想いを届ける恋の歌なのかもしれない。
灯籠の中の揺らぐ炎が作る光と影が女性の内面あるいは物語性をいっそう深める。
少し離れて、ほのかに浮かび上がる桜の花。
木々のシルエットを越して見える無数の星。
画面下に目をやれば雪見灯籠が振り袖と着物の裾を照らす。
足元には幾ばくかの散った花びら。
そのどれもにもそれぞれ付加された意味と、なくてはならない必然性を感じさせる。

バランスの取れたプロポーションとそのしなやかな姿態。
繊細に描かれる人物のディテールや背景に置かれた木々。
その江戸美人の居る場と同じ時間にいざなわれるよう。

応為は葛飾北斎の三女お栄。
父から受け継いだ画家としての才能がこの一枚だけを観ても十分伝わる。
一説によれば北斎よりも描写力に優れていたとか、北斎同様かなりの変人だったとかも伝聞される。
研ぎ澄まされた構想力と緻密な技巧と豊かな感性を隙なく感じさせる「夜桜美人図」だった。

せっかくだからと、足を伸ばして国宝犬山城の天守に登っ後、帰路に就く。
二月のいい日、満たされた鑑賞の旅。

   年々に春待つこゝろこまやかに (下田美花)

夜桜美人図2
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肉筆浮世絵展 ~美の競艶~
- 2016/01/16(Sat) -
美人愛猫図1
葛飾北斎 「美人愛猫図」

肉筆浮世絵展が上野の森美術館で開催されている。
並ぶまでもなくスムーズに入館できたが、中は思いの外混んでいた
滅多に目に触れる機会もなく、どちらかというとマニアックなジャンルかと思っていたが、意外であった。
最近はこうした和文化に造詣の深い外国人が多いということで、その姿も散見される。

~美の競艶~のサブタイトルが付いたシカゴ ウエストンコレクションからの日本初公開の展示である。
江戸初期の寛永年間から大正に至るまでの129点がほぼ時代の順を追って並べられる。

浮世絵の代名詞にもなっている多色摺版画の錦絵は絵師、彫師、摺師の共同作業によって生まれる。
多数に摺られた絵は版元によって一般庶民に販売される。
比して肉筆画は絵師が和紙や絵絹に直接絵筆を執って描き上げた一点物である。
多くの注文主はおそらく財を成した商人かあるいは裕福な武家なのだろう。
今回展示されていた軸物には刺繡などが施され、その豪華な表装から相当に高価であったことが伺える。

一点一点、どれも見逃せないほどの繊細かつ重厚な存在感がある。
時代ごとの絵師の豊かな感性と描写力が存分に発揮された逸品ばかりである。
描かれる美人の周りに配置された小物や、身につけている着物の柄、そしてその仕草に興味を惹かれる。
花魁、禿、遊女、夜鷹など当時の風俗も垣間見ることができる。

歩を進めた中程には3点の北斎、足が止まり、目が釘付けになる。
あらためてこの絵師の凄さを実感する
代表作『富嶽三十六景』やよく知られる『北斎漫画』とはまったく異なるは繊細な美人画。
「美人愛猫図」、その極められた表現力にただ見入る。
奇人と称された北斎だが、天才というに相応しい。

もう一つ、特に印象に残ったのは河鍋暁斎の『一休禅師地獄太夫図』。
骸骨たちが太夫の周りでどんちゃん騒ぎ。
袈裟を着た一休さんが三味引くのの頭の上で楽しげに踊る。
太夫の着物の柄は閻魔地獄か。
暁斎奇天烈ワールドが遺憾なく発揮されていてうならせる。
こちらは変人、奇才、鬼才の魅力。

この二人の肉筆画を見るだけでも出掛けた価値があるというものと納得し、しばしその余韻に浸り合う。
それにしてもこれだけの秀逸なる作品が一外国人の手元に所蔵されているとは、いろんな意味で嘆息しきり。

