スミレ 〜野に咲く花のように〜
- 2012/05/14(Mon) -
菫  

「菫程な小さき人に生れたし」と詠んだのは夏目漱石だった。
「野に咲く花のように風に吹かれて 野に咲く花のように人を爽やかにして」は山下清のことだったか。

私もそんなふうに生きたいと思うことがある。

庭の片隅の菫たち。

風が吹けば風のままに
雨が降れば雨を喜び
日が照ればじっと耐え
尋ね来る蟻あればどうぞごゆっくりと

菫 

菫
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アンズ(杏) 〜わかされに立つ・えらぶ〜
- 2012/04/14(Sat) -
アンズ


私の中に「わかされ」という言葉が入ってきたのは、中学生の時のことだった。
「わかされに立つ」(多分そうだった)の随筆が国語の教科書に載っていた。
筆者は忘れたが、「わかされ」という言葉が今でも脳裡の抽斗にあるのだから、よほど心に残る印象深い言葉だったのだろう。
「わかされ」とは「分去れ」、離れること、分岐、分かれ道という意味だと記憶している。
信濃追分にその碑があるのだと著述されていた。
「さらしなは右 みよし野ハ左にて 月と花とを 追分の宿」
右行けば名月姨捨の更科から善光寺へ、左は花一目千本の奈良吉野へと続く道しるべ。
江戸からの旅人がこの地に立って、自分の行き先を確かめたという。
ひとつの言葉から、教室の風景、自分の座席の位置など少年の頃の記憶も甦る。

ところで私たちは一瞬一瞬、人生の中の小さなわかれ道に立っては進むことを繰り返しているのではないか。
右に行くか左に行くか、私たちは知らないうちに自分の人生を創っている。
一瞬一瞬の小さな選択行為の積み重ねが、いつの間にかその人の一生になっている。
例えば、一つの言葉を口にする時、私たちはたくさん知っている言葉の中から、それを取りだしている。
何かしようとする時、たくさんの事の中から、まずそれをしようとする。
私たちは、その時々において、あらゆる可能性に包まれ、そして選択の意志と行動を求められている。
道徳的価値や精神の強弱、表現の世界も最初のほんのちょっとの選び方の違いでどうにでもなってしまう。
しかしまた、選ぶということは、選ばなかった他のすべてをあきらめることでもある。
一度に二つのことは同時にできない。
過去を選び直すこともできない。
時の進行だけは、どうにも選びようのないものとして、その他のすべてを選ぶように私たちに迫る。
磁石がいつでも北をさすように、時と場において一瞬の選択を誤らないような、そんな指針をいつも自分にもっていたい。


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ユキワリソウ(八重雪割草)  〜原風景〜
- 2012/03/14(Wed) -
八重雪割草

15年ほど前だろうか、富田富士也(カウンセラー)氏の文に触れた。
「原風景」と題するコラムである。

 「原風景」 富田富士也

八方手を尽くしてもどうすることもできないことに、人は時には遭遇する。
どんな理不尽、不合理でもただ耐え忍ばなければならない時もある。
悔しさをこらえ、娑婆の孤立無援の現実を背負う時、だれか一人でいい、アドバイスも励ましもいらないから、わが身にしっかり寄り添ってくれる支えがほしい、と人は心の底から願う。
つらく、悲しく、心細く、不安な時、自分を見守り、「見捨てないよ」と傍らで手を尽くしてくれた人との思い出を、私は「原風景」と呼んでいる。
その記憶に支えられていると、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされても、それに思いをはせ、生き直しができる。
だれもが自分から離れていっても、「あの人」は自分を信じてくれる、そう確信を抱けるのだ。 
(以下略)

そのコラムのコピ−が机の中から出て来た。
書類を片付けながら、読み返す。

「あの人」は自分を信じてくれる…。
そういう確信。
「見捨てないよ」…。

なぜ?どうして?と、自分に起きたことのその現実が受け入れられない。
奈落の底へ突き落とされたかのようなとてつもない苦しみ。
そんなはずではなかった、これは何かの間違いだと激しい苛立ちが外に向かう。
そして思考は自己を卑下し能力のなさを責め立てる。
蝕まれていく精神。
自分の中で描くシナリオは暗澹たる結末。