西郷隆盛像の近くでは民族衣装を着たパフォーマー達がケナーとサンポーニアで「コンドルは飛んでいく」を演奏していた。

   わが胸に旗鳴るごとし冬青空  (野澤節子)

美人愛猫3

一休禅師地獄太夫図
河鍋暁斎「一休禅師地獄太夫図」

一休禅師地獄太夫図1

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「をなご」と「盲目のエロシェンコ」と「少女」 ~三度目の正直~
- 2016/01/11(Mon) -
をなご
                       戸張孤雁「をなご」

三度目の正直というわけではないが、ようやくにしてというかである。
新宿中村屋サロン美術館が2014年秋に開館した折、早速訪ねた日の火曜日はうかつにも休館日だった。
そして昨年9月下旬、再び訪れた私たちの目に入ったのは「展示入れ替えのため休館」の案内。
いずれも休館日を事前に確認しなかった方がいけない。
地方から東京まで出掛けていくことは折々気軽にというわけにもいかないだけに自分を笑うしかなった。
それで今回は念を入れて確認し、思いを果たすことができたというわけである。

美術館はこじんまりとして、テーマ展示と常設の2室からなる。
今回の企画1室は彫刻家荻原碌山を語る上で欠かすことのできない無二の親友、戸張孤雁を取り上げる。
孤雁は碌山死後、その遺志を継ぐように彼の粘土を譲り受け、絵画から転向し彫刻制作を始めた。
まず目に飛び込むのは代表作「をなご」。
同伴者はそれに心惹かれたらしく、「この作品が一番好き」と、館を出る間際まで何度も何度も目を近づけていた。
私が最初にこの作品を見たのは1986年(昭和61年)の秋、碌山美術館での戸張孤雁展だったと覚えている。
芸術はあるいは作家は造形の何処までを完成とするか、そんな方向性を強く示唆された作品だったと、今も記憶に残っている。
彫刻以外に油彩、水彩、版画などにも孤雁の多彩な世界が展開されていて、その豊かで深い表現力を堪能することができた。

所蔵品を中心とした常設展第2室には碌山の絶作「女」、そして帯仏作の「坑夫」など。
これらはいつ見ても、何度見ても言葉を発することができいないような張り詰めた空気感を見る側に与える。
ただただ求道師の如き碌山の精神性を感じて見るだけである。
この部屋で特に目に留まったのは鶴田吾郎の「盲目のエロシェンコ」と中村彝の「小女」の2点である。
「盲目のエロシェンコ」の前に立ったとき、「オレ、この絵を見たことがある」と息子。
「私も見たような気がする」もう一つの声。
これは私を含め、三人にとって初めて見る作品、二人が勘違いしていることに私はすぐに気づく。
なぜなら、彼らが見たというのは家にある中村彝の画集の中の「エロシェンコ氏の像」だからだ。
同じモデルを競作のようにして中村彝と鶴田吾郎は並んで描いたのだから、表情や色調も含め作品は似通っている。
タッチが彝の方が強く明瞭なのに対し、鶴田のはソフトで緻密な描写という点で二つには違いがある。
いずれも個の深い人間性、あるいは情感が見事に表現された作品である。
感銘しきりの二人だったが、サロンを出る直前にそのもう一つの「エロシェンコ」のことを話してやると、納得したようだった。

そして彝の代表作の一つ「小女」。
自分の生き方に信念と強い意志を感じさせる目と口元、聡明な中村屋の長女俊子がモデルになった作品だ。
人物の内面性が十二分に伝わると同時に、男としての彝が「小女」に抱く強い思いの丈が筆に込められ表現されている。
彝の俊子への恋は実らず、中村屋との関係も悪化し、失意の中で徐々に体も蝕まれていき、37歳でこの世を去る。

作品数は少ないが、そのサロンは一人一人の作家の息づかいや生き様を肌で感じさせ、潔さと崇高さに導かれる空間だった。
満足である。

ところどころにはまだ銀杏の樹に黄葉が残っている1月の都会に心地よい温かな風が吹いていた。

   目つむりて己れあたたむ冬の旅 (岡本 眸)