誰にでも起きうる突然の不幸。
誰にでも起きうる耐えきれない鬱屈
誰にでも起きうる先の見えない不安。
誰にでも起きうる容赦ない重圧。

それらを支えてくれる、守ってくれるという「原風景」。

人生の中にも春夏秋冬が廻る。

だから生きる。

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花花花鳥花花草花私 〜今日までそして明日から〜
- 2012/02/14(Tue) -
花   

 黒板   高見 順

 病室の窓の
 白いカーテンに
 午後の陽がさして
 教室のようだ
 中学生の時分
 私の好きだった若い英語教師が
 黒板消しでチョークの字を
 きれいに消して
 リーダーを小脇に
 午後の陽を肩さきに受けて
 じゃ諸君と教室を出て行った
 ちょうどあのように
 私も人生を去りたい
 すべてをさっと消して
 じゃ諸君と言って


やはりあなたらしいですね。
つぎはどうするんですか。
きっともうかんがえているのだとはおもいますけど。
いつもいってましたもの。
きめたことはやりぬきたいって。
じぶんとのまにふぇすとはたいせつにしたいって。
ここまでとここからと、はくせんでらいんをひくようにすぱっと。
そしてさっといさぎよく。
そうですか。
わかりました。
すこしのこころのこりもありますが。
それがあなたのせかいです。
おや、ゆきです。
ほわいとばれんたいんでーになりましたね。
そうそう、わすれていました。
はい、これどうぞ。

  バレンタインデー心に鍵の穴ひとつ (上田日差子)

花  

花 

花
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デンドロビウム(蘭) 〜プレイバックする若駒〜
- 2012/02/13(Mon) -
デンドロビウム

表情は少年少女の昔そのまま。
しかし語り口調がみなやわらかで丸い。
歳月が彼や彼女の目もと、口元を穏やかにしている。
刻まれた皺や頭髪はそれぞれの生活の証し。
シングルライフを過ごしているのも片手以上の数だ。
ゴタの暴露も今となってはすべてが思い出に。
「あれだけは覚えているよ」と披露される私のエピソード。
そういうこともきっとあったのだろう。
大阪、愛知、岐阜、富山…。
33年ぶりに見る顔がいくつもある同級会。
南信州の温泉宿はあの頃の様々な時がプレイバックされ、遅くまで賑やかだった。
次回の幹事3人も決定し紹介される。
「次の会場は沖縄だぞう!」と外野から声が飛ぶ。
実現するかどうかは別にして、何年後がまた楽しみである。

    紫の淡しと言はず蘭の花  (後藤夜半)

デンドロビウム 
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ロウバイ(蝋梅) 〜ヒヨドリと私と蝋梅と〜
- 2012/02/12(Sun) -
蝋梅と鵯

蝋梅はまだ固い蕾だ。
その優しい芳香を楽しめるのはしばらく先のようだ。
そんな事を思いながら白い湯呑みを手に外を眺めている。
と、急に賑やかな声。
臘梅の木が揺れる。
鵯が二羽。
そして彼らがその長い嘴で啄むのは黄色い丸蕾。
丁度飲み込みやすい形と大きさというわけか。
そしてきっと美味しいのだろう。
いくつも口に運ぶその表情を見れば。

私は臘梅の花開くのを見たい。
鵯は蝋梅の味を楽しみたい。
蝋梅は黙って自分を生きている。
あるがままになすがままに。

    鵯の嘴の先に春蕾 (文)

鵯と蝋梅

蝋梅と鵯 
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フクジュソウ(福寿草) 〜いっぽ いっぽ近づく〜
- 2012/02/12(Sun) -
福寿草

ひょっこりと福寿草が顔を出していた。
枯れ色の中に寄り添う黄色。
そうそう、それは春の色。
「君の季節だね」
「今年の土の中の様子はどうだい?」
「蛙君はまだ眠っていたかい?」
「雪割草は元気のようかな?」
見る私も自ずと温かい気分になる。

いっぽ いっぽ 近づく。
何がって?

   ひだまりの 落ち葉の庭や 福寿草  (文) 

福寿草 
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