盲目のエロシェンコ
              鶴田吾郎「盲目のエロシェンコ」

小女
                        中村彝「小女」
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ルーブル美術館展 「鏡の前の女 」  ~文化のシャワーを浴びに~
- 2015/03/17(Tue) -
ティツィアーノ「鏡の前の女」

文化のシャワーを浴びに行こう、そう思って2ヶ月ぶりに東京へ。

まずは六本木、国立新美術館で「ルーブル美術館展」。
最初に逢いたかったのは『鏡の前の女』(1515)、ルネサンスのティツィアーノが送り出した美女。

想像してみよう。

豊満でなまめかしい白い柔肌。
甘い香りのするやや縮れた長いブロンド。
玉のように輝く深い色の目。
形の整ったやわらかな赤い唇。

頬は紅潮し、胸もほんのり赤らむ。
男が差し出す小さな鏡で顔の色艶を確かめる。
もう一つ大きな丸鏡を彼女の後ろに置く。
乱れ髪はうまくまとめてセットされているか。
濃密な時間を過ごしたあとの二人。
日常に戻すために入念に隅々まで身を整える。
彼女が左手にするのは、香水?
その手に被さる青い布は何だろう。
右手にはかかっていないから彼女の服の一部ではなさそうだが。
小指の指輪と瓶と青い布、何かしらの暗示か。

そういえば、2008年3月下旬にもティツィアーノ先生の作品に感動したことを覚えている。
あれは国立西洋美術館での「ウルビーノのヴィーナス」(1538年)だ。
愛と美の女神ヴィーナスがそのふくよかな白い裸体をベッドの上で艶めかしく横たわる。
極めて魅惑的、官能的な作品であったことが脳裡にしっかり刻まれている。

戻って鏡の前の彼女、実に美しい。
比して髭を生やした身なりのいい彼、名家のご子息といったところか。

可能なら先生にその表現意図を聞いてみたいものだ。
まあ、それにしても500年以上の前にこれだけの見事な描写。
かなわないね、その画力に脱帽。

出て、新宿の喧噪へ。
東急ハンズで買い物。
田舎では手に入らない洗練された諸々の文化を袋一杯に。
自分なりにうまくアレンジして生かそう。
時々、こうして華やかさに彩られた密度の違う空気を吸うと刺激になっていい。

    三月や都会の風にうふふふふ  (あや)

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キク(菊) ~春草の思い~
- 2014/11/02(Sun) -
菊142

赤い菊が咲いている。

「赤い菊」を見ると思い出す一枚の絵がある。
菱田春草の『菊』である。
小色紙ほどの大きさに赤い菊が描かれる。
そしてこの絵を見ると、端座して揮毫する春草の悲痛な面持ちを思い浮かべてしまう。

明治44年、36歳で夭折した春草。
知るところ、この年に描かれたのは4作。
腎臓病に加え、画家の生命である眼疾を患い、失明の危機が迫る中でそれらは描かれる。
『菊』はその一つ。

金地の背景には何も描かれない。
墨を基調にした黒みがかった葉にはたらし込みによるにじみの表現。
花のうち中央の一つだけを薄紫に施した意図とは。

金地に濃彩表現という特徴から、この絵が描かれたのは、六曲一双屏風『早春』と同じ1月頃と推測される。
従って、菊の咲く時期の写生ではない。
つまりは彼の心象写生。
たとえば菊は長寿、そして花の九輪は苦。
たとえば赤は輝く光、そして黒は静かな闇。
病に蝕まれ、弱りゆく己の体への自覚と生への希求の交錯。
この小品にはそんな思いが込められているような気がしてならない。

当時の手紙にはこう記されている。(いずれも部分抜粋)
○(千代夫人の手紙)旦那様も先頃より眼のほうあしく、誠に困入り候。
 先年のよふとは又違ひ両眼ともにはしの方、ぼうとして見えぬ事にて、先年の如く注射致され居り候。
 御承知の如く、治らぬ目に候故、ただひどくならぬ様早くかためてしまふより外致し方これなく候。(3月9日)
○小生正月より前の如く眼疾再発にて此の度は殊に甚敷病ひ居り困却致し居候。
 先頃より全く筆を絶ち諸事打ち捨て療養罷在り候。
 唯今は新聞雑誌等も見兼る様に相成神経衰弱に陥り弱り居り候。(4月2日)
○眼の方も網膜炎は起こり居候為、諸物体明瞭に見え不申候。
 只々少しの起臥動作の際、眼にひかり出で、一分間ほど物見へず暗黒と相成り、夫を前にも心配致し居り候処…。(4月23日)
                                                                      
このあと春草の病状は悪化の一途を辿り、9月16日帰らぬ人となる。

この絵を見る度、私の脳裡には重い病と闘いながら絵筆を執っている春草の必死な姿がありありと映り出されるのである。

   今日はまた今日のこゝろに菊暮るゝ (松尾いはお)

菱田春草「菊」軸装M44作

菊「花部分」

菊「葉部分」

菊「落款部分」
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笛を吹く少年 ~「オルセー美術館展 印象派の誕生 ―描くことの自由― 」~
- 2014/07/20(Sun) -
笛を吹く少年(全)

~2014年夏、世界一有名な少年、来日。~
そんなキャッチフレーズに誘われて、東京六本木へ行く。

その少年は新国立美術館の「オルセー美術館展 印象派の誕生 ―描くことの自由― 」の第1室に居た。

マネの作品「笛を吹く少年」(1866年)である。
鼓笛隊の正装に身を包んだ少年がくりっとした目で横笛に音を吹き込む。
頬がほんのりと紅く染まる。
笛を持つまろやかな手と穴を抑えるやわらかな指。
年の頃は10代前半であることが見て取れる。
画面に配される色数はきわめて少なく、大部分を背景のシメントと服の赤と黒が占める。
それらに多少の明暗の変化は見られるものの、面的な着彩となっている。
光と影により陰影が描かれて立体感が表されているのは少年の顔や手と金属ケースなどの部分。
こうした色面的な表現は、当時彼が憧憬の念をもって所有していた浮世絵の影響なのだろう。
当時はジャポニズムが画家たちの間ではブームだった。
左足から帽子の先を結ぶ直線的な右側のラインに対し、右足からのそれは緩やかなS字を描く。
そこに笛とケースが上方でほぼ直角に交わり画面にアクセントを付けて引き締める。
一見単純な構図であるが、静の中に動を、柔らかさの中に緊張感が効果的に表現される。
描写はきわめての細かな写実というわけではないが、少年の息づかいや体温までもが観る者に伝わる。

他にミレー、モネ、ルノワール、セザンヌ、ドガ、モリゾ、シスレー…等々。
それらオルセーから来た展示総数84点の作品の中でこの紅顔の美少年の前は一番の人だかり。
確かに世界一有名な少年というのに違わないほどに、鑑賞者を惹きつけていた。

  描かれし少年に逢う東京の夏   (あや)

笛を吹く少年(顔)

笛を吹く少年(手)

笛を吹く少年リーフレット1
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バルテュス展(Balthus) ~称賛と誤解…~
- 2014/06/23(Mon) -
夢見るテレーザ1

都立美術館でバルテュス展を観る。
展覧会のリーフレットには挑発的かつセンセーショナルな言葉が散りばめられる。
“称賛と誤解だらけの、20世紀最後の巨匠”~とサブタイトルは謳う。
そして、〈これは本当にスキャンダラスなのか?その核心には観た者しか迫れない〉と煽る。

《夢見るテレーズ》(1938年)
静かに流れる時間の中で目をつぶる少女は頭の上で両手を組む。
見る夢は愛する少年と過ごしたロマンチックなひとときか。
片足を椅子の上に立て、白い下着を露わにする。
両の腕、両の脚と股間は意思を持つかのように全てVの字を作る。
脇では猫が皿のミルクを嘗める。
その舌がピチャピチャと音を立てる。
猫を置くのはそれを性的シンボルとしての意味からか。
性へ目覚める少女が開くエロチシズムの扉。
隠匿された若い肉体とコントロールできないたどたどしい精神の微妙なバランスが描かれる。
危うさと怪しさと密やかな楽しみが広がる官能的情景。
これがバルテュス。

絵画の世界と現実が交錯し、観る者を扇情に導き戸惑いへ落としていく。
眼から受ける奇妙な刺激が体にかすかな律動を与え、通常と異なった不規則な呼吸を促す。

〈これは本当にスキャンダラスなのか?その核心には観た者しか迫れない〉。
私には観た後も、自分の中で〈核心に迫る〉べく、うまく咀嚼した言葉が見つからない。
ただ、テレーズの夢見る顔とその大胆なポーズと猫の動作が脳裡に鮮明に焼き付けられる。

館を出ると、無邪気な幼稚園の子どもたちの列が若い女性教師に導かれて上野動物園に向かって進んでいく。
強い陽射しが人混みの中を駅に向かう私の背中を汗ばませる。

  六月の強き陽射しのバルテュス展  (文)
 
夢見るテレーザ顔

夢見るテレーザ猫
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カキツバタ(燕子花・燕子花図屏風) ~光琳の絵を思い出しつつ~
- 2014/05/28(Wed) -
燕子花図屏風
『尾形光琳 燕子花図屏風(国宝)』
燕子花図屏風右隻
『右隻』
燕子花図屏風左隻
『左隻』

燕子花図屏風を観に行こう。
そう思って、東京青山の根津美術館に出かけたのは先々週の週末だった。
地下鉄銀座線の表参道駅で下車し、「みゆき通り」に沿って歩く。
有名ブランド店やカフェなどが並ぶハイセンスな都市空間に田舎者の私は眼が定まらない。
青南小学校を左に見てほどない交差点の正面に美術館はある。
まずは透視図を見るかのような竹で覆われた壁の長いエントランスが迎える。
その和の様式美の中を歩くだけで鑑賞に向かう意識を心静かにさせる。

「燕子花図と藤花図」~光琳、応挙美を競う~の最終日だった。
入る。
何はともあれ「燕子花図」。
これが光琳。
六曲一双ゆえ、離れて遠くから全体を、近づきそれぞれ左右の隻を。
さらには燕子花の配置と一つひとつの花の描き方を。
江戸のポップなアーチスト光琳の繰り返しの図案を確かめつつ。
色はほぼ金と青と緑、その三色だけで燕子花の生命と咲き広がる空間と紡がれる江戸の時間が見事に存在する。
花には燕子花特有の白いネクタイは目立たない。
左隻に目を凝らせばそれはかすかに描かれているのが分かるのだが、それも抑えられている。
意識したものだろうか。
でも、やはり美術史に欠かせない光琳の傑作。
ぐるりぐるりと一通り見て、また「燕子花図」に戻ると、家人はその前にずっと居た様子。
他の作品を観ることにエネルギーを削がれたくないほどの打たれた感動のようだ。
その昔、春草の「落葉」を見たときも、じっとその前で動かずそうだったことを思い出す。
新橋のホテルで寛いだ時も、しきりに「燕子花図」に出会えた歓びを言葉を駆使して話す。
鑑賞した絵に対してこんなに興奮気味な家人の姿は久しぶりである。
常はあまり美術に興味は示さないだが。

あれから10日、家の庭でも燕子花が咲いている。
数は少ないが、あの光琳の絵を頭で再現しながら見る。
アクセントとしての白いネクタイはどの花にもくっきりと見える。

  よりそひて静なるかなかきつばた (高浜虚子)

カキツバタ1405281

カキツバタ1405282

カキツバタ1405284

カキツバタ1405283
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秋冬山水図(雪舟等楊筆) 《(国宝・室町時代》
- 2012/01/22(Sun) -
雪舟 秋冬山水図(冬景)  雪舟  秋冬山水図(秋景)


雪舟作、対幅の国宝「秋冬山水図」である。
東京国立博物館の階段を上がって左、2室「国宝室」の奥正面に並べて展示されてあった。

日本美術史を語る上では必須の作品として教科書等によく取り上げられる。
資料や画集によって幾度となく目にはしていたが、実物に触れるのは初めてだ。
その前に立ち、まず思ったのは一幅が意外に小さいということ。
47.7㎝×30.2㎝とあるから、新聞紙を二つ折りにしたより少し大きめの作品である。
一般の軸物をイメージしていたので、その大きさは予想外だった。

左が冬景、右が秋景である。
手前を明快にくっきりと描き、奥を淡くぼやかして空気遠近法的手法が巧みにとり込まれている。
墨の濃淡の違いと対象の大きさの変化により、見るものに時間的距離的な空間を感じさせる。
岩山には樹々が立ち、遠くに寺院らしき楼閣が聳え立つ。
一見眺めただけでは、都から遠く離れた山里の静かな景色に見える。
しかし、目を近づけるとそれらは単なる風景描写でないことが分かる。
冬景の下部に目をやると、帽子を被った一人の人物が坂道を上がって行く。
右下の木の横には小舟が泊まる。どうやら、この地は川辺のようだ。
人物が手にしているのは釣り竿か。さすれば、釣帰の場面。
一方秋景の場合、画面中央の右側に向き合う二人の人物が配される。
林和靖(りんなせい)の如き世捨て人と、訪ねてきし友人の語らいか。
こうしてみると、風景に中に点景として人物を置いたことには何らかの意図があろう。
雪舟は禅僧画家である。この絵に禅語的な意味が込められているとしても不思議ではない。
例えば彼の「慧可断臂図」のように。
はたして何を語らんとしているのだろう。
絵ではさまざまな筆致が用いられる。
太くて濃い力強い線や軽く掃いたような線、穂先の割れた線、遠景のぼかしや点描的なタッチなど。
そして特徴的なのは一見、写実的に見えながら、多くはきわめて簡略化された描写であることだ。
細部などほとんど描かれていない。
また、冬景中央に描かれる垂直に伸びた断崖は前後の関係性が不明瞭で、見るものを惑わせる。
さらに、人物全体はクロッキーのような数本の線で描かれ、顔などは一筆書きの輪郭のみである。
まさに、さらりさらりと描いた感がある。
そこが理知的な雪舟の持ち得た技なのだろう。

雪舟と言えば、昔読んだその伝記を思い出す。
お寺の柱に縛り付けられた幼い雪舟が、流した涙を用いて親指で鼠を描いたという話である。
事実はともあれ、小さい頃から絵が好きだったこと、そして優れた描写力を持っていたことを示すエピソードである。

国宝としての価値と魅力…そんな確かさを改めて満喫した冬の鑑賞であった。

   大寒と寒中見舞の教えたり (文)

秋冬山水図(冬景分・人と小舟)

秋冬山水図(秋景部分・二人の人物)
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愛染明王(木造彩色・鎌倉時代・東京国立博物館蔵)
- 2012/01/16(Mon) -
愛染明王

東京国立博物館で見る。

蓮華上に結跏趺坐。
赤い日輪円光に火焔後背。
一面三眼六臂の忿怒形相。
焔髪頭上に獅子冠。
燃えるような真紅の全身。
鋭くつり上がった玉眼。
口の両端には牙上。
力を誇示するかのような腕釧と臂釧。
手には悪を打ち砕く弓矢と五鈷鉤五鈷杵。
煩悩即菩提を象徴する愛染明王。

有無を言わず力を持って導こうとするその迫力に圧倒される。
愛染明王は人の心にある貪欲をそのまま浄菩提心に変えるという。
様々な誘惑と困難を打ち砕く怒りの仏である。

昨日はどんど焼きの炎が高く上がっていた。

つまらん欲望は焼き捨てよう。

   小正月寂然として目をつむる (飯田蛇笏)

